17、異形者秀吉と松下嘉兵衛の関係および秀次のこと
問題17;「太閤素生記」に伝わる秀吉が最初に仕えた今川家の家臣の名前は誰か。彼の先祖は、もともと近江佐々木六角の一族で、市内の円山城の城主であったが、その子孫が三河国松下郷頭陀寺に住み着き「松下」姓を名乗った。家紋は佐々木氏と同じ四つ目結である。秀吉との出会いにより、今川家没落後は、家康に仕えていたが、秀吉が貰い受けて大名となった人物の名は。領地であった茨城県伊那町には国の重要指定無形文化財で『小張松下流綱火』というロケット弾のような花火が伝承されている。2006年の年末ドラマスペシャルの「サルと呼ばれた男」で中井貴一が、その人を演じていたが、記憶されているだろうか。
@ 大原雪斉 A大久保忠教 B松下嘉兵衛 C松平元康 D岡部元信 □
解答・・・・3
<解説>
松下嘉兵衛は頭陀に住んでいたが今川家の透破を統括していた今川家の情報組織の長であったという説がある。秀吉も彼(松下)に仕えており、情報収集のため織田信長に接近していたが、桶狭間でまさかの今川義元が戦死したため、やむを得ず、そのまま織田信長に仕えた。ということである。すなわち秀吉は今川家の間者であったという説がある。そこから秀吉を忍者=異形者という図式ができたのであろう。漫画「信長協奏曲」にも弟とされる秀長=小竹の正体も忍者として描かれている。そこから導き出される結論は、甥の秀次も異形者だというのである。そのため過去の秀吉の正体を知っている者を削除していったのではないかという推理も成り得るのである。拙稿であるが、異形者=豊臣秀次公に関する一考察についての文を併せて掲載しておくので、関心があれば、お読みください。
1)、さて 一般的に、人々が知っている「豊臣秀次」公像は、醜聞としての「殺生関白」であったり、また政治的に「謀殺」された悲劇の宰相としての認識であり、また秀吉の甥であるがゆえの苦労しらずの若殿様像であったりする。
しかし、滋賀県内では、いや本市にては、いまや秀次倶楽部の諸氏が中心になり、八幡山下町開町の祖「秀次」公の顕彰をキーワードにして全国に八幡山下町を売り出そうと一生懸命である。大河ドラマのなかで「秀次」公を偉人・善玉だったとして描いてほしいという署名も集めて陳情もされたこともあります。
豊臣秀次は、我が町の開祖であるから、りっぱな人であってほしいという感情は理解はできますが、通史として歴史に残っていることを、それは間違いだったと覆すにはよほどの反証資料が必要である・・・(そもそも秀次や秀吉のおいたちは何者であったのか)そのことから、解明していこう。
2).異形の者(=秀吉)のこと
秀吉の出生については諸説あるが、「絵本太閤記」・「太閤記」・「真書太閤記」など後世に創作されたものであり、そのほか秀吉が関白になったとき右筆でお伽衆の大村由己に書かせた「関白任官記」や「天正記」、その他では「太閤素生記」、「豊鑑」(竹中半兵衛の子重門の作)などがある。通常、研究家が秀吉の史料として参考にするのはそういった書物であるが、こうした文献にはねつ造が多いと言われる。
ちなみに「太閤素生記」という書物があるが、述者は稲熊助右衛門という中村代官の娘で幼時、秀吉の姉「とも」やその弟らと遊んだ人で、彼女は老後、その養子の土屋知貞に自分の村から出た稀世の運命のもちぬしのことを語り、それを筆録させたものという。
貧しい農家に生れ、天下人となったこの人物の素姓はほとんど分かっていない。秀吉について確実な史料が現れるのは、1565年(永禄8年)秀吉が28才になってからだという。この年、織田信長が出した知行安堵状の副状に、始めて木下藤吉郎秀吉の名が登場するのである。従って、あれこれ想像する余地は十分あるのだが・・・。 さて、史料に基づいて秀吉の系譜を探っていくと、まず秀吉の母の「なか」であるが、彼女は「太閤素生記」によると尾張国愛智郡御器所(ゴキソ)村出身で、関弥五郎兼定の娘であるという。御器所から椀などを作っていた山の民(木地師)を連想するのはたやすい。さらに、関氏は鍛冶師であったとする所伝もあるが、どちらも異能集団としての山の民である。この関弥五郎の系図をひもとくと、長女が杉原家(秀吉の正室お禰の実家=お禰の父は杉原定利)に嫁ぎ、三女は青木家(その子は紀伊守となる)四女は加藤家(加藤清正がでる)に嫁いだことになっています。ですから「なか(仲)」の姉からみれば孫にあたる「お禰(禰々・祢ともいう)」を、妹の長男・藤吉郎に嫁がせたということになります。
余談だが、福島正則の実父・星野新左衛門は秀吉の実父とされる「弥右衛門」の兄弟であることが『落穂集』に記述されている。すると弥右衛門は木下という苗字ではなく星野ということになる。また、秀吉の正室お禰の実家=杉原家は別称を木下といいますがこれは、後日、秀吉から与えられたものだ(お禰の兄家定が秀吉から木下姓をもらう)ともいわれていて、実際のところよく分からない。
晩年、秀吉は自分の母は萩の中納言の娘で禁中にも使えたことがあると「天正記」に書かせたぐらいであるからして・・(当然これは嘘だと思うが。)
また、正史では、この木下家定の子に秀俊という者がありその後、秀吉の養子になる。(のちの小早川秀秋となる人物)さらにお禰や木下家定の妹に「やや」という人がいて、浅野長政の嫁となるのだが、・・・・。 とにかく、秀吉が「異形の者」であったことは確かで、秀吉の指が6本あったとかいう類いの身体的異能ではない。しかし「異形の者」とは、かわった風体をしている人とか異能者(不思議な能力を持った人)を指していう言葉であり、すなわち「まつろわぬ民」=漂泊者・山の民・海の民或は鬼といわれた人々のことなのである。 後年、千利休が秀吉のブレーンとして登場するが、彼の出身地「境(堺)」もまた鬼のアジールであったことを記憶に留めていただきたい。
さて、話をつづけると、「なか」が再婚した相手は織田信秀(信長の父)の茶同朋であったとされる「竹阿弥」なる人物であるが、これはねつ造だろう。秀吉らしい経歴詐称というべきで、多分と想像するが、竹阿弥とはずばり竹編みの意味を指すのではないかと考える。つまり竹を編んで竹細工をつくる職業の者のことである。「茶せん」「ささら」者といえば賎民の別称となるのである。
このように「太閤素生記」の記述を読むと、その言外に、さりげなく真実が隠されているのがわかる。たしかに異端の説だが、少なくともそう解釈することは可能である。
一方「太閤記」などを元とした秀吉側の親族はというと、姉の「とも」とその夫の「弥助」=尾張国大高村の農夫(のちに秀吉から三好武蔵守一路と、名を変えさせられて尾張犬山城主となる)、そして二人の間に、「秀次」「秀勝」「秀保」の三人の子が生まれている。上二人の「秀次」「秀勝」は秀吉の養子となり、「秀保」は秀吉の実弟の「秀長」の養子となっている。また秀吉の実妹の「旭(あさひ・あさともいう)」は中村在の百姓源助(のちに秀吉により佐治日向となのるが)に嫁いでいたが、長浜に移住してまもなく夫・佐治日向が亡くなり、お禰の叔父の杉原七郎左衛門家次(長浜時代の羽柴家の家宰をしていた)の世話により秀吉の家臣の副田甚兵衛と再婚したが、政略により別れて徳川家康の室となる。
そのほか、秀吉の養子達として前述の「秀次」「秀勝」「秀俊(秀秋)」の他に「(結城)秀康」「(宇喜多)秀家」「秀勝(織田信長の四男・於次丸)」「八条宮(智仁親王)」と淀殿との間に実子「秀頼」がいる。「鶴松」なる子もいたが三歳で病死している。 なにはともあれ、「太閤記」などが、ねつ造であるという部分は、「幼名は日吉丸といった・・云ぬん」の箇所からも分かろう。貧しい水呑み百姓の子に「幼名」などあろうはずがない。明らかに後世の創作である。容貌が「猿」に似ていた所以か、もしくは自他ともに「猿」と称したことへのこじつけで、日吉山王権現につなげたとは考えられないだろうか。(尾張愛智郡と近江国愛智郡を関連付けて何か関係があるのではないかという説や秀吉は日吉神社の猿丸系勧進聖であったという説もあり、少なからず秀吉は長浜城主になる以前から近江とは関わりの深い人であった。また、秀吉の側近となる武将の殆どは長浜時代に召し抱えた近江人だったというのはよく知られているところである。)
「太閤素生記」にいう『(松下嘉兵衛)浜松ニ至ル道ニテ猿ヲ見付、異形ナル者也。猿カト見レバ人、人カト思ヘバ猿ナリ。嘉兵衛笑テ吾ニ奉公スベキカト聞ク、畏ル由、夫ヨリ浜松ヘ連行ク』こうして、少年の頃から38種類もの職業を転々として生きてきた秀吉は遠江国の頭陀寺城の松下嘉兵衛に3年間仕え、下っ端から出納役にまで昇進し「菊」という女性まで嫁とったとある。また嘉兵衛から尾張中村の出身なので中村藤吉郎という姓までつけてくれたとある。しかしやがて、松下家を出て、信長に仕えるのである。一説には、秀吉の能力を見込んで、今川家(松下嘉兵衛は今川家の家臣)の「らっぱ」 として尾張織田家に潜入させたとも言われるが確証は無い。しかし戦国時代では、勝馬に乗るための裏切りは当り前のことである。多分そうなのだろう。後年、秀吉はその恩義に報い小田原戦後、嘉兵衛を1万6千石の大名に取り立てたのは有名な話である。(このことは、後述の検定問題の中にも登場する。)
