9、琵琶湖の浮城 水茎岡山城の攻防戦
問題9;政変により水茎岡山城(城主:九里浄椿)に逃れて、そこで没した足利幕府の第11代将軍の名前を記せよ。
@ 足利義晴 A足利尊氏 B足利義昭 C足利義澄 D足利義政 □
解答・・・・・4
<解説>
楠正成が足利幕府軍を迎え撃った「千早赤阪城」は有名だが、時代は違うが、同じく足利幕府と対立した細川軍といえる軍勢をを向こうに回して戦った「城」が近江八幡市にもあったことを覚えておいてください。近江八幡市内には、水茎が内湖だったころ、牧岡山に城があり浮城と言われていた。城主は九里(くのり)氏であった。九里氏は佐々木六角氏に属する豪族でもあったが、居館は、今の金剛寺地先にあった九里居館跡(金田小学校のある場所)である。同じ金剛寺地先にあった佐々木氏の金田館が焼き討ちされて、住民は久保村に移り住んだと近江八幡市の歴史書に登場する。
さて、九里氏の水茎の岡山城であるが、室町時代の応仁の乱前後の京都の政局動乱のあおりを受けている。たびたび京の足利政権(将軍)と管領や佐々木氏は争い合ったり同盟したりをくりかえしているが、室町幕府の末期になると将軍の後継争いで足利氏が近江に逃れてくる。そのなかの一人が足利義澄である。彼は堀越公方であったが、細川氏や大友氏などの後押しで将軍職に着いたが後に彼らとの政争に敗れ、近江の水茎岡山城に逃れそこで没している。この室町中期の政権争いが足利幕府の終焉を早めたと言われている。この足利将軍家こそ京都を追われた将軍や暗殺された将軍も多いのが特徴である。
なお、足利義澄は細川政元に追われて近江朽木村に逃れたと他の書籍にもあるが、最終はその先の朽木から、この水茎岡山城に匿われたのであり、実際に攻防の戦もあったと記録にある。言い伝えでは、私の住む大房村から農民弓隊が出陣したといいます。大房の謂われは、その当時の将軍家か天皇家から「大きな紫の房」を賜ったからだと言われます。それぐらい私たちの棲む町は古いんですよ。因みに、第12代足利義晴は、この岡山城で生まれたといわれています。