13、朝鮮半島と日本の関係 〜朝鮮人街道〜
問題13:江戸時代、隣国朝鮮からの使節団が通った道を「朝鮮人街道」といい、現在では野洲の広畑から彦根の鳥居元までが、その地名を残している。通算12回の李氏朝鮮からの使節団の正式名称を何というか。
@天正使節団 A遣朝鮮使節 B朝鮮通信使 C百済使節 D琉球使節 □
解答・・・・・3
<解説>
李氏朝鮮の朝鮮通信使は江戸時代に12回来日しているが、最初は代表の松雲大師をして探賊使といった。文禄・慶長の役で秀吉軍が連れ帰った朝鮮人の捕虜を母国に連れ帰るのが目的だった。3回目までは刷還使といい、4回目から通信使という友好外交使節団として日本に来ている。でも全体で朝鮮通信使というのである。朝鮮通信使の影響と足跡は日本の至る所に散見されるので、一度通信使の縁地連絡会に加盟している都市を訪れてみるのもよいだろう。もちろん近江八幡市も縁地連の一員である。第1回目の松雲大師が韓国密陽市の出身であったことから、密陽市と近江八幡市は姉妹提携を結んでいて、中学生の交換交流も行われている。
さて、問題は朝鮮と日本は通信使だけの関係でないほど、深い結びつきを持っているということである。最近、韓国の地では日本式の古墳である前方後円墳が話題となり、また九州福岡では新羅の馬具装飾品がみつかり、改めて朝鮮半島と倭の関係をめぐってクローズアップされているところである。
さて、朝鮮との関係をもう少し視野を広くして見てみよう。まず近江源氏の「佐々木氏」は近江八幡市安土町を本貫地とした一族である。起源には二説あり、宇多源氏系の佐々木氏と古代豪族(朝鮮式山城の阿倍臣一族とされる。)狭狭貴山君(日本書紀の顕宗天皇の条に、「狭々城山君韓袋宿裲」(ささきやまぎみからふくろのすくね)が豪族狭狭城山公の祖とされてきた)の二説である。佐々木氏は、近江国を発祥の地とする宇多源氏の一流である。宇多天皇の玄孫である源成頼が近江国佐々木庄に下向し、その地に土着した孫の経方が佐々木を名乗った事から始まるとされる宇多源氏の中でも佐々木氏は特に近江源氏あるいは佐々木源氏と呼ばれて繁栄し、各地に支族を広げた。佐々木氏の祖となる佐々木秀義は保元元年(1156年)に崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱において、天皇方の源義朝軍に属して戦い、平治元年(1159年)の平治の乱でも義朝軍に属して戦うが、義朝方の敗北により伯母の夫である藤原秀衡を頼って奥州へと落ち延びる。秀義の4人の子定綱、経高、盛綱、高綱は、乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子源頼朝の家人として仕えた。治承4年(1180年)に頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、佐々木4兄弟はそれに参じて活躍し(宇治川の先陣争いは有名である)鎌倉幕府創設の功臣として頼朝に重用され、本領であった近江を始め17ヶ国の守護へと補せられる。また、奥州合戦に従軍した一門の者は奥州に土着し広がっていったとされる。近江本領の佐々木嫡流は、信綱の死後、近江は4人の息子に分けて継がれ、3男の佐々木泰綱が宗家となる佐々木六角氏の祖となり、4男の佐々木氏信が佐々木京極氏の祖となる。鎌倉政権において、嫡流の六角氏は近江守護を世襲して六波羅を中心に活動し六波羅評定衆などを務める一方、庶流の京極氏は鎌倉を拠点として評定衆や東使など幕府要職を務め、北条得宗被官に近い活動をしており、嫡流に勝る有力な家となる。京極氏の系統である佐々木道誉は、足利高氏の幕府離反に同調して北条氏打倒に加わり、足利政権における有力者となる。また、治承4年の頼朝挙兵時に平氏方につき、後に頼朝に従った佐々木義清(佐々木秀義の5男)は、初め「源氏仇方」であったため平氏追討以後も任国を拝領しなかったが、永年の功と承久の乱の時に幕府方についたため、初めて出雲、隠岐の両国守護職を賜い、彼国に下向し近江源氏から分派して出雲に土着したため、この一族を出雲源氏(隠岐氏、宍道氏、富田氏、末次氏などが末系統)という。この「出雲源氏」の末裔で有名な人で日露戦争に活躍した大将は乃木希典である。なお、京極家の分家で尼子氏(甲良荘尼子郷)がいるが、この京極尼子氏は「出雲源氏」には含めない。ただ京極尼子が出雲の守護代であったことから、戦国時代には出雲地方の戦国大名になった一族で、織田信長・豊臣秀吉とは大いなる因縁をもつ一族ではあるが・・・。また、山名氏も出雲を領したが、清和源氏ではあるが、「河内源氏」の系統である。
