19、額田王の姉は鏡王女で藤原不比等の母である
問題19;六枚橋交差点を南に入るところに住蓮坊首洗池がある。住蓮坊首洗池は、後鳥羽上皇が法然上人の弟子である住蓮坊の僧の首を刎ね、住蓮坊の首を洗った池とされるところだが、その隣地に古墳らしき丘(千僧供古墳群供養塚;古墳出土の短甲・刀剣も千僧供町で保管されている。)がある。その古墳は「壬申の乱で戦死した額田王、鏡王姉妹の父(鏡大王)の墳墓である」とされている。鏡氏は新羅の王子、天日槍の従者の末裔である。鏡の里の真照寺には額田王の父の墓が残されている。額田王は「あかねさす・・・」の蒲生野の相聞歌で有名だが、その額田王の姉であった鏡王女のことはご存じであろうか。中臣の鎌足の妻となり藤原不比等の母となった人物である。では645年乙巳(いつし)の変(大化改新のこと)で政権を蘇我氏より奪還し、百済を支援して白村江の戦いで唐・新羅連合軍に負けた天皇は誰か。近江と深い関係のある人物で額田王の夫です。
@天武天皇 A皇極天皇 B聖武天皇 C天智天皇 D景行天皇 □
解答・・・・・4
<解説>
『興福寺縁起』によれば藤原不比等の母は鏡王女(天智に召され、のち鎌足の正妻となる)とあり、そのため天智落胤説の根拠とされている。つまり落胤説とは不比等は実は鎌足の子ではなく、天智天皇の子であるというのである。『公卿補任』の不比等の項には「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあり、『大鏡』では天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と言ったという伝説(実際に男子=不比等が生まれた)を伝える。『帝王編年記』『尊卑分脈』などの記載も同様である。平安時代まではこの伝説はかなりの信憑性を持っていたと考えられ、また『竹取物語』でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人車持皇子のモデルは藤原不比等とされている。これは、母が車持氏出身の皇子、という意味の名である。歴史学者の間では皇胤説の支持は少ないが・・・
一般には大化の改新といわれる事案だが、中大兄皇子(天智天皇)らが蘇我入鹿を暗殺し、蘇我宗家を滅ぼしたことを「乙巳の変」と言い。都を飛鳥から難波宮に移し、蘇我氏などの豪族政治から天皇中心の政治へと移行させた政治改革のことを大化の改新としているのが最近の教科書である。また、最近では聖徳太子は実在しなく蘇我一族の誰かであろうとか、蘇我天皇とよぶ人物もいたのではないかとされる説もささやかれているが、定説には至っていない。今後の研究を待ちたい。またこの時期は大陸(唐)や朝鮮半島との関係も見過ごすことはできない。なぜなら白村江の敗戦が壬申の乱へと繋がるのだから・・・・・・この壬申の乱は、近江に住む我々には見過ごせない問題である。なぜなら近江王朝軍が勝っていれば都を奈良に持っていかれることもなかっただろうし、近江王朝軍の中には鏡王もいたのである。一説では額田王をめぐる不和が原因という人もいるが眉唾ものである。