秀吉の出世の大きな契機となったのは、墨俣城の築城と稲葉山城の奇襲であるが、その成功を支えたのは川並衆の蜂須賀(小六)彦右衛門正勝や前野将右衛門のはたらきであり軍師の竹中半兵衛重治である。なぜ彼らは、信長からの仕官の誘いを断り、当時はまだ名もなき足軽頭である秀吉(藤吉郎)の幕下に加わったのか。墨俣築城では2000人からの川並衆をはじめとする川の民や木地師などの山の民の異能集団がいきなり秀吉の部下となって活躍しているのである。不思議な事実だが、以後注意してみると必ず秀吉の周囲には異能者集団がブレインとしているのである。黒田官兵衛にしても元は近江佐々木氏の庶流で江州伊香郡の出であったとしても祖父の重隆までは目薬の製造販売をしていた薬師である。以上これらが正史では光の当たらない秀吉の「陰の系譜」というべき部分である。とりあえず、これらのことを伏線として念頭において話を「秀次」のことに進めていきたいと思います。
3)青年「羽柴秀次」時代と近江八幡に関係する人物たち
羽柴秀次(当時はまだ、羽柴孫七郎秀次と名乗っていた)と近江八幡の関わりは、紀州雑賀及び四国の長曾我部攻めの功により、天正13年(1585年)に当地に近江43万石の領主として入部してより、天正19年(1591年)に、「関白・豊臣秀次」として京都の聚楽第に入るまでの6年間(28 歳の 全生涯のうち18 歳から24歳までの6年間) である。
前年の天正18年には、小田原戦役平定により全国で大掛かりな国替えが実施されそれに伴い尾張・伊勢100万石・尾張清洲城主に転封(加増)となっているが、小田原戦後そのまま引き続いて奥羽平定に向かっており、京都に凱旋しているのは翌年の11月であり、その12月に秀吉が太閤となり、秀次が秀吉の後継ぎとして「関白」を宣下され、京都の聚楽第の主となっており、尾張清洲城には一度も落ち着いていないことになる。
豊臣秀次のことについては、後でもう少し詳しく述べたいと思う。そのまえに、秀次というより秀吉に関係する二人の人物が、この近江八幡市と関係していることが、今回これを作成するため、書籍を調べていたら判明したので、(余談だが)先にそのことを述べておこうと思う。
一人は、秀吉(藤吉郎)が最初に仕えた今川家の家臣「松下嘉兵衛之綱」である。松下家は、宇多天皇を祖とする近江源氏の六角佐々木氏から出ており、六角佐々木氏の庶流で近江丸(=円)山城(現在の近江八幡市円山町)の城主であった西条氏から高長(たかなが)という人物が、三河国碧海郡松下郷に住み着き「松下」を名乗ったとされている。家紋は、佐々木氏の四ツ目結である。そして秀吉が仕えた松下屋敷には津毛利神社がありご神体は住吉大社と同じ海の神様である。天竜川を利用しての水運も発達していたといわれている地域でもある。総合すると頭陀寺には湊が置かれ、曳馬城の外港的役割を担っていたと指摘する人もいるぐらいである。そうすると松下氏の性格も単なる土豪ではなく水軍と解釈されるべきであろう。秀吉が常に川や山の民と関わりを持つ姿がここでも見られるのである。秀吉が非農業民であったとする説が強いが(私もそう考える一人である)それゆえ、水軍を持つ松下氏を奉公先に選んだとは考えられないだろうか。松下氏は当時のハイテク技術を持った職能集団を抱えていたと史家に見られているからである。なぜなら、「松下嘉兵衛之綱」の子「重綱」は、現在、茨城県伊奈町に国の重要指定無形文化財となって伝承されている『小張松下流綱火』というロケット弾のような花火を作ったという史実があるからである。
松下嘉兵衛之綱は今川氏滅亡後は家康に仕えていたが、そのことを知った秀吉は自分の家臣としてゆずりうけ大名にしたのである。しかし、之綱なきあと重綱は関ケ原合戦では山内一豊らと共に東軍に加勢し、常陸国小張(現在の茨城県伊奈町)の城主となる。この時、領民に伝えたのが上記の花火である。また松下氏は重綱→長綱→長光と二本松、三春と栄進し、その後、高家旗本として明治維新までその血流はうけつがれたのである。すべては「秀吉」との出会いからである。なお余談だが嘉兵衛之綱の末娘は柳生十兵衛・宗冬の母となる。このことから松下家は今川家の透破を管轄していたという説も納得できる。そのうちの一人としてサル(後の秀吉)がいたのではないだろうか。 さて、もう一人の近江八幡と関係のある人物とは誰れあろう、秀吉の主人となった「織田信長」その人である。
織田氏の出自が、越前国丹生郡織田郷の『織田剣神社』の神官であったことはいまや定説となっている。社伝によれば、弘安四年(1281年)元寇の役で功あった織田剣神社の神主・忌部親行が後家人となり織田荘の地頭を務めることとなり、その後、守護大名の斯波氏に従って尾張に進出、親行から六代目の織田常昌が尾張八郡の守護代となり、尾張織田家は主家分家など多く別れたが、信長はその常昌から11代目にあたるとされている。
当時の神職は、明治以降の神官と違い加持祈祷もする修験者のようなものまで含んでいたことと考えあわせれば、信長の祖先は金属技術集団と深い関わりがあったことになる。まず、地名の丹生からして製鉄・金属との関係を推測させるものである。また中世にあっては金掘りは船をあやつる川の民でもあった。つまり、信長の祖先がそうした存在であった場合、秀吉に関わる人は「山の民・川の民」の系譜にみなつながるのである。そのことを留意しておいていただきたい。そしてまた、話をつづけていこう。
当時はまだ、源平交代思想というものが世の武将達に信じられていた関係かよくしらないが、織田信長は「平氏」を名乗っている。それは、織田氏系図によれば、織田氏の始祖は平資盛(すけもり)から出ている「平親実(ちかざね)」が初代であるということからである。
平親実は壇ノ浦で死んだ平資盛(平重盛の二男、重盛は平清盛の嫡男)の第二子であるが、平家滅亡のとき生後ほどもない乳幼児であったが、その母某が津田の豪族の娘であったことから、親実をふところに抱いて近江にのがれ、近江津田郷にかくまわれた。その後、越前織田剣神社の神主が(津田)親実の境涯をあわれみ織田の養子にしたというのが、織田信長が祐筆に命じてつくらせた系図である。
歴史書を読んでいると、織田信長の周りには津田信澄(信長の甥・弟信行の子)をはじめとして津田姓の親族衆が多く登場してくるので、ご記憶に留めておいてほしい。当初は私も、なぜ「津田」姓なのかと疑問にも思っていたが、家系をひもとくと、その理由もなんとなく分かった次第であります。
近江の「津田郷」とはすなわち現在の近江八幡市である。北津田町と南津田町のどちらだったかということまではよく分からないが・・・。(推測で云えば南津田町ではなかっただろうかと思う。現に、郷土史家の南津田町の西川新五良さんが、顕彰の碑を建設している。ついでに言うと、中ノ庄も本来は津田中ノ庄である。)
とにかく、秀吉に関わる二人の人物の出自が近江八幡市に関係あったのだということは、覚えておいても損は無いだろう。
さて秀吉に関わる人物で、秀次以外にこの近江八幡市に城をもった人物をご記憶だろうか。この人物は一時的な城主であり、この近江八幡市に深く関わっていないことから、本市の歴史のなかでも埋没させられていることが多い。その人の名は柴田勝家である。
永禄11年(1568年)に足利義昭を擁した信長は入京のため近江に侵入以降、近江平定に、坂本に明智光秀、佐和山に丹羽長秀、長光寺に柴田勝家、安土に中川重政、野洲永原に佐久間信盛、長浜に木下秀吉、安曇川に磯野員昌の七部将を配して分封支配したとある。この間、元亀元年(1570)の姉川の戦いや、元亀2年(1571)の比叡山焼き打ちなどもおこっている。その後、安土については信長の居城がつくられ、中川重政は元亀3年で失脚し、長光寺城の柴田勝家については、天正5年(1557)北陸の上杉氏に対抗するため転封(長光寺城は廃城)させられていくことになるのであるが。…いまに伝わる「瓶割柴田」の名はこの長光寺城に由来する。そしてその城のあった地を現在でも『瓶割山』と呼ぶ。このことは、別に「検定問題」として項を興しているので、後述することになろう。さて、寄り道はそれぐらいにして『秀次』の事に移ろう。