「狭狭城山君」については、安土町の「狭狭貴神社」の社伝にも、「沙沙貴」は少彦名神に起因するといわれており、上古にあっては、沙沙貴山君の一族の氏社として尊奉された。なお安土町図書館のある山(古墳)からは古墳時代前期の貴重な遺物、波紋神獣鏡や車輪石などが多く出て古代から開拓が進み、この地方に高い文化をもつ豪族が存在していたことを示している。古墳の被葬者は従来蒲生・神崎両郡最大の豪族狭狭城山公の祖とされてきた。しかし雪野山古墳(現八日市)や、中沢・斗西遺跡(とのにしいせき 現竜王町)における前方後円墳の発見から、これら当古墳の両翼に位置する古墳の被葬者こそが狭狭城山君(連合)の祖であり、当古墳はこの両者の谷間にあって、これら在地勢力とは異なる勢力を背景とする被葬者であったとも考えられるという説もある。当地はのちの東山道に近接し、地名が宮津であることや北西に江頭の地名が残ることなどから、湖上・陸上における交通の要衝であったことに間違いない。この山は繖山(きぬがさやま)より北西へ延びる支脈の屋根上、標高役114mの地点にあって、周辺平野部との比高は約25mである。県下最大の前方後円墳で国指定史跡である、この山(古墳名)を瓢箪山古墳という。
近江守護佐々木六角氏の本拠地は、小脇館・金剛寺城(金田館)・観音寺城と変遷しましたが、3ヵ所はもっとも離れた小脇館と金剛寺城でも5qあまりしか離れていません。今回取り上げる金剛寺城は、近江八幡市金剛寺町にあったと考えられています。六角氏の祖泰綱の子である頼綱は、晩年に別館を金田の館に住まいを移したことから「金田殿」と称され、その館は「金田館」と呼ばれました。その孫の氏頼が同じ金田に創建した金剛寺は金田館に近接していたか、これを元に建立した寺院と考えられます。応仁の乱の余波で勃発した六角氏と京極氏の争いに金剛寺も巻き込まれ、文明元年(1469)の合戦で焼失しましたが、同18年(1486)には再興されます。延徳3年(1491)には第二次六角征伐で将軍足利義材の陣所をおくため、近隣諸郡から人夫を徴発して金剛寺城へと造り替えられました。金剛寺町には現在の金田小学校の西北西約150mに「古城」という小字と「寺ノ内」「大手」といった地名が残されており、ここが金剛寺城跡と考えられています。この周辺では室町時代の堀などが検出されていますが、全体像は明らかではありません。一方『近江蒲生郡志』では文明18年に再興された金剛寺の位置を、安土町慈恩寺の浄厳院から南西へ100mあまり離れた「金剛寺」と呼ばれる畑地と推定しています。近江八幡市金剛寺町は「こんごうじ」と読むのに対して、こちらは「こんごうでら」と呼ばれます。この畑地の周囲には「北堀」「東堀」「南堀」と呼ばれる水田がめぐり、発掘調査でも15世紀末から16世紀代の堀・石積み・ピット群が見つかっており、全体像は判明しないものの城館跡に間違いありません。これが再興金剛寺だとすると、将軍が着陣したのはこちらということになります。金剛寺城跡には地名のみ、安土の金剛寺遺跡には一段高い畑地が残っているほかは寺・城の名残りは残されていません。しかし、観音寺城以前の六角氏守護所を明らかにするうえで鍵となる遺跡です。地名の元は「金剛禅寺」から来ていますが、金剛禅寺(臨済宗)は夢窓国師の開山で観応三年(1352年)近江守護五世佐々木判官氏頼建立している。氏頼は貞和二年(1346年)8月26日41歳で亡くなった父時信の菩提を弔うため、建立したものと伝えられている。寺名については近江源氏の大祖・宇多天皇の御名が金剛覚であるので、金剛禅寺と付けられたが、後に村名となったものである。江戸時代は、大手村・九之里村という二つの村であったが、明治七年(1874年)に合併して金剛寺村となった。
日本古代史のなぞ 〜韓流ドラマを観て感じたこと〜
日韓の間に国境はあっても、日本人と韓国人の間に壁はない。例え壁があったとしても、簡単に乗り越えられる高さである。それもそのはず、日本語と韓国語は語順が同じで容姿は、明確に見分けられないほど似ていている。けれど、21世紀の扉が開くまで両国は「近くて遠い国」であった。理由はさまざまあるが、歴史問題が足かせになっていたことは確かである。私たちは不必要に歴史をがんじがらめにしてきたのではないだろうか。もっと歴史を自由にさせないと歴史は埋もれる一方で、未来をも閉ざすことになる。日本と朝鮮半島の間には16世紀末(壬辰倭乱)と20世紀前半(韓国併合)に不幸な時期があったが2千年という歴史を考えれば、おおむね友好的で平和な時代が長かった。それらも含めて古代には現代からは想像もできないほどの交流が行われていたのである。歴史は逃げていかない。「知れば知るほど面白い」のである。その一つが韓流ドラマ「朱蒙(チュモン)」は韓国のことやない日本のルーツのひとつである。といえば韓国時代劇のフアンにはご理解ねがえるだろうか。2004年、韓国の人々が驚愕する話が伝わった。それは中国が「高句麗の歴史は中国の一地方史(遼東地方)である。」という見解を発表したのである。つまり高句麗は中国に属した国家だというのである。この見解を受けて韓国では猛反発が起こった。なにしろ高句麗は韓国の人が強い愛着をもった古代国家であり、自分たちの祖先の偉大さに誇りをもってきたのだから。中国が高句麗を自国の一部分とみなせば、朝鮮半島の正統な国家が否定されてしまうからである。その後に顕著になったことは韓国で高句麗を扱う歴史ドラマが急増したという事実である。「高句麗という国の歴史を中国に取られてはならない」という意識が製作につながっているとみている。
