7、   坂本竜馬の嫁と再婚したのは八幡商人だった

 

問題7:近江八幡市西庄町出身の商人「西村松兵衛」が横浜で再婚した「西村ツル」は前の名は「楢崎竜」といい、寺田屋のお登勢女将(大津出身)や勝海舟や西郷隆盛とも顔なじみだったと云われる。この「お竜」は前の夫とは九州にも新婚旅行に行ったといわれる。維新を目前に暗殺された彼女の前夫の名前は誰か。彼は明智光秀の子孫ともいわれている。その証拠に彼の家の紋は「桔梗」である。

@     中岡慎太郎 A大久保利通 B西郷小吉 C福沢諭吉 D坂本竜馬   

  解答・・・・・

 

<解説>

 土佐の長宗我部元親と美濃斉藤・明智家は(明智光秀の家老であった斉藤内蔵助利三の妹は元親の正室である。)近い親類筋であった。そのため、山崎の合戦で豊臣秀吉に敗れた明智の一族が土佐に逃れ、「才谷屋」として商人兼郷士になったのは自然のなりゆきであろうか。土佐高知に行ってみると、竜馬の坂本家は明智光秀の子孫として、今も真実として語られている。明智光秀も生き延びて「天海」として徳川幕府の礎を築いた人であるとも云われている。そんな徳川家に大恩ある明智家の人物の子孫である坂本竜馬を、徳川は暗殺などしない。という説もある。そうすると暗殺はどこが指示したのか。船中八策で大政奉還をさせた中心人物であった坂本竜馬が邪魔になった勢力がいたということである。それは王政復古をなし武力による討幕を画策する勢力ということに必然的になろう。

 

●「桜田門外の変」はご存じであろう。幕末の大老井伊直弼安政7年3月3日1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)において水戸藩薩摩藩脱藩浪士彦根藩の行列を襲撃して暗殺した事件である。井伊直弼の首級を斬ったのは薩摩藩の脱藩浪士「有村治(次)左衛門」だが、彼自身も重傷を負い、逃げる途中で力尽きて自害している。彼の一家のうち長兄は後に貴族院議員となった海江田(養子に入る)信義(俊斎)である。次兄が雄助、次が桜田門外の襲撃に加わった本人・三男の次(治)左衛門、そして四男の国彦である。問題は、その四男の国彦の子孫が現在も近江八幡市内に在住しています。血筋であろうか、現在の彼も政治家であり、彼の父も妹も政治家であったので市内の有権者なら誰でも知っているはずです。

それはさておき、「お竜」(ならざき りょう)は坂本竜馬の死後、横浜で旅館の女中をして生活していたそうである。横浜に店を持っていた西村松兵衛と再婚し、生涯を横浜で終える。墓は松兵衛が建立したとある。