『秀次』は、尾張国大高(鷹)村にて、母瑞竜院日秀(秀吉の姉「とも」)と弥助夫婦の子として誕生している。そのころの名は「次(治)兵衛」といった普通の百姓の子として育っている。
しかし叔父である秀吉が出世して大名になると、7歳で両親とともに長浜城に引き取られ、すぐ秀吉の配下であった宮部継潤の養子となり武士の子としての教育を受けている。その頃になると安土の城づくりも行なわれており、秀次は実際に行って見聞もしている。12歳の時、秀吉の御伽衆であった阿波の名族三好康長(盛んな頃は京に武威を振るっていたが信長に駆逐され、没落し秀吉に老残の身を寄せていた)から姓をもらい『三好孫七郎秀次』(弥助・とも夫婦を養子にし、夫婦だけでなくその夫婦の生んだ子も孫にし、三好家のあととりとし世襲名である孫七郎を名乗らせたのである)と改名する。父の弥助も三好武蔵守吉(長)房(一路浄閑)と名を与えられる。その後犬山10万石の諸候となるも『秀次切腹事件』に連座して讃岐に配流となるがこれはもっと後のことである。
ともかく、秀次は幼き頃より叔父秀吉の庇護のもと、厳しく武士として育てられたことは確かである。秀次は奇運の恩沢をうけはしたが、彼なりに努力もしているのである。
叔父の秀吉に伴われて十代の半ばから合戦に参加している。むろん最初から一方の大将である。本能寺の変(1582)以降、天正11年(1583)16歳で元服したのちは、伊勢の滝川一益を攻め、また近江賎ガ岳合戦で柴田勝家と戦い、河内二万石の所領をもらっている。 しかし、こうした合戦には、補佐役としての老将達が全てとりしきっており大過はなかった。また大功もなかったので賎ガ岳七本槍ともいわれる合戦史の中には名さえ載っていない。
彼が戦局を・・・というより歴史を左右するほどの行動をもったのは、翌年の天正12年秀吉と家康が対戦した小牧・長久手の合戦のときである。この時、秀次は遊撃軍の総大将であったが、田中吉政など老将(秀次付き武将)の進言を聞かず、木下利直・利匡兄弟、や池田勝入父子、森長可などの猛将を戦死させて敗戦したのである。
この時、勝っておれば後の徳川幕府は無かったともいわれるぐらい重要な戦いであったのである。この秀次の失敗に対して秀吉は激怒し、強烈な訓戒の手紙を秀次宛に送っている。
また、翌天正13年(1585)には紀州雑賀や四国攻めの功により近江八幡43万石に封じられるのであるが、しかし、前の合戦に懲りた秀吉は、秀次にはいずれも秀吉が織田家の将校の頃から手飼いにして仕立てあげた、中村一氏、堀尾吉晴、一柳直末、山内一豊の四人の大名を宿老として付けたのである。そのおかげで紀州・四国攻めにも大過なく勤められ羽柴の姓も許され、近江も与えられたのである。余談だが「功名が辻」で有名な山内一豊の妻「千代」は近江町の出身であり、田中吉政も北近江出身ということを頭に入れておいてほしい。さらに言えば、秀次の教育係=家老は、蜂須賀正勝の弟分であった前野長康(秀次切腹時に殉死している)であった。
さて、『秀次』の八幡山築城であるが、地政学的にいうと、秀次が八幡の地を選んだのではなく秀吉がここに城を配することを決定したのであろうことは容易に推測されるところである。この年、秀吉は関白に就任しており、近畿一円に一族と近臣配置しその政権基盤を固めた秀吉は自身が信長の後継者であることをアツピールするために、一族の居城に織田家しか使用できなかった「金箔瓦」を使用させている。
この秀吉の「金箔瓦」の全国ネットワーク網は政治戦略としてもあったことが近年判明しているが、「かわらミュージアム」でそのことを秀吉・秀次にちなんで展示してもおもしろいと思うが・・・・。
八幡山築城と同時に進行した山下町であるが、この築城や町割は主に宿老の田中吉政(後の徳川時代には筑前柳川城主となる)、堀尾吉晴などが担当したといわれている。廃都となった安土の城下を移転させ、近郷の住民を集めて職人町や問屋町を作ったとされている。そしてこの時の町の形態が現在の近江八幡の基盤となっているのである。ゆえに、近江八幡の市民は秀次をして開祖と呼ぶのである。
ちなみに、後年秀次という保護者を失った八幡山下町の住民は、活路を行商に求め天秤棒を担いで全国に行脚し「近江(八幡)商人」の発祥の地となったと当市の観光パンフ等には載ってある。これに水をさすわけではないが、すでにこの時代以前から、近江商人は全国的に有名であり、通商に影響力を持っていたことは歴史家の間では常識である。
古代より近江は日本の中心にあり交通の要衝であり、琵琶湖から全国八方へと道はつながっていくのである。(であるからして 『古事記』ではここを「天の八巷(やちまた)」と呼んでいるのである。)主な街道だけでも十指を数え地理的好条件にあったが、中世には、これらの街道に数多くの市庭(いちば) が開かれるようになる。この市庭の発達とともに室町時代には座商人の活躍がみられるようになる。早いものでは枝村(現豊郷町)の美濃紙商売本座や横関の御服本座が有名である。なかでも戦国期には佐々木六角氏や延暦寺の保護をうけ近江の座商人の覇者となったのが得珍保の保内商人である。しかし、この保内商人を中心とした近江商人の発展も思いもかけずに頓挫する。すなわち織田信長の近江侵入と楽市楽座の定めであった。これにより特権的座制度は廃されたが一面それは自由な商業活動を促すことにもなった。
織豊時代には、商業活動の中心は一時期、堺商人の手に移ったが、江戸時代には再び経済活動は近江商人の手に握られていくのである。すなわち近江は「近江(八幡)商人」の出現を待つまでもなく商業・経済活動の中心であったのであり、以前からその土壌があったということになる。堺商人が没落していく原因の一つに近江出身の武将石田三成が堺奉行になったことにあるという人もいるが、真相は定かでない。よく関ケ原合戦を評して豊家の「近江派」と「尾張派」の戦いであったというが、戦で負けて実をとったということであろうか。これは太平洋戦争で負けた日本が経済で勝ったということと似てはいないだろうか。これは差別用語として死語になっているが「江州泥棒伊勢乞食」という言葉があった。江州商人の通ったあとには草も生えないという悪口と同じであるが、なぜ、このような偏見が生れたのか探る必要はある。強い財力、猛烈な勤労精神を持つ近江商人の進出によりつぶれてしまった商人がいかに多かったかという、その証ではないだろうか。自由経済の原則に従えば商売は競争である。競争に敗れた商人の方が悪いということになる。競争に打ち勝った近江商人こそが称賛されるべきである。事実この江州商人の商業道徳や商道哲学は江戸期以来の商人の手本ともなり、今日の日本の経済界にもその思想は流れているのである。ゆえにいま日本は世界中から憎まれ袋叩きになっているのでは・・・。歴史は繰り返すである。もういいかげん意識を変えてもよいと思うのだが・・・、先見性も近江商人の特性の一つであったことを忘れないようにしてほしいと思う。
秀次の町づくりは、八幡山の一画を切り崩して沼地の水を抜き、町の西半分を占める沼地を埋め立て、埋立地の町並には上下水道を作るなど、広範な土木工事を伴うものであった。秀吉も八幡築城についてはなみなみならぬ関心を寄せ工事の進捗について書簡(秀吉朱印状・京大所蔵)を寄せている。秀次時代には「八幡山下町(さんげちょう)」といい、京極高次の時にはじめて「八幡町」と称している。周知のことと思うが、町は商人の住むところ、村は農民の住むところ、山は武士の住むところという観念が支配していたと考えられるのである。秀次は安土の住民(主に楽市楽座によって保護されていた商人)に呼びかけて八幡の町づくりに参加させている。現在に残る町名には安土の地名が多いのはそのためである。また先規により当八幡山下町も「楽市・楽座・諸役免除」とされ、これが後年、八幡城が廃城となっても、既得権として長く効力を発揮し、当地の発展に大きな影響を及ぼしていくのである。特に信長や秀次に従った商人達は楽市楽座令によって保護された政商であり、ゆえに進取の気性に富んでおり安南屋・シャム屋などの屋号をもつて海外にも進出していったのである。彼らを第一期の近江八幡商人とするなら、江戸期〜幕末の近江商人は第二期と考えてよいかと思われる。ついでに地名のことで言えば、宇津呂は、全国で播磨と近江の二か所である。播磨の宇津呂は陰陽師の一大中心地(芦屋市の芦屋は陰陽師の芦屋道満からきている)であったことから、当地もその系統を引くものと考えられるのである。芦屋道満のライバルと言われたのが「恋しくばたずねきてみよ・・・・」で有名な葛の葉狐伝説の安部保名・清明親子である。なぜ、陰陽師のことを触れるのかというと、秀次あるいは千利休事件では、秀吉・秀頼を呪狙したとの嫌疑がかけられていたからあえてその脈絡に言及しておこうと思った次第である。