(当たり前の感情である。日本でも、白村江の戦いに負けた倭国は、「唐国」からの進駐軍を受入れ、GHQのマッカーサーに相当する人物で唐の「郭務?」が占領軍司令官として赴任しており、その半年後に天智天皇が崩御し「壬申の乱」が起こり近江朝は殲滅し、その後「日本国」
を名乗ったとある。そこから藤原鎌足は藤=唐である。との説もある。それを中国が主張してきたら、日本側としてはどうするだろう。国を挙げて反論するだろうか。)
韓流ドラマで「高句麗」がよく出てくる理由
韓国ドラマのペ・ヨンジュンが主演の「高句麗」を舞台にした「太王四神記」や高句麗建国の「朱蒙(チュモン)」あるいは、高句麗の後裔と称する「高麗国」の「王建(ワンゴン)」をご存知だろうか。韓流ドラマは「チャングムの誓い」(李王朝時代劇)と「冬のソナタ」(現代恋愛ドラマ)以降、日本でも大ブームである。本題に入る前にその裏話を二つしておこう。1つは、日本でのTVドラマ等の制作費が高騰し、スポンサーも少ない中で、会社維持するために、費用対効果として制作費の要らない韓国製品を購入しているということ。もう1つは韓国の事情ですが、前述したとおり、最近、領土欲の激しい「中国」が、「高句麗」は「中国の一部での出来事」だと主張したためである。これは韓国が「竹島」を「独島」といい韓国領土だといい始めたことや、中国が「尖閣列島」を中国領だと主張することと同じ理屈である。だから、日本の気持ちも考えてほしいところである。韓国は国を挙げて「高句麗」を舞台にしたドラマを製作し高句麗―高麗・百済・新羅の系譜は韓国の歴史だと主張をして、国民にも啓蒙しているのである。当たり前の感情である。日本でも、白村江の戦いに負けた倭国は、「唐国」からの進駐軍を受入れ、GHQのマッカーサーに相当する人物で唐の「郭務?」が占領軍司令官として赴任しており、その半年後に天智天皇が崩御し「壬申の乱」が起こり近江朝は殲滅し、その後「日本国」を名乗ったとある。そこから藤原鎌足は藤=唐である。との説もある。それを中国が主張してきたら、日本側としてはどうするだろう。国を挙げて反論するだろうか。
八咫烏(やたがらす)をご存知だろうか。それを知らないと話が進まないのであるが、簡単に解説しておくと、和歌山の熊野神社に奉られている熊野の「シンボル」である。戦国時代は、雑賀衆(雑賀孫市が有名)の旗印でもあった。近年は、なでしこジャパンが世界カップで優勝したが、サッカーも男子だけでなく女子チームも今後は盛んになっていくだろう。ところで、男子Jリーグのサッカーの旗印は「八咫烏(やたがらす)」という、日本サッカーのJリーグの「エンブレム」ともなっている。当時、韓国の関係者から八咫烏(やたがらす)=三本足のカラスを「日本(サッカー協会)にとられた」と言っていました。その意味を、私は韓流ドラマの「朱蒙チュモン」や「王建ワンゴン」を観る中で、実感しました。なぜなら、朱蒙の「高句麗コグリョ」や「高句麗」から分かれた「百済ペクチェ=くだらない人=くだらでない人、奈良=韓国語で国という意味。):(朱蒙の夫人ソソノ「=斉藤由貴似の韓国女優ハン・ヘジンが好演」の第2子の温祚オンソが百済を建国する)」も共に「扶余」族なのであが、彼ら扶余系国家のシンボルが「三本足のカラス」なのである。「高麗」の旗にも使われていた。その「三本足のカラス」が、日本史に登場するのは、神武東征である。神武天皇が和歌山に上陸した時、地元神の「長脛彦」等の抵抗に遭い難渋していたときに、助けに現われるのが道案内役としての八咫烏(やたがらす)(=賀茂の建角身命(たけつのみ)=賀茂氏・葛城氏の始祖だといわれる。)であり、同じ天孫系だが別系統で天孫降臨した「ニギハヤヒノミコト」を祖先にもつ「物部氏」であった。この物部氏は河内、吉備、大和、尾張などに勢力を持っていたとされ、一部が「長脛彦」として抵抗し、一部は「物部氏」として神武天皇側に付いたということであるらしい。この「物部氏」の出自の謎についても複雑であり、本1冊では描き(説明し)きれないという。例えば「ニギハヤヒノミコト」の正式名は「天照国照彦天火明櫛玉ニギ速日命」という。つまり「天照」なのである。こちらは「アマテラス」ではなく「アマテル」と読むそうであるが、伊勢神宮の祭神とよく似ていると思いませんか。「天照」とつくのはこの2神しかいません。また猿田彦の神も神武東征に登場しますが、伊勢神宮に祭られています。なぜ祭られているのでしょうか。疑問です。
さて、ここでの話の主眼は「物部氏」ではなく八咫烏(やたがらす)のことである。八咫烏(やたがらす)はどこに祭られているかといえば「賀茂神社」(下賀茂神社)の祭神である。上賀茂神社には「建角身命」とその孫が祭られている。もちろん熊野神社のシンボルにもなっている。
それでは、何故、八咫烏= 「高句麗・百済・高麗」なのか。
「高句麗・百済・高麗」は八咫烏(やたがらす)のシンボル旗である。そしては熊野本宮の鴉マークでもある。韓国ドラマの「朱蒙」をご覧になられた方ならお分かりのことと思います。私もDVDレンタルで韓国TVドラマの「朱蒙」にはまってしまった一人である。第一話から最後の第81話の最終回まで観てしまった。
