12、熊沢蕃山と中小森村
問題12;江戸時代初期の有名な陽明学者で、元岡山藩池田家の家老まで務めた。若い時、中江藤樹の門下になるため、祖父の実家があった桐原村(中小森)で一時期を過ごした人物の名は。
@ 広瀬淡窓 A新井白石 B荻生徂徠 C頼山陽 D熊沢蕃山 □
解答・・・・・5
<解説>
熊沢蕃山は岡山藩士であったが、参勤交代など幕政批判をして幕府ににらまれ、浪人となる。彼の生涯は有名なので、略す。岡山藩に仕える前、一時、祖父の中小森村に住んだといわれる。後に近江聖人といわれた中江藤樹の門下生となり、陽明学に傾注していた池田輝政公の知己を得て仕官したと言われる。幕末には、彼の思想が評価され吉田松陰、藤田東湖などの倒幕派や、勝海舟などにより再評価され脚光を浴びるようになった。中小森町には彼の顕彰の碑があるので、一度訪れてみてはいかがでしょうか。
なお、市内安養寺町にあるJR篠原駅の南に位置する「上野神社」は中小森村を含む旧桐原郷七か村の氏子の信仰を集めている。上野神社の創建は不詳ですが雄略天皇の御代に、桐原郷に住む狩人(桐原郷内上野山に住む蒲生物部の宿弥高比古という射術名人)が狩りに出た際、突如として雷鳴が轟き1人の老人からこの地の安寧と豊作の御神託がありました。狩人は神意と悟り社殿を建立したのが始まりと伝えられています。伝教大師最澄が訪れた際、神仏習合の神社として須佐之男命を勧請し境内には七堂伽藍を建立しました。以来、安養寺地区の産土神として信仰され、歴代領主からも崇敬庇護され社領の寄進や社殿の造営などが行われました。明治43年旧桐原郷七ケ村の祭神を総氏神として合祀しました。社宝が多く、鎌倉時代に製作されたと思われる木造巣戔鳴尊坐像、大己貴命立像、菅原道真坐像が国指定重要文化財に指定されています。桐原にはもう一つ、「天目一命」を祭る由緒ある延喜式神明帳に列する神社があります。祭神は古事記にもみえる天津日子根命の御子が天目一命であります。この方の子孫の蒲生稲置や菅田首が蒲生平野一帯を治めていました。和名抄にみえる桐原郷は菅田首が治めていたので、その祖先の天目一命を祖神として広くこの地域の人々が敬仰し、氏神として今日に至っているのであります。尚祭神は鍛冶屋の祖とも伝えられていることは新しい技術を導入しこの地域の開発に後見された所以であります。弘仁六年(815年)の新撰姓氏録(しんせんせいしろく)に菅田首人(すがたのおびと)とあり、菅田姓を持つ一族は天麻比止津乃命(あめのまひとつのみこと・(同神)の末裔であると記されています。天目一箇命はその名の片目(目一箇)の神で示されるように、わが国の採鉄・鍛冶部族の祖神であり、筑紫忌部、伊勢忌部の祖と史料に見えます。また、天御影命は近江の三上祝の奉斎する祖神であり、ともに天津彦根命の御子と伝える事情などから、「天目一箇命と天御影命とは同神か」と記述しているのもあります。「御影」とは鏡の意味であり、剣も鏡も鍛冶製品で、かつ天孫族の「三種の神器」にあげられます。