さて、天正13年に近江八幡(八幡山城)の城主となった秀次は、翌天正14年に、池田恒興の娘を妻とし、(後に亡くなり、後述するが、大納言菊亭晴季の娘一の台といわれた資子(ともこ) を正室とした)、今に伝わる八幡山下町定書を発布している。
この天正13年から天正19年に関白となり京都に住むまでの6年間の八幡城主時代の(天正18年には尾張清洲100万石に転封となるが、奥州に出陣中であった。実質は5年間ともいえる。)『秀次』はまさに、青年武将であった。小田原や奥州や九州鎮圧に一軍の大将として転戦して武功をあげている。後年噂される「殺生」関白とは、まったく違った人物像として町民には映っていたであろうし、本市に伝わる資料等にもそのことはうかがわれる。市の観光バンフや郷土史研究会の方々の執筆されたものにもそのことはくわしく書かれているので興味のある方は参考にご覧くださるようお願いします。
さて、秀次に悲劇がおとづれるのは、関白となり京都に住んで以降のことである。
4),「関白・豊臣秀次」としての悲劇
天正13年、秀次が八幡城主となる年に、秀吉は『関白』となっている。これには後年、秀次の義父となる右大臣菊亭大納言晴季が朝廷に働きかけたとされ、また前大政大臣近衛前久の養子に秀吉をし「藤原」姓を与えて『関白』となしたとある。のちに朝廷から「豊臣』姓を賜るのであるが。とにかく菊亭晴季の働きにより秀吉は「関白」となりまた「太閤」となるのである。そして秀次はというと秀吉の後継ぎとして豊臣姓に改め「豊臣秀次」として「関白」を宣下されることになる。
当時の武将の間では、源平のどちらかが「征夷大将軍」となるという慣習があったが、秀吉はそのどちらも継いではいなかった。そのため武家最高の称号「征夷大将軍」のかわりにと、菊亭晴季が忠言し、奔走して前代未聞の「関白」となることができたのである。 秀次のことに触れるにはもうすこし、この大納言「菊亭晴季(はるすえ)」のことについても述べなければならないだろう。なぜなら、秀次の切腹事件にこの人も重要なキーマンになるからである。菊亭晴季をして朝廷内の豊臣派プロデューサともいう。
菊亭晴季の朝廷内の努力によって、秀吉が藤原秀吉となのり「関白」となることができ、また朝廷から「豊臣』姓を賜り「太閤」となることができたのも史書の示すところであるが、この菊亭晴季という人物の関係者には、なかなか面白い人々が周囲にいたのである。まず、お菊御料人と呼ばれる「菊亭晴季の妻」であるが、彼女は武田信玄の妹である。武田信玄の正室は公家清華三条公頼(さんじょうきみより) の娘である関係から武田信玄の妹が傍系の晴季に嫁いだものだろう。さらに晴季とお菊御料人との間には子がいて、そのうちの一人の娘は真田昌幸の妻であり、真田信之、幸村の母である通称「山の手殿」といわれた人である。またもう一人の娘は、秀次の正室となる一の台・資子(ともこ) である。秀次は当初池田恒興の娘と結婚するが病死してしまい、その後添として一の台・資子が正室となるのであるが、その娘ともども秀次事件に連座して三条河原にて打ち首となる運命にある。
菊亭晴季は、血縁だけでなく交友関係も、広くすごいものをもっている。例えば、吉田神社の神主吉田兼見、連歌師の里村、権中納言の観修寺晴豊、前関白の近衛前久など。この四人は「本能寺の変」のときの陰の人物たちである。また、千利休・千宗易などとも交流している。であるからして、秀次の切腹事件の裏には、この菊亭晴季が秀次の義父であったことも関係しているのではないかと考えられるのである。つまり菊亭晴季が秀次の後盾となっているかぎり、関白・秀次政権は安泰となるからで、それを恐れた一派による謀殺とも考えられなくはないのである。
では、秀次を陥れた一派とは誰なのかを、これから推察していくことにしよう。
秀次の悲劇は、お拾=のちの秀頼が誕生した時からという人もいるが、私は近江八幡城を去ったときからと考える。すなわち、天正18年の全国平定に伴う配置転換がそれである。秀次の家老として付けていた水口の中村一氏を駿河の駿府城へ、佐和山城の堀尾吉晴を浜松城へ、山内一豊を遠州掛川城主へなどと四人の宿老を秀次から離し、代りに近江出身の武将木村常陸介重滋(大阪夏の陣で活躍した木村重成の父、木村重成は馬淵村に居住していたとも言われている)を付けたときから始まったと考えるものである。
また、実際の秀次公の切腹の真相というものも詳しくは分からない。秀次公が「殺生関白」と都人に呼ばれるようになったのは、正親町天皇が崩御し、その喪のあけないうちに比叡山で狩りを行なったからだと言われているが、それがどうも後年の偽造くさい。彼は白銀5000枚を朝廷に献じておりまた、教育文化活動にも熱心に取り組んでおり、秀次を処罰する程の理由は見当たらないのである。これは秀次の事件と相前後しておこった千利休切腹事件にもいえることである。なぜ秀吉は豊臣政権に必要なこれらの人材を切り捨てたのであろうか。これは裏話として伝わっていることだが、すでにこの時期秀吉は梅毒に侵され正常な判断が出来なくなっていたというのである。これにはなんら証拠はないが、後年、秀吉は目を患い、幾度か有馬温泉に出かけているのが気に掛かるのである。
秀吉が寝小便を垂れたというのもこの頃である。有馬温泉に秀吉はよく通ったというがこれは病気の治療ではなかっただろうかとも言われている。
とにもかくにも秀吉は朝鮮出兵計画に専念する必要から、自身の政務負担の軽減を図って養子の秀次に関白職を譲り国内の統治を代行させたのである。だが、ここにきて秀吉の弟の秀長の死、それに続く、秀長の養子で秀次の弟にあたる秀保の急死、また岐阜宰相とも呼ばれた秀次の弟で同じく秀吉の養子となった小吉秀勝(秀勝という名によほどの未練があるのか秀吉は三人の養子に同じ秀勝という名をあたえている)もこの頃に亡くなっているのである。これらは偶然なのかはた又陰謀なのかは定かでないが、とにかくほぼ同時期ぐらいに亡くなっているのである。(大和の豊臣秀長・秀保に仕えた藤堂高虎が関ヶ原では徳川に味方した真意は案外ここら辺の謎にあるのではないかと思われる。)そして最後のひとりであった秀次も死罪となる。こうして豊臣家は滅亡していくのである。ただし、例外として小吉秀勝の娘=完子は、九条家に嫁ぎ、その子孫は公家社会に大きな足跡をのこし、現在の天皇家へと血統が伝えられていくことになるのである。
また、仮に秀吉が梅毒に侵されていたとしたら、その頃誕生した秀頼は誰の子なのだろうか。(・・これはあくまでも仮説での話である。正史では絶対に否定されるであろうから。・・・)
そこで仮説ついでに、もし秀頼政権が誕生していず秀次が政権を執(と) っていたなら、歴史はどうなっていたかということを、シミュレーションしてみたいと思う。
5),仮説「秀次政権誕生」
前述したように、秀次には豪傑といわれた近江出身の武将・木村常陸介がついており、この人物は秀吉には石田三成といわれたと同じような立場にあり、石田三成よりも人物としては格は上であったように思われる。秀次にはおかしな収集癖があり、柴田勝家の金の纏や武辺者といわれた者の戦場装束をあつめていたが、そのなかに木村常陸介の陣羽織も含まれていたという。伝聞もある。
さて、関白となった秀次であるが、最初から秀吉の後継者として存在していたのではない。秀吉には多くの養子がいて、その養子全部がライバルだったからである。しかし幸運にも秀次には多くの有能な家臣や、ブレーン・人脈が存在していたのである。
前野将右衛門長康も秀次派の有力な一人であった。前野将右衛門は墨俣城以来の秀吉の家来であり蜂須賀小六とともに使えたいわば譜代衆である。その彼が秀次派にいたということは、すでに秀吉の後継者と秀次は見られていたということである。(実際にも、秀次事件に連座して前野将右衛門ともに切腹させられているが・・)
伊達政宗も秀次と一才しか年が違わないことから、秀次とは仲がよく親交があったし、細川忠興も秀次とは借金の借り入れなどするぐらいの交流をもっていたと史書にある。このふたりも危うく秀次事件に連座するところであったが機知により切り抜けたとある。
『豊臣秀次』を姓名鑑定すると天格24,人格13,地格13,外格24,総格37となりすべてが吉数。申し分のない名前なのである。若くして頭領となり、性格は明るい。もし晩年まで生きていれば、温厚誠実な人柄が人々の信頼を勝ち取り、おそらく文化学術面の庇護者として、名君になれた人物であろう。ということである。もし秀頼が生れなかったら十中八九、秀次・政宗政権ができていたに違いないといわれている。そうすれば徳川家康の目もなく、歴史も大幅に変わったはず・・だろう。