正式タイトル名は『朱蒙 チュモン- Prince of the Legend』(プリンス・オブ・ザ・ レジェンド)。三国史記と百済本紀の分注の別伝に記された神話伝承を元に、高句麗初代の王とされる朱蒙=東明王を主人公として製作された韓国の史劇ファンタジードラマで韓国では50%を超える驚異の視聴率を記録した壮大なスケールの韓国歴史エンターテインメントである。紀元前37年、その高句麗を建国したとする人が「朱蒙=チュモン」であり、王名を「東 明王」といいます。余談だが、その後の高句麗を舞台としたドラマとしては「風の国」(主役は朱蒙と同じソン・イルグク)や「大王四神紀」(主役はぺ・ヨンジュン)がある。
「朱蒙」のドラマの物語では・・・・・・・解慕漱(ヘモス)と柳花(ユファ)夫人の息子で、後に高句麗を建国した主人公の朱蒙(チュモン)役に、ソン・イルグクをキャスティング。また高句麗と百済の建国の中心にいた女傑、召西奴(ソソノ)役を、ハン・ヘジンが演じる。解慕漱(ヘモス)を裏切ることになる扶余の金蛙王(クムワァワン)役にはチョン・グァンリョル、朱蒙(チュモン)と召西奴(ソソノ)の愛を阻む金蛙王(クムワァワン)の長男、帯素(テソ)役にキム・スンス、解慕漱(ヘモス)の死後、金蛙王(クムワァワン)に身を委ねて生涯、彼を支えた朱蒙(チュモン)の母、柳花(ユファ)夫人をオ・ヨンスが演じている。史実でも高句麗建国後の朱蒙と扶余国の帯素は対立を続けている。韓国ドラマでは「チュモン」の子は「ユリ王」でその子が「ムヒュル」(風の国)またその子が「ホドン」(幻の女王チャンミョンゴ)で、韓国ドラマで歴史を勉強できる。
私がこの韓国ドラマのうち「朱蒙」に興味を持ったのは、高句麗の歴史もさることながら歴史とあわせてドラマに出てくる「高句麗の旗」である。その旗は「八咫烏」なのである。・・・・(やたがらすは、日本神話に出てくる瑞鳥です。神武天皇が東征の時に熊野から 大和に入る吉野の山中にて道に迷われ、その際に高皇産霊尊神が道案内としてつかわされる烏が「やたがらす」です。一般的に三本足のカラスとして知られ古くよりその熊野の神々の使いとされる)なぜ高句麗に「やたがらす」なのだろうか。「やたがらす」は漫画「孔雀」で有名な熊野神宮の象徴でもある。また、八咫烏(やたがらす)は現在では、Jリーグの旗としても知られているが、古くは雑賀鉄砲衆の雑賀孫一も、この八咫烏を使っている。とにかく、この八咫烏がなぜ、神武東征のときに道案内として登場するのか。といった疑問である。神武東征のとき、和歌山、熊野、大和で激しい抵抗をした族長の名は「長脛彦(ながすねひこ)」である。この「長脛彦」は出雲系で物部氏の系譜であったことは、よく知られていることである。(=つがるそとさんぐんし)大和には大物主の神がおり別名「大国主」ともいう。「大国」とは多くの国を持っていたという意味である。おおものぬし=ニギハヤヒを祖先とするのは物部氏である。・・・・・「八咫烏」の旗はその後の後高句麗や高麗国でも使われている。韓国ドラマ「王建ワンゴン」に使われているからDVDを見てください。「ワンゴン」は高句麗の末裔を名乗り高麗国を建国するが、同時期に同じ高句麗の末裔を名乗る「渤海国」(=テジョヨンが建国)も存在している。後に渤海国が金・蒙古に滅ぼされると、渤海から高麗に遺民が逃げ込んできており、高麗では彼らを厚遇したと伝えられる。渤海国は後に契丹の「遼」・女真の「金」に滅ぼされるが、渤海人は次の「元」の時代には「漢人」として優遇されたとある。
時代は下るが、朝鮮半島では「扶余」系の高句麗と百済が新羅に滅ぼされるのが668年ぐらいである。高句麗は中国の漢の時代に起こって、隋・唐時代には高句麗・百済・新羅とともに朝鮮半島では三国時代を形成した一つである。倭国との同盟国であった高句麗と百済を救うために「白村江の戦い」で新羅と唐の連合軍に敗れた日本軍は、その後、百済や高句麗からの難民を受け入れている。百済人は近江を中心とした近畿各地に、高句麗は武蔵を中心とした関東から東海にかけて配置されている。例えば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市・飯能市)は高句麗の遺民たちが住んだところと言われており、高麗神社・高麗川などの名にその名残を留めている。また狛、巨麻の古代地名は日本各地に分布する。さらに言語も今の韓国よりも日本語に近いものであったらしい。
当然、韓国は昔の「新羅」である。朱蒙の高句麗、あるいはペ・ヨンジュの「大王四神紀」の「広開土王」(「好大王」と日本では呼ぶらしい)の高句麗を滅ぼしたのは、韓国人の祖先系である「新羅」ではなかったのか。むしろ高句麗の遺民たちは、日本にたくさん逃れてきており、日本人の祖先と化した人が多かったのではないかと考える。
百済・新羅系の渡来人氏族については既に幾つか紹介されている(秦氏・百済王氏・東漢氏など)。これらの渡来系大氏族に隠れているが、日本の文化に多大の影響を与えた高句麗国系の氏族があることを忘れてはならない。高麗(こま)氏・狛(こま)氏・大狛氏などがその代表である。これらの氏族は好太王碑で有名な、今でいう北朝鮮部から日本列島に渡来してきた氏族である。いつ頃日本列島に来たかについては未だその全容は分かっていない。しかし、その主な氏族は高句麗国が滅亡した668年以降に日本列島に来たとされている。
