NOP法人「秀次倶楽部所属」の
左の豊臣秀次公鎧写=鉄製レプリカです。西川秀夫所有ですが、隣の妻あってこその高い趣味です
幻の近江八幡市歴史検定にかかる解説
なにぶんにも、滋賀県は、京都・奈良に並ぶ遺跡の多いところです。近江八幡市近辺にしても、百済寺に象徴されるように蒲生野周辺には百済からの渡来人が住み、竜王には「ツヌガアラヒト=天日槍アマノヒボコ」が引き連れてきた従者(技術者集団)たちが住み、弓削、須恵、鏡等の字名が残っている。苗村神社や「近江與地志略」には、その縁起が残されている。信楽宮や天智天皇や弘文天皇の代には大津京まであったし、滋賀県には古くから開けていた土地なのである。平安時代には紫式部の石山寺や比叡山延暦寺、室町時代には佐々木六角氏や京極氏が近江を治めているが、足利家の内乱等で足利将軍が逃れてきたりしている。戦国期になると、織田信長が安土に城を築くと共に、長光寺には柴田勝家、坂本には明智光秀、長浜には羽柴秀吉、彦根佐和山には丹羽長秀を配置するなど、一時期、京をしのぐ都市になりかけた。それも本能寺の変により露と消えるのだが、庶民は再び、八幡商人としてよみがえるのである。琵琶湖放送が作成した「近江風土記」(DVD6巻)を購入して観たが、いまでも見ごたえがあった。このように近江八幡という地は重層的に古代からの渡来文化のうえに長きにわたって朝廷のあった京都に近く、平安〜室町から近代に至るまで政治の中心に近く、古代には近江王朝、戦国期には安土城もあったほどであるから、近江商人発祥の土台になったのではないかとも想定・推察されるところである。なお、記述の手法だが、ベースに「幻となった近江八幡市歴史検定」の問題を中軸に、それについての解説という方法で記述することにした。
沢潟紋=オモダカ紋といい木下家の紋です。秀次が使いました。