そうすると、当時においてもすでに秀次政権の基盤は完全に整備されていたことになる。秀吉が朝鮮侵略中に九州名護屋城から秀次宛に送った手紙(朱印状)にも、そのことが書かれており、うかがえるところである。
個条書きにすると『1,秀次を明国の関白に就任させ、日本の関白は羽柴秀保にする。2.秀次には北京のまわり百カ国を与える。3.高麗総督は羽柴秀勝か宇喜田秀家をおき、九州には羽柴秀俊(秀秋のこと)を置く。4.天皇を北京へ移し御料所として十カ国を献上する。後継の日本の天皇は周仁皇太子か智仁親王(秀吉の養子となった八条宮のこと後に桂離宮を作った)にする。秀吉自身は、寧波(ニンポー)に居を構える。』というものである。無知の産物か、天皇すらも巻き込んだこの明国征服計画書は、もはや妄想の産物としかいえない代物である。しかも、これが日本の最高権力者によって発表されたのだから冗談ではすまされないのである。滞陣中の武将たちの間でもこの一件は大いに話題となったとある。歴史は繰り返すと言うが昭和に入って中国侵略を行なった遠因も案外このへんにあったのではないだろうか。妄想的人格の持ち主が国民の支持を受けるケースはままある。ひょっとするとアジア侵攻の夢は秀吉個人あるいは一部の軍部だけの夢ではないかもしれない。
それはともかくとして、秀吉が太閤となって以降、急速に彼の老いと狂気と悲劇が始まっていく。天正19年、公私ともに彼の腹心であった千利休を切腹させ、翌文禄元年(1592)には朝鮮出兵を決意する。そして文禄5年には、謀反の罪で甥の秀次を高野山で切腹させ、妻妾30数名を三条河原で処刑したときは、誰の目にも彼の狂気は明らかとなった。そして悲劇は彼の狂気を誰も止めるものがいなかったということである。よき補佐役であった弟の秀長も亡くなり、秀保、秀勝、さらには蒲生氏郷、大政所そして千利休と次々と歯が抜け落ちるようにして、秀吉の周りから人物がいなくなっていくのである。
秀次の側近の一人に、熊谷大膳亮直之という武将がいた。彼は熊谷次郎直実の後裔で家はかつての室町幕府における譜代の名家であり若狭の城主でもあった。その彼は秀頼誕生の時から秀次の将来に危惧をもち、それとなく用心するように秀次にすすめている。つまり秀頼誕生と同時に豊臣政権下の権力争いが水面下で行なわれたと見るのである。
もし、秀吉が没し、秀次の代になれば、秀吉付の石田三成らは権勢を喪失せざるをえない。逆に三成らの政敵であった木村常陸介らが威権の座につく。それを防ぐには、いそぎ秀次を失脚せしめ、嬰児の秀頼の継嗣権を確立しておくことである。さればこその謀略による対立「治部少(三成)のざん言」説もあるほどの陰謀説が世間で流布されたと考えられる。また秀吉自身も自分の老衰を知り秀頼の幼さを考えたとき(理性の梁のはずれてしまった秀吉が)秀次を殺して禍根を断とうとしたとも考えられる。
ともかくお互いの疑心暗鬼も手伝い、秀吉と秀次の溝は急速に深まり、秀次などは外出時には必ず秀吉からの襲撃に備えて供のものに甲冑を用意させていたといわれているぐらいである。事態はそれほど深刻であったことがよくわかる。熊谷大膳亮などは秀次に、座して死を待つより、むしろ逆に伏見を襲い太閤や淀殿・秀頼を殺し、一挙に政権を安定させるべきである。その兵略はこうである。と進言までしている。(関白には七手組といわれる近衛軍たる2万の軍団がいたはずである。それを動かしていたら歴史は変わっていたかもしれないのである。)
そのころになると、武将達も注視して両人の動きを見張っていたのである。家康なども江戸に帰る際、京に残った世子秀忠に対して「太閤と関白の間に兵戦あらば、太閤に味方せよ。太閤万一にして落命すればすみやかに大阪にくだり、北政所を護衛せよ」と言い残しているぐらいである。
すでに世間がそこまで過熱しはじめている以上、秀次も動かざるを得なくなり、熊谷の意見を容れ、朝廷に白銀5000枚を進納するのである。将来、成り行きによって秀吉を倒した場合、すみやかに新政権を承認してもらう用意であった。これが文禄四年七月三日である。このことが即、伏見に洩れて詰問使がやってくる。これは死の使者である。白銀進納から二日目のことであった。
このとき、秀次が使者の要請を断り出ていかなければ、まだ時間は稼げたであろうし、その間に合戦の準備も可能ではなかっただろうか。秀次の母「日秀=とも」や北政所のとりなしや工作も行なわれたであろうから、切腹させられずにすんだかもしれない。また、しばらくはおとなしくしておれば、いずれ太閤も亡くなり、秀次の復活もありえたかもしれないのである。なにせ、今風に『豊臣株式会社』でいえば、秀次は社長であり、秀吉は会長で秀頼は専務にあたるわけで、社長派と会長・専務派の派閥争いという構図が浮かんでくるのである。そして狂気に支配された会長を倒すことは『豊臣株式会社』を倒産から救うことであり、正義という大義名分は社長派にあったと見ることが出来るのである。
千利休という会社相談役もこうした狂気の会長の方針に逆らい反対したために切腹させられたと見るのが正しいのではないだろうか。弟の豊臣秀長も病死とはなっているが、朝鮮侵略に反対派だから、処分されたという見方もされる。秀吉の老害はそこまで浸透していたのである。こうして次々と反対派を粛正していった専務派だが、会長が亡くなると同時に、狸の常務にしてやられることとなるのである。
後日の関ケ原の合戦時に、社長派と目された武将が多く常務側についた。これは前述したように細川忠興など秀次の疑獄に関連し、あやうく同罪となりかけたときの三成への恨み・・・実際には秀吉とその政権への恨みが、秀吉の死後、彼らをして家康に走らしめる結果となったのであることをご記憶に留めていただきたい。俗に言えば秀次事件は、世に言う『殺生関白』だから起ったのではなく、『豊臣株式会社』内のお家騒動であったわけである。つまり秀次側からいえばクーデターをする前につぶされてしまったというのが真相ではないだろうか。秀次が世間から学問好きの関白殿といわれていても、しょせんは戦国の武将であり、かつ安土の信長の気風を色濃く引き継いだ人である。死に向かっても平然と碁を打っていたというエピソードは、なにかしら信長をほうふつとさせるものがある。 本市の近江八幡を開町した「秀次」公を、市民には、それでこそ開祖であるという誇りを持ってもらいたいと願うものであるがゆえに・・・・・。
歴史にifはないが、もし秀次が政権を打ち立てていたらどうなったであろうか。
考えられる有力な幕僚となるのが、蒲生氏郷である。彼も秀次事件の前に急死しているが、毒殺だったという説もある。蒲生氏郷の天下への野望を警戒されて石田三成(ここでも石田三成が出てくる)らに謀殺されたのではないかという話もあるぐらいだ。少なくとも、彼、蒲生氏郷は秀次とは親交があったし、千利休の高弟でもあった。蒲生氏郷は近江日野の出身で、織田信長の薫陶をて受け成長している。信長の楽市楽座・商人育成策を目の当たりにして育った氏郷は、日野、伊勢松阪、会津若松と領地が変わるたびに、城下の商人育成に努め、近江商人の育ての親ともいわれる人物である。そこには、民を富ませ自らも富むという領国経営に当たって卓越した才能を有し、いわば天下人として不足のない気質をもった人間であったことが想像される。だが、そのことがかえって時の権力者豊臣に警戒され、時の権力によって圧殺されていく悲劇をここにみるのである。
戦国時代の親子関係の気風というものは、現代の平和に慣れた我々では想像することもできないぐらいシビアで厳しいものがあった。例えば、結城秀康が徹底的に父の徳川家康に疎まれたのは、秀康が父をしのぐ牙を持っており、家康にとっては常時警戒を絶やすことのできない身内の敵(ライバル)だったからである。また六男の松平忠輝にしてもそうであったがゆえの運命である。忠輝は伊達との関係から家康に冷遇されている。
話を氏郷と秀次の関係にもどそう。近江八幡城の城主だった秀次は、商人の保護にも尽くそうと、氏郷の楽市楽座を活用した商人育成の方法について意見などを聞いている。
蒲生氏郷も秀次と同じく織田信長の業績に憧憬し信長の政治を踏襲しようとしたひとりである。
ゆえに、石田三成などは、極端に氏郷と秀次の結び付きを恐れたと思われるのである。 なお、余談であるが、石田三成・前田玄以などの奉行派は、豊臣秀長・千利休及び今井宗久、津田宗及とも対立をしており、天正19年正月に千利休の最大の擁護者豊臣秀長が病死すると、同年2月すぐに千利休を失脚させ処罰し切腹させているのである。千利休に少し遅れて今井宗久、津田宗及もこの世から消え失せているが死因は明らかでない。確かなことはこれを境にして堺商人が没落していき、文治派とされる5奉行らの中央集権派が台頭し秀吉の政策決定に大きな影響力を行使するようになっていったことである。そして後は、石田らの奉行派の次の標的は、秀次を中心とする勢力であったわけである。