この高句麗のことを中国や日本では別名としてまた「高麗(こま)」と表記する場合があった。一方朝鮮半島には「高麗」と記して「こうらい」呼ぶ国名があった。これは高句麗国とは直接関係なく918年に「王建」という人物によって建国され、936年には朝鮮半島全体がこの国により統一されたのである。この国は1391年まで、即ち季氏朝鮮が成立するまで続いたのである。この「こうらい」が朝鮮を表す「KOREA(コリア)」の 原語であるとされている。
同じ朝鮮半島に「高麗」と表記した全く別の国が存在していたのである。古来日本でも多くの混乱記事があるとされている。「こうらい」と呼称する有名な言葉としては、高麗人参、高麗茶碗、高麗青磁、高麗縁(畳の縁)などがある。「とうもろこし
」のことを関西では「こうらい」と呼ぶ、これも高麗からきた言葉か?「狛犬(こまいぬ)」という寺社にある一対の像については、やはり高麗と関係しておりそうだが、どうもこの文化は元々朝鮮半島にあった文化ではなく遠くインドあたりの風習が朝鮮半島を経由して日本列島に渡ってきた文化らしい。朝鮮半島自体を「高麗」と呼ぶ場合もあるらしく、実にややこしいのである。日本での表記も「高麗・巨麻・巨摩・狛」など色々ある。ここでは高麗(こま)氏・狛(こま)氏及びその関連に限って話をしたい。
百済にしろ、高句麗にしろ、新羅・唐に滅ぼされるや、日本に亡命してきていることは明白である。ドラマ「テ・ジョヨン」にも百済流民がペクチョソン(村)として登場するし、渤海国を建国する高句麗の民と同じ人々は当然にも日本にも渡って来ていると考えるのが自然である。
古代出雲神族については、なぞだらけであるが、蘇我氏も物部氏も共に深く関わっている。蘇我氏と賀茂氏、葛城氏は同属であるならば、大和の葛城には蘇我氏も居たことになる。賀茂氏や葛城氏は物部氏ともつながっている。そうすると、蘇我氏と物部氏は同族と言うことになってくる。訳が分からなくなってきた。私はこのように考える。(事前に私見・推論であることを断わっておく。)すなわち蘇我氏・物部氏はともに、扶余系ではあるが、蘇我氏は百済からの遺民であり、物部氏は高句麗からの遺民であったと。便宜上分けてみた。蘇我氏を新羅系とする説もあるが、倭(日本)と戦争をした国からの遺民とは考えにくいからである。しかしである、「八咫烏」の正体は誰なのか。「長脛彦・安日彦」が「物部」氏とするなら、彼らと敵対する「八咫烏」は「蘇我氏」ということになるからである。なお「八咫烏」の系譜は賀茂氏につながるものであることははっきりしている。また、出雲族のうち、物部氏の系譜につながる鹿島・香取は常陸の国であるが、熊野=出雲(クマ・クモは同じ意味)から追い立てられた「長脛彦」=物部氏が東北地方へ追い立てられた痕跡と考えれば納得がいくのである。
さて、朝鮮半島の歴史に詳わしくない方のために、若干解説をしておきたい。「朱蒙」が建国する「高句麗」は中国大陸にあった「漢」王朝の楽浪郡からと、父の居る「扶余」という国(扶余国は楽浪郡の支配下にあった)からの独立が手始めである。「漢」王朝はいわずとしれた秦の始皇帝の「秦」を倒して成立するのが楚の住人「劉邦」が建てた国家である。その経緯はドラマを観てもらうとして、「扶余」から分かれた朱蒙であるが、その朱蒙が活躍した国=卒本(ソルボン)地方の「高句麗」から別れて「ソソノ」(朱蒙の第二夫人)の子ども(温酢オンソ)が南に建てた国が、「百済」である。だから、「高句麗」と「百済」は「扶余系」(ツングース)で同族である。だから言語も文化も同じである。ちなみに、今の韓国語は新羅に近く、高句麗や百済の言語は、日本語に似ているということである。新羅という国は、加羅などの地方豪族を集めて創った国であるが、やがて中国の隋や唐と組んで、高句麗や百済を滅ぼし「統一新羅」として朝鮮半島をまとめていく。この間には高句麗の「広開土王=ペ・ヨンジュンの大王四神紀のドラマが有名である。」の活躍や倭の遠征軍と百済軍対唐・新羅連合軍の「白村江の戦い」が起こっている。これを朝鮮三国時代という。(中国の三国時代=映画レッドクリフが有名。とは異なるので注意。)韓国の公州市の近くに扶余郡があり、滋賀県の日野町と姉妹提携を結んでいる地域に行った事があるが、白馬川(錦江)沿いの皇蘭寺(コランサ)には、そこから滅亡時の「百済」王宮の女官が川に飛び込んだ(落花岩)という故事が残っている。