お拾を中心に豊臣家の中央集権の支配を画策する石田派からみれば、氏郷や秀次は、千利休一派や徳川家康や前田利家ら分権派と同じ様に、油断ならざる強豪である。派閥で分ければ、あきらかに石田派とは相容れない立場にたつ一人であった。この時、蒲生氏郷は徳川家康や前田利家に次ぐ天下三番目の大大名であり千利休の高弟子でもあった。ゆえに彼・氏郷が四十歳で病死すると「蒲生殿は石田治部らの手の者に毒を盛られて殺されたそうな」という物騒な流言が民衆の口から口へと伝播していったのである。
そして、さらに追討ちを掛けるように石田ら五奉行の手で蒲生家の取り潰しの画策がされ蒲生鶴千代(秀行)に対しては太閤の朱印状による会津の知行地剥奪と跡目相続の資格喪失までが沙汰されたのである。これはその事件の前に、家康の娘と蒲生鶴千代の婚姻をめあわせる条件で鶴千代の相続の許可を関白秀次が与えたところであった。その直後の事である。いわば真っ向から石田派は関白秀次の権限を否定する挙に出たのであった。
秀次の側も、だまって指をくわえて見てはいなかった。ただちに蒲生鶴千代に対し「家督相続の件はもとどおり認める。安堵するように・・・・」との通達を出した。
秀吉や石田らによって否定された関白職としての権限を、秀次はさらにもう一度はね返してのけたわけである。氏郷の遺児・蒲生鶴千代と遺領を火種にして、秀吉や石田派らと秀次の対立は、一挙に燃え上がっていくのである。
つまりこの時期、豊臣政権は、関白秀次と太閤秀吉の二重政権になっていたのである。太閤というのは関白職を隠居した者つまり会長職であるが実際の会社の運営は社長(関白職)が行なうものである。秀吉は秀次に関白職を譲りはしたものの、政策の実施にあたっては、一々関白職を通さねばならなかったため、ジレンマに陥っていたのではないだろうか。そのために関白職を秀次から取り上げようとしたとも考えられるのである。そのことに気付いていれば(気付いていたかも知れないが・・・権力の魅力に未練があったのか・・・どうか、その点はよく分からないが・・)秀次としても早く手を打つことができ、切腹などしなくても良かったかもしれないのに・・
秀次は史実でも、文芸・学問を愛好し公家との交際も上手で、宮中での評判も悪くはなく「文の君」と呼ばれていたと言われているのである。実際豊臣政権は公家政権である。また、秀次が秀吉と同じ異類・異形の系譜に属することも忘れてはならない。なぜなら彼もまた陰の出身なのだから。それゆえに秀頼の誕生とその秀吉の溺愛ぶりに自分の立場がどうなるか、を考えていくうち次第に心のバランスを崩していったともいわれるのは後世のねつ造とも考えられるのであるが、真実は分からない。 なにせ小牧・長久手の戦いでは徳川家康に惨敗を喫し、池田恒興や森長可といった武将を打ち死にさせて秀吉に手討ちにされかかった過去が彼にあったからである。
この秀次を邪魔だと思うようになったのが淀殿と石田一派である。秀次を排除するために謀反を企んでいると虚説をでっちあげるのである。秀吉がこれを信じたかどうかは疑問であるが、しかし秀頼のために何でもしてやりたい秀吉にとっては、その真偽はどうでもよかったのである。このあと秀吉は狂喜の沙汰ともいうべき断を下すのである。
さらに、それからしばらくして今度は、秀次の実弟の豊臣三吉秀保(秀長の養子となっていた。秀長が死んだ後その遺領を相続している)の「不慮の死」(文禄4年4月)である。秀保は大和の十津川で急死しているが、秀次と木村、前野ら側近が細作を放って調べたところ、その下手人は大阪城に入ってかくまわれたという。いずれ秀保が秀次の扶翼となり、お拾(秀頼)の敵に回ることを恐れて始末されたであろうことは明白である。秀次の切腹はこの秀保の怪死からわずか3ケ月後である。まさに泥泥の権力闘争である。
この少し前の文禄の役にては丹波少将「豊臣(小吉)秀勝」(秀次の実弟)が朝鮮に出兵途中に巨済島で病死(文禄元年九月)している。また文禄元年には、秀次の擁護者であった祖母の大政所が亡くなっている。このように秀次の悲劇は秀次を擁護してくれるはずであった伯父秀長、祖母大政所、実弟(小吉)秀勝・秀保という身内や千利休・蒲生氏郷などの有力者を次々と失っていったことにある。また伊達政宗さえ秀次事件に連座して処罰されるところであったのである。彼もまた一味と目されていたのである。
高野山追放の前に、秀次を伏見に召喚しながら(秀吉は)面会せず、釈明の余地を与えなかったのは、謀反の事実関係を問い詰める必要が無かったからに違いないのであり、それゆえ「謀反」はあくまでも処罰の名分であっただけということになろう。
(その点、黒田官兵衛は上手であった。秀吉が官兵衛を警戒していると知るとすぐに剃髪して隠居し、家督を長政に譲って中央の政界から身を引きつつ天下を狙ったのだから。) 秀次は伏見に召喚された折、側近の熊谷大膳に抗戦を献策されたが「大罪人とされようと秀吉公の御意次第」と語ったというが、これをもってしても秀次には秀吉と対決する意志がなかったことは明白である。この時期、秀次には七番隊からなる「関白衆」軍団が秀吉から預けられていた。この軍団は有事の際の出陣を予想した関白秀次の直属軍である。朝鮮遠征に全力を傾注しようとした秀吉が国内の治安保全のために秀次に総指揮をまかせたもので、秀次が存分に働けるようにと豊臣政権の軍事統率権の象徴ともいうべき黄金の瓢箪(ひょうたん) の馬標まで譲ってもらっているのである。だから明智光秀と同様に本能寺を再現しようとすればそれは可能であったのである。だが、秀次はそれをしなかった・・・
三条河原で処刑された秀次の正室一の台は「秀次公には謀反の意思などゆめゆめなかった。すべては石田三成らに謀られてしまった。でもこの上は潔く死にましょう」と覚悟し『心にもあらぬうらみはぬれぎぬの つまゆえかかる身となりにけり』と詠んだのであるが、この心境は秀次も同じであっただろうと想像する。この秀次一族に加えられたむごい仕打は京の人々を震撼させ町中に『天下は天下の天下なり。今日の狼藉はなはだゆるしがたし』という落書が張られ、秀吉最大の汚点として、民衆の大非難を浴びたのである。
これは、北政所の甥である「金吾秀秋」にも云えたことである。木下家定の子として生れたが伯父秀吉の養子となり一時は秀吉のおぼえめでたきも、お拾(秀頼)が生れてからは、豊家から厄介払いされて他家(小早川家)へ追いやられたのである。もしこのあと、関ケ原合戦がなければ、おそらく秀次とおなじく、病死の名の下に密殺されるか、いずれは難癖付けられ左遷閉門、悪くすれば切腹という事態に追いつめられたであろう。このことの恨みが「金吾秀秋」にはあって石田方の西軍にはつかなかった(躊躇した)ということは歴史の示す事実である。
ついでながら説明しておくと、また最上義光も伊達政宗と同じく秀次の切腹事件に際しては、秀次に加担していたとの嫌疑で拘禁された一人である。最上義光の二女の駒姫が秀次の側室となっており、その駒姫も京の河原で処刑されているのである。最上義光の愛娘を失った悲しみは深かったと『最上義光物語』にある程である。義光の嫌疑は晴れ拘禁も解かれたがその処置の恨みと憤り消えず、故に関ケ原では東軍に組みしたのである。このように当時の秀次派というべき武将のほとんどは関ケ原合戦では反石田派になったことは記憶に留めておかれたい。
とにかく、秀吉の死後豊臣家は滅びることになるが、なぜ滅びることになったのかというと秀吉自身が築いた政権運営システムを自らが破綻させたからである。秀次の切腹後、秀頼に対して大名から忠誠の誓紙を提出させ政権を一本化させようとするが、覆水は盆には返らないの例えのとおりとなってしまったのである。
ともあれ、将来、豊家の藩屏となるはずの甥たちの存在を、お拾(秀頼)可愛さのあまり葬り去ろうとする秀吉と石田ら五奉行に対して、この時点で秀次が降りかかる火の粉は払わねばならぬとして、武力でもって叛意すれば、どういう結果になったであろうか。
おそらく太閤秀吉の生存しているうちの挙兵は失敗に終ったであろう。恐らく徳川家康らの有力大名は秀吉の味方についたであろう(それを承知していたがゆえの、以後の秀次の高野山までの消極的とも云える行動であろう、と想像するのであるが・・。)しかし秀吉の死後の政権取りであったならばその結果は分からない。政権を奪取していた可能性もある。
もう一つ仮説として連想できるのは、石川五右衛門の釜茹の刑である。文禄3年8月に三条河原で五右衛門ほか一族19人が処刑されている。たかが盗賊でこれほどの刑はめずらしい、と山科卿の日記にもある。もし五右衛門の陰に秀吉暗殺計画があったとしたら、そう考えれば翌年の7月に、時間は違うが同じ場所で豊臣秀次一族の処刑劇があった理由も理解できそうである。でもこれも秀吉側の狂言だとする人もある。秀頼に跡をつがせるだけならなにも秀次一族にあそこまで残酷な事をする必要などなかったはずなのに。 いまに残る「殺生関白」の名も、秀次には「ご乱行を繰り返す悪逆非道な男」でいてもらわねば、秀吉のした行動を正当化できなかったからである。事件当時から秀次に同情をよせる声が公家や民衆のなかにも多かったのも事実である。乱行や陰謀・謀反の話が秀吉側のデッチ上げであったといっても過言ではないだろう。そのときの権力者により、いつの間にか偽言が「歴史的事実」として定着してしまったからだと思う。(そろそろ全国的にも、殺生関白秀次の評価を考え直してもらう時期にきているのかもしれない。) この時点でのターニングポイント・ifは、お拾(秀頼)の誕生を機に、一切の官位・職権を返上し、「父吉房と母とも」のいる犬山に引きこもって、時節を待つことであったと思う。それも歴史の動きを見ているからこそ解ることであるが、・・・
名目は何とでもいえよう。それゆえに秀次の母ともは弟秀吉宛に書状をしたため老臣・中村一氏にもたせたのである。「当の秀次自身、おのれの不徳はよくわきまえており、学問にせよ、武技にせよ、政事にせよ、太閤の信任に応えるべくそれなりの努力は払っているが、未熟はやはり、いかんともしがたい。この際、一切の官位・職権を辞し、一武将にたちかえり豊家の固めたる本分をつくすよう太閤より秀次にお申付け給るまいか。・・・太閤の仰せに背くなどということはゆめゆめ、ありえず、なにとぞ誤解があればそれを解き、秀次の身柄ひとつにて老父母の手にお返しいただきたい。」だがその書状は、時既に遅く、太閤からの詰問使がすでに京に向かっていたのである。このあとの行動については歴史の示すところであるが、この書状が詰問使より先に着いており、また秀次も朝廷への献金などせず太閤に謀反の疑いをかけられるようなことをしなければ、まだまだ生き延びられる可能性はあったと考えるのである。
母「とも」のいうとおり、犬山に引き込んでさえいれば、時代は「秀次の復権」を必要としたに違いないのである。そうなれば、徳川家康の出番も無かったに違いない。なぜなら、秀吉に対する秀長の関係ように、秀頼には秀次という身内の補佐役が豊臣家と豊臣政権にはまだまだ必要であったし、また彼、秀次のまわりには、木村常陸介・重成親子、前野出雲守長重・長康親子、稲葉典通、服部春安、一柳右近将監らの勇将といわれる側近衆をはじめ、守役の田中吉政・中村一氏ら宿老連、それに伊達政宗、蒲生秀行、前田利家、細川忠興、最上義光、毛利輝元、浅野幸長らの有力武将大名や、結城秀康、小早川秀秋、宇喜多秀家らの秀吉の元養子組(兄弟衆)が付いていたからである。さらに、秀次の剣の師となっていたのは、剣聖と言われた上泉伊勢守信綱の高弟で足利義輝にも剣を教えたといわれる神後伊豆守宗治であり、刀槍術の師は、同じく上泉伊勢守信綱の高弟で、疋田陰流の開祖となる疋田文五郎である。このように、そうそうたる人物が豊臣秀次の周囲にはいたのである。ちなみに、彼らの兄弟弟子に柳生石舟斎がいるわけで、後年いわれるような徳川家康と柳生一族の関係のように、秀次にも陰の流れのような組織はあったのではないかとも想像されるのである。これまた蛇足であるが、織田信長における森蘭丸のように秀次と不破伴作、蒲生氏郷と名古屋山三郎という陰間(男色の相手)の話などは世にきこえているところである。
また禁裏には顔の効く正室一の台資子の父である菊亭大納言がいた。八条宮もいる(逆に云えば、謀反すれば一大勢力となり成功も可能と思われた。それゆえの急いでの秀次の処罰であったと見ることができるのである。ちなみに、後年史実では秀次の守役であった田中吉政は関ケ原では東軍についたばかりでなく、伊吹山中に隠れていた石田三成を見つけだし捕えたのは田中吉政の手の者であったとある。それほど同じ豊家の家臣であった者たちだが、秀次事件に対する恨みの根は深いものがあったと見ることができる。田中吉政も近江出身の武将であることは前述のとおりである。このように近江人は秀吉・秀次政権には数多く存在した。)
このとき太閤秀吉が死に、秀頼の後見人として秀次が復権したならば、日本はどうなっていたであろうか。おそらく徳川家康は操縦しやすいと判断して賛成支持したであろう。こういったシミュレーションを考えるとついつい想像してしまってわくわくしてくるのであるが、それはifが起った場合の話である。この手の話は私自身大変興味があるので、また時間があれば小説風にして書いてみたい気がするが、ここではやめておくことにしよう。でも、いま私の考えている構想の概略だけを示せば、(折角いい発想をしたので、このままお蔵入りさせておくのもおしい気がするので、少しだけifしよう)
〇朝鮮出兵の中止と講和
秀次が、母ともや北政所のとりなしにより、一命をとりとめ、高野山から、八幡山に引きこもって(1595年)難を逃れて後、3年後の慶長3年(1598)8月に秀吉は大阪城で生涯を終える。この時、秀頼6歳である。
本来(史実)なら三条河原で秀次とともに処刑された秀次の娘が秀頼の正室となって大阪城にいる。(史実では家康の孫千姫がその役についている)史実でも、この秀次の娘は、秀頼の誕生三か月目にして秀吉が決めた縁談の婚約者であって、このとき秀吉は秀次に日本の五分の四を与え、五分の一を秀頼に残すことを約束しているのである。
秀次は、秀吉の死後ただちに、菊亭大納言らの人脈を使い、関白に復権し(ちなみに、豊臣姓で関白になったのは秀吉と秀次のふたりだけである)また親交のあった伊達ら武将の武力を背景に秀頼の後見人として、朝鮮出兵を引き上げさせて、明・朝鮮と和睦する。 この頃の時代になると「政権は実力のある者がとる」という戦国時代の常識も薄くなり一層中央集権化が進んでおり、また国内で産出する金・銀の豊富さによる貨幣経済が発達している時期である。北政所(後陽成天皇から賜った名前は豊臣吉子「よしこ」)の助力もあり(これには母ともの陰の支援による)豊家子飼いの加藤清正らの武将や秀秋・秀家ら豊家の親族衆も秀次に協力してくれることになった。また亡き弟秀保の家臣藤堂高虎や小吉秀勝の家臣団もいる。但し徳川家康は無傷で関東を領して虎視耽耽と天下を狙っているが・・・。また秀次には、秀吉が作った異能集団を動かせる人物がいた。例えば側近の前野長康氏であり、また父である弥助(農民とあるが実際は「つなさし」=鷹匠の配下の者と『祖父物語』にはあるぐらいだから非農耕民である。徳川の本多正信も鷹匠であったとされる異能の仲間)である。また叔父にあたる杉原家次も元は尾張津島の行商人であったし、秀吉の継父も阿弥号を持つ時衆の徒であり方外人(世間の外の人という意味で、賎民階層の人々を指す)であった。また黒田官兵衛の祖父は広峰神社の目薬屋で財をなした近江人であり諜報組織を持っていたとされる。竹中半兵衛も鍛冶屋や木地師に影響力をもっていたという。(実際、史実では秀吉の葬儀が京都で行なわれたとき寺には異形・異類の者が多くあつまってきたとある)
これらの人々が秀吉に力を貸したからこそ、天下を望める強力な秀吉軍団ができたのである。その遺産=異能者といわれる職能集団である非農業の人々の力を秀次は継ぐ資格を持っていたのである。繰り返し言うが、卑しき身分の者で関白までなったのは秀吉と秀次だけである。それは暗黙のなかで秀次が歴史の中の陰の者達の棟梁(頂点)に立つということである。
〇重商主義の発達
ゆえに、朝鮮から撤退した秀次は、期せずしてその民衆のエネルギーを交易へ向けたに違いない。この頃、日本は異能者達のおかげでゴールドラッシュに沸き立っており、秀次は有り余る金銀を中心に流通経済に切り替えたであろう。もちろんその中核は近江商人である。堺の商人も海外に雄飛するだろう。石高では家康の二百七十万石と大差ない直轄領しか持たない豊臣政権だが、国内の経済都市や港湾、貨幣の原材料となる金銀銅の鉱山を直轄領とし、また米の売買を独占し需要の大きい畿内の米価と東北・北陸の米の相場を変動させ利益を得るなどしたに違いない。生糸の買い占めなども近江や堺の商人達の助言や指導により行なうことができた。そういったことにより豊臣政権は財政的に安定していたし巨大な利益を博していたのである。史実でも秀次は伊達家や細川家・加賀の前田家、毛利家など19家の大名に金を貸していたというぐらいであるから商才にもたけていたのである。
また、伊達政宗や蒲生秀行(氏郷の子)などは早くから海外へも目を向けており、アジア・印度方面への遠征・貿易にも熱心であった。2〜3年もすればオランダ・イギリスの東インド会社に匹敵する国策貿易会社を樹立して膨大な利益を国際的環境の中で生み出していくのである。