さて、高句麗と百済を滅ぼした「統一新羅」はこの後240年間(676年-918年)続くのである(新羅は善徳女王など女性が王になった歴史を持つ国でもある)が、高句麗・百済・新羅の三国鼎立時代を朝鮮では「三国時代」と呼んだが、「統一新羅シルラ・シンラ」の国力が弱ってくると、旧高句麗や旧百済地方の豪族勢力が力を盛り返して「後高句麗コグリョ」「後百済ペクチャ」をつくることになる。これを「後三国時代」ともいう。この混乱の中から、弓裔の「後高句麗」(皇宮のあった鉄原は南北朝鮮の38度線上にある。)のあとを継いだ「王健(ワンゴン)」が「高麗」を建国して朝鮮半島を統一するのである。「後高句麗その後、摩震マシンと改名」した弓裔という王は、弥勒菩薩の生まれ変わりであるとして、弥勒信仰で国内を統一しようとしたことを、ドラマ「王建ワンゴン」では表現されていた。京都の広隆寺に伝わる秦氏寄進の仏像は「弥勒」であったことから、この時代は弥勒仏が信仰されていたことが伺える。またこの「高麗:コリョ」という呼び名こそが現在の「コリア」の元となったといわれているが、高麗は918年〜1392年続くのであるが、この間に、中国大陸では、唐のあとの宋・金を滅ぼして蒙古の「元」がモンゴル帝国として台頭してくる。そして、高麗を支配下に置き、日本に向けて「元寇」を2回繰り返すのである。元寇のため日本も鎌倉幕府が倒され足利時代となるのだが、同じように元の手先となった高麗国も国力を弱め、李成桂(女真族出身といわれる)の「李氏朝鮮」に倒されるのである。この「李氏朝鮮」が日本からの秀吉の「壬申倭乱」に耐え、「朝鮮通信使」の派遣から、日本の「韓国併合」まで続くのである。
そしてこの「李氏朝鮮」こそが、「チャングムの誓い(大長今)」の舞台である李王朝時代である。「イ・スンシン」や「世宗(セジョン)=ハングルを創設した大王」が活躍した時代でもある。李氏朝鮮を建国した李成桂は、高麗の武将で、「女真」族だともいわれている。女真族は蒙古時代には「金」という国を作っていたがチンギスハーンに滅ぼされる。のち、明の末期に「女真族」から「アイシンギョロ(愛新覚羅)・ヌルハチ」が出て「後金」を建て、さらに明国を滅ぼし「清」という国をつくるのである。だから、李氏朝鮮と清国は出自が同じ「女真」系であることを知っていてほしい。また古代朝鮮の扶余系の人も「女真族」に統合されているとしたら、話としては面白いと思う。当時は同じ旧高句麗系の「渤海」という国が高句麗遺民の「テジョヨン」(大作栄)によって建国され=(渤海は高句麗に従属していたと「旧唐書」には高句麗の別種であると記されている。また、渤海は朝鮮の国なのか中国の地方政権なのか、いま領国で論争中でもある。私としては満州史とすべきか。今も満州国があったら当然そうなるであろう。)なお渤海はモンゴル系の「契丹」に滅ぼされるまで続いた。また、その契丹国(耶律阿保機)も「女真族」による「金国」が建国されると滅ぼされたということであるが、契丹古伝(秘史)という本には、ニニギノミコトが契丹からでて日本に渡ったと書いてあるらしいが、真偽は不明である。
さて、話は戻すが「八咫烏」(やたがらす)とは、誰なのか?
『古事記』では、八咫烏は高木大神(タカギノオオカミ)の命令で、神武天皇(イワレヒコ)一行を道案内するように命じられ、天より遣わされた。このような伝説が残っていることから、八咫烏は道中安全の守り神として今日でも人々から篤く信仰されている。
咫とは単位のことで、一字だけでは「あた」と読む。「やあた」が「やた」になり、大きな、という意味になる。太陽が東から昇り西に沈むのは、太陽の中で八咫烏が飛び続け、太陽を運んでいるからともいわれている。
一説によれば「八咫烏」というのは天建津命(アマノタテヅノミコト)又は建角身命(タケツノミのミコト)が率いた一族のことであり、イワレヒコが神武天皇となったとき、一部はその警護として奈良近辺に残り、一部は京都北部に拠点を構え賀茂一族となったといわれている。平成14年2月27日には奈良県明日香村のキトラ古墳の天井の天文図の太陽の中に三本足のカラスが描かれていたのが見つかった。それが八咫烏かどうかはまだわかっていない。『新撰姓氏録』では、八咫烏はカミムスビの曾孫である鴨建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身であり、その後鴨県主(かものあがたぬし)の祖となったとする。奈良県宇陀市榛原区の八咫烏神社は鴨建角身命を祭神としている。
『新撰姓氏録』では、八咫烏はカミムスビの曾孫である鴨建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身であり、その後鴨県主(かものあがたぬし)の祖となったとする。奈良県宇陀市榛原区の八咫烏神社は鴨建角身命を祭神としている。
賀茂建角身命すなわち八咫烏は、鴨一族であり、大国主の出雲族と言うことにつながってくる。鴨一族なら、京都の賀茂神社や鴨神社と関係が深いし、秦一族や葛城王朝との関わりもでてくる。さらには、「中臣の鎌足」(645年 乙巳の変)という人物に突き当たってくる。「鎌足」は鴨足ではないだろうか。そうすると「藤原氏一族」の祖ともつながってくるのである。これは大変なこととである。日本の歴史の根幹にまで「三本足のカラス」はかかわっているのだから。
一説には、「中臣鎌足」は百済からの亡命王「扶余の豊璋(ほうしょう)」であるとの説もある。扶余とは、高句麗の朱蒙が出身の地であり百済も同属である。
ついでに記すと、白村江の戦いで倭国が負けて、この前の大戦のマッカサーのような人物が唐の進駐軍の司令官として「郭務 ?(かくむそう)=郭 務宗」という人物が、倭国を占領する。そして、「倭国」から「日本」に国名が劇的に変わるのもこのときである。この白村江の敗戦で「倭国」は百済と共に滅亡し変わって「日本国」ができたという説がある。九州の「大宰府」はそのとき置かれた進駐軍の「総督府」である。大宰府から指令し日本の政治を支配したのである。一説によると、そのとき同時代にあった「金 春秋」という人物が「天智天皇」であるとする人もいる。「金 春秋」は新羅の人で、史実では新羅の「武列王」となるひとである。そして郭務 ?(かくむそう)は、「中臣鎌足」なのだそうだ。唐=藤である。藤原の鎌足は唐の鎌足なのである。しかし、違う説では、天智天皇は百済からの亡命王で、白村江の戦い以後、新羅国から進駐してきた人は「大海人皇子=のちの天武天皇」である。などと書いてある本もあって、歴史は複雑に絡み合っていて、面白いが、なにがどうなっているのか、複雑怪奇である。自分なりに頭の整理が必要である。韓国ドラマ「善徳女王」をご覧になった方はご存知だと思うが、三国時代の新羅国を支えた「27代善徳女王」次の「28代真徳女王」の次に「武列王=金 春秋」が第29代目の新羅王となって、百済・高句麗を滅ぼして「統一新羅」を建国する人物となる。ある人の仮説によれば、この武列王=金 春秋が天智天皇だというのである。661年武列王即位、662年白村江の戦いがあり、668年天智天皇が即位しているのである。天智天皇が新羅人だとすれば近江に百済亡命人を多く住まわせた説明に苦労する。なにかしら 関係性があるのかもしれない。しかし、あまり乱れた話は混乱するだけである。話を「三足鳥」=やたがらす(=日本では金鵄という金鵄勲章の金鵄である」にもどそう。「やたがらす」は葛城に住んでいた鴨=賀茂氏のことだとする説がある。
『記・紀』神話の「神武東征」説話では、神武軍が「熊野」から「ヤマト」へ出ようと山道を進みあぐねていたとき「高倉下(たかくらじ)」と「八咫烏」が現れたとあります。彼らは葛城地方の土豪であった可能性が高いと思われます。高倉下とは、『先代旧事本紀』によると、高倉下は物部氏の祖神、饒速日命の子となっています
さらに同じ熊野の地において、同じ様に天皇を高倉下と八咫烏がお助けしていることから高倉下と八咫烏の間にはなにか深いつながりがあったのではないかと考察します。もっと言うならば賀茂=鴨氏と物部氏は古代においてなにか深いつながりがあったのではないかということです。そしてもっとも衝撃的なのが熊野神社は昔スサノオを祭っていたという事実です。熊野神社は八咫烏の根拠地であり、熊野神社がスサノオを祭っていた。物部氏の祖神はニギハヤヒであり、ニギハヤヒはスサノオの息子であるという伝承があります。このことから私は八咫烏と物部氏さらに出雲族は同盟関係にあったという仮説を立てました。やはり、八咫烏と物部氏はともに日本に渡来したのではないでしょうか。
なお、葛城の鴨一族から「蘇我氏」が出ているとも言われる。蘇我氏は「武内宿禰」を祖とする新興勢力であったことは確かである。しかし、彼ら蘇我氏がどこから来たのかは正体は明らかではない。中臣氏の祖が天の岩戸隠れに活躍した天児屋根命まで遡れるのに対して、彼ら蘇我氏の祖は「武内宿禰」でありそれ以上は遡れない。朝鮮半島からの渡来系の人(=天日槍という説がある)というのが真相ではなかろうか。鴨氏は陰陽師の系統で土師・忌部氏とも関係が深い。さらに忌部氏は中臣氏(中臣の鎌足)につながるから、面白い。(余談だが、織田剣神社は忌部氏であったが、近江八幡の津田郷から織田信長の始祖が婿入り=養子に入ってより、織田氏は平氏であったと記録されている。)
蘇我氏は入鹿から数えて3代前の稲目から、突如として歴史の表舞台に台頭してきます。蘇我氏は、藤原氏と違い、政争にやぶれて、蘇我氏本家は滅びました。暗殺される蘇我入鹿、その親の蘇我馬子、さらに蘇我蝦夷、蘇我稲目と遡れるわけですが、稲目の父親の名前が高麗(こま)ということが分かっています。高麗とは「日本書記」ではまさに高句麗を意味する言葉なのです。そうすると蘇我氏は「高句麗」系なのでしょうか。ここでまた「八咫烏」との関係がでてきます。しかし、冷静な目で、蘇我氏の周辺をよく見ると、確かに高句麗色が強いので、全く出鱈目とは思えません。例えば、蘇我馬子が建立した法興寺(飛鳥寺)の建築様式は高句麗的です。それに仏教に傾倒していたと言われる蘇我氏ですが、高句麗の国教こそが仏教であるという事実も見逃せません。このように見てゆくと、蘇我氏と仏教の関係も、よく説明がつくと思います。また聖徳太子が蘇我氏であったということは、歴史の中では確かなことと認識されています。
さて、渡来人で、日本史に影響を与えた人物としては、近江に関係する人物で「天日槍(アマノヒボコ)」という人が居ます。その従者は、蒲生郡の「鏡邑、苗邑(アナムラ)に住んだ」とされています。竜王町の苗村神社に残る33年に1度の祭りも「近江與地誌略」という本に土器部、弓削、駕与丁などの「賎民の祭りなり」と記してあるが天日槍の従者が住んだ場所とある。その「天日槍」の足跡は、竜王町のみならず野洲市の兵主神社、草津市の穴村、北近江の「息長」氏にその地名を残しているところですが、天日槍は新羅系とも言われていますが確証はありません。また竜王町の鏡村からは、額田王や姉の鏡大王(かがみのおおきみ)姉妹が出た出身地であり、鏡大王は春日大社に祭られるように、藤原氏との関係が深い。(=藤原鎌足の妻・鏡大王(かがみのおおきみ)は、鏡氏の娘といわれるが、鏡氏は滋賀県 竜王町の鏡の里の渡来人系豪族である。鏡の里には、鏡神社のほか、古代に鉄や 陶器の製法を伝えた新羅王子・天日槍(あめのひぼこ)伝説もあり、渡来人の息吹が感じられる)天日槍は蘇我氏の祖とされる武内宿禰と同一人物ではないかとも考えられます。いづれにせよ蘇我氏と百済の関係、天武朝と新羅、天智朝と百済の関係などをもう少し調べて検討したほうが、すっきりするような気がします。なお天日槍はツヌガアラヒトとも呼ばれているが、本当は金首露(キムスロ)の作った加耶国の人だといわれる。新羅の王子と日本書紀では記されているが「播磨国風土記」には加羅(韓)の国と記されており、私は加羅(加耶)だと思う。
『魏書』高句麗伝に、「扶余の王子が迫害を受けて故国を追われ、南下して高句麗を建国した」としるされており、百済の神話は、高句麗の建国神話を前提にして、高句麗の始祖東明聖王(朱蒙)の王子二人が高句麗の地を離れ、南のソウル地方にやってきて、弟の温示乍が百済を建国したとされます。実際に百済は、自らの出自を、高句麗とともに扶余族であることを対中国外交で主張しており、538年には、国号を南扶余としています。
なお、紀元2世紀ごろ、三韓時代があったが弁韓、馬韓、辰韓という。そのうち辰韓は「秦韓」ともいい、中国大陸の「秦」から流れてきた人たちだったとも言われる。つまり秦の始皇帝の圧迫から逃れた趙・楚・などの6国からの人々=映画「墨攻」にその時の描写が詳しい。馬韓はのちに百済となり、辰韓は新羅となり、弁韓は任那(みなま)となったというが、韓国では任那とは伽耶国の中の倭館(領事館)ぐらいの認識である。朝鮮半島の南半分を三韓という。風俗や言語の違いによって分けられていたともいう。なお、高句麗はこの「三韓」には入っていない。
韓流ドラマで「鉄の王キムスロ=金首露」というドラマでは、狗耶国で金首露が生まれて伽耶国(金官伽耶)を建てるまでの物語であるが、金首露の生まれた時代は、中国では後漢の時代である。物語は新の国を倒して後漢の光武帝がスロの父親(新に味方したため)を倒すところから始まる。鉄が中心の政治形態であり、まだ諸国は部族国家であったということと、私が興味が湧いたのは、新羅第4代目の王となるソク(昔)・タレ(ソクタレ;昔脱解)という人物である。この人物は、倭の国の「多婆那国」=いまの丹波・丹後地方から流れ着いた捨て子であり、成長してスロのライバルとして登場しているので、興味のある方は「鉄の王キム・スロ」というDVDドラマを観て下さい。歴史ドラマを見るたびに、どうしても、その時代背景を詳しく知りたくなってしまう私である。スロの妃となるのがインド・アユタラ国の許黄玉(ホ・ファンオク)であり、1番目の子には「金」を2番目の子には「許」の姓をつけようという台詞があるが、そこから「本貫」が同じで姓も同じ人とは結婚できないという風習が生まれたとある。また調べていくうちに2人の間の子どもが10人生まれるが、なんとその中に邪馬台国の女王卑弥呼もいるという説もあるんです。まあ神話ですから、首露王は158歳、妃は157歳で亡くなったというのもなんとも凄すぎる話ではあるが。
さて、滋賀県の蒲生郡には「石塔寺」があり百済人の渡来人が住んだ地域だといわれる。なお秦氏とは弥勒菩薩で有名な「広隆寺」の創建者であり、東漢人と並ぶ渡来氏族であるが、彼らは新羅系とされている。滋賀県の秦荘町や京都の「太秦」が有名である。四国の戦国大名の長曾我部氏も秦氏の子孫だとも言われている。また、埼玉県にある武蔵国「高麗神社」は唐・新羅連合軍に滅亡された「高句麗」の「遺民」が配置された地域である。
なぜ、執拗に渡来人の件を調べるかと言えば、高句麗と「八咫烏」の関係性を調べているからである。後三国時代で「後高句麗」を建てた「弓裔;クンエイ」のあとを受けた、「王建(ワンゴン)」という人物が「高麗」国を立てるのだが、韓国大河ドラマで「太祖王建」というのがあったが、そのなかで「八咫烏」の紋章が弓裔の陣営の場面でも登場しているのを記憶している、また王建の高麗国でも見受けられたのである。・・・・レンタルで大河ドラマ「王建」は見られますので、ぜひご覧ください。
私の経験からいえば、韓国の歴史を知りたければ、韓流ドラマを観ることです。「朱蒙チュモン」をはじめ、新羅時代の「善徳女王」や「ヨンゲソム」、後三国・高麗の「王建ワンゴン」さらには渤海を建国する「テジョヨン」そして李王朝の「世祖」など時代劇には事欠かないと思います。韓国ドラマ「テ・ジョヨン」を観ると、最初に唐の「李世民」と高句麗将軍「ヨンゲソムン」との戦いシーンがある。そのとき、高句麗軍は「三足烏」の旗をおしたてて唐軍を撃退する物語から始まります。まさの「三足カラス」のオンパレードである。
繰り返しますが、中国の東北地方にあった古朝鮮史に出てくる「扶余国」と、そこから分かれた「高句麗」国さらに分派して朝鮮半島の南に拠点を得た「百済」国は同一の言語であった。「高句麗」の後裔とする「渤海国;高句麗将軍の子どもであったテジョヨンが建国した。」そしてその言語は