秀次の執行する豊臣政権の特徴の一つは、このような経済活動が商人層を中心に行なわれたところにある。またこの商人達の発言権が海外進出と合せて開かれた日本人町を背景に政権内で飛躍的に増し、政権の実務層にまで参加できたのである。(これは先の秀吉時代の千利休や曽呂利新左右衛門にその例を見ることができる)秀次には呂宋(ルソン)助左衛門が味方する。
これは、史実であるのちの徳川幕府では「士農工商」の身分制度で締め付けられた商人ではこうはいかなかったのである。一方、その政敵の徳川家はどういうことになるかというと、後の鎖国制度から推察して、関東に押え込まれたまま、農業に基礎を置く政策を遵守していたに違いなく、それはこと財政・財力の面からみて、数年もたてばもはや豊臣政権に太刀打ちすることは不可能となっていたのである。
少なくとも、今日に残る同和問題の発生は豊臣政権下では起こりえなかったのである。
〇アジアの大海運国に・ヨーロッパ艦隊との対決
国内的に安定した豊臣政権は、活発に海外への貿易網を広げルソン・スマトラ・シャム・カンボジア・安南とネットワークを拡張し、津々浦々に日本人町を建設したのである。 ついにスペイン・ポルトガル・イギリスなどのヨーロッパ諸国との間にアジア貿易の利権がぶつかりあうまでの貿易国となり、アジア各地で小規模な武力衝突を繰り返していきスペイン・ポルトガルなどの拠点を次々と潰していくことに成功する。
豊臣政権では先の朝鮮の役に懲りていたので、海外貿易で入手した最先端知識を取り入れた信長並みの鉄甲戦艦を建造し大艦隊を組織する。そしてはじめにルソン・ボルネオを攻めイスパニア(スペイン)勢力を一掃する。この頃には当時の日本の軍事力・経済力は東アジアにおいて最強のものとなっており、強力なスペイン艦隊と戦っても勝利を得るのは十分に考えられるところであった。 太平洋を横断してメキシコ(西アメリカ)にも行くことが可能であった。
総督府をマニラに置き、南海総督には藤堂高虎あたりを任命し、スマトラ・カンボジアなどに点在する日本人町を結んで来たるべきイギリス・オランダなどのヨーロッパ勢との対決に備える。
一方では、占領地域に独立権を認め、時に産業の育成にも手を貸して、交易の優待権を獲得するだろう。八幡商人の西村太郎右衛門もここに登場させよう。角倉了意もいる。この人物は秀次には好意をもっていた京の大商人のひとりである。
さらに豊臣政権の勢力範囲は遠く、豪州(オーストラリア) やニュージランドに及び日本の最前線基地となる。
そして慶長年間には、インド洋上において、豊臣艦隊は、希望峰を迂回してきたイギリス・オランダ連合艦隊と制海権をめぐって大会戦を演じることになる。・・・その結末はまだ未定である。空想は無限に空想を呼ぶが、できれば本宮ひろ志氏の『夢幻の如く』をご覧あれ。
〇第三次大陸出兵
ついでに言及すれば、明国は秀吉の二度による侵略により疲幣しており半世紀後には、満州族(金の後裔)女真の長ヌルハチに率いられた清王朝に滅ぼされるのであるが、この時、明国の遺臣や鄭成功から援兵を求められる。弾む体質の豊臣政権では、この機に東南アジアだけでなく大陸進攻にも乗り出していったと考えられはしまいか。豊臣政権は一時的ではあろうが中国大陸への進攻を成功させ、朝鮮や大陸湾岸の都市を支配下に置いた可能性はある。少なくとも香港のような権益は確保したであろう。これは武力ではなく政略の問題である。
〇国内統治
また、秀次にとっての最重要事項である国内統治はどうしたであろうか。
すでに秀吉の死亡により、淀一派の石田三成ら五奉行や秀次に敵対した福島正則らは失脚させられており、替わって文治派として登場するのが、同じ近江閥ながら石田三成のライバルであった木村常陸介・重成親子や秀次とともに殉じるはずであった側近達である。彼らは日本の近代的閣僚の基礎となり、発言権を増してきた商人とともに政権の中枢を握ることになるのである。
また、武断派とされる有力大名や家康シフトの新配置も完成されるであろう。全国をブロック制にして、大名たちの知行地を一国単位で整理し、代官を設置しつつ政治・経済上の重要部分を中央集権化していく方策をとるであろう。したがって豊臣政権が長期化すれば近代的な統一政権=郡県制へと移行していき、支配の中央システムは近代的官僚機構をもちはじめると想像することができる。
このようにif〔もし〕秀次が政権をとっていたならば、日本はアジアを席巻し、世界で最初の産業革命を経験した国となり、延長線上にいる現在の我々日本人もまた、全く別な気質をもった日本人になっていたかもしれない。・・と結論するのである。なぜなら鎖国は無かったのだから。でも、どこかで、もとの歴史の緩やかな大河の流れに押し戻されていたかもしれないとも想像する。結局、歴史というものは「夢のまた夢」というどうすることもできない幻の流れなのかもしれないが・・・・
秀次と八幡のまちづくりと、秀次の人間関係と周囲の状況について調べた。
秀次のことを述べるのならばその叔父である秀吉の生い立ち、出身から述べる必要があり、これまたいろいろと寄り道をしてしまった。秀吉の出自を述べると言うことは、同腹の姉「とも」とその子秀次の出自にも関係してくるからである。
今に残る村雲御所の村雲は秀吉の法螺話(秀吉皇胤説)からきていることも調べていて分かったことであるが・・。秀次の謀反・切腹事件も、通説化しているような秀次が乱暴者で「殺生関白」といわれたからでは無いことが分かってきた。つまり現代の騒動で言えば、豊臣株式会社の会長派と専務派が共同して社長派を追い落とすために、社長の女性関係のスキャンダル=「殺生関白」という評判をでっちあげて世間にバラまいたと考える程度のものであった。史実では専務派(淀・秀頼派)が社長派(秀次派)を失脚させ、豊臣株式会社の政権をつかむことになるが、逆にここでifを使い、会長が死んで社長派が巻き返して実権を握ったらどうなっていたかをシミュレーションしてみた。この手法はなかなか面白く癖になりそうである。また時間や機会があれば、異形の者たちと陰の流れ(これは前にも言ったかと思うが、日本の歴史の陰の流れとも鬼とも言われた一般に我々の側の賎民史と同義である)とまた秀次のその後の政権奪取後のつづきなども含めて、小説風にして「仮説・秀次政権」を書いてみたいと思うが。いつになることやら・・・・、
余談だが、後の鄭成功などは日本国の君主は「関白」だと思っていたと史料にあるが、もしあのとき軍事行動を秀次が起こしていたならば、日本は関ケ原と同じぐらいの規模で全国を二分しての戦いが起こっていたかもしれない。と考えもする。
なお、ついでのことに秀次の八幡築城と近江商人の関係について記せば、秀次が八幡山下町の町衆(商人)の生みの親であることは違いないが、八幡商人だけが近江商人ではない。水を注すようだが、五個荘商人もいれば薩摩ら両浜商人、日野商人らも近江商人の代表格である。日野には蒲生氏郷がいたが、その他の地域にはこれといった庇護者はみあたらない。強いてあげれば佐々木六角氏であり織田信長ぐらいである。つまり近江商人は秀次によって生み出され育てられたのではなく、もっと昔から「市」や保内商人を生み出したような土壌(地域環境)があったという見方は出来ないであろうか。少なくとも秀次が城下に集めた町衆は、元々は信長が安土に集めた人々である。秀次は信長の遺産を受け継いだという見方もできようが、近江商人の名を全国に広めたのは、ほかならぬ近江商人自身の努力によるものだと私は考えるものであります。事実、秀次の後に八幡城主となった京極高次のことについては当地の郷土史にもあまり詳しくは書かれていません。秀次のやり方をそのまま踏襲したとあるだけです。ですから評価も非難も無かったのでしょう。 最後に、最近の朗報を一つ。それは「関白秀次」は、決して秀吉や世間の通史が言うような暴君ではなかった。ということを言ってくれる人々が表われだしたということである。 彼秀次は、むしろ平和愛好の領主であり、かつ叔父秀吉よりも織田信長の業績に対して憧憬し、八幡の城下町はもとより楽市楽座の制度などその殆どを安土に学んでいるのである。これは叔父秀吉の業績を見習わずに亡くなった信長を尊敬していたという証拠ではあるまいか。こういう秀次の事跡を正しく見直していかなければならない。と言ってくれている人もいるのである。
我々近江八幡市民も、秀吉の狂気(老害)より発した秀次に対する異常な仕打に対しては、謀殺という事実をもって彼の汚名をそそいでやる努力をしていこうではないか。
『ほととぎす 鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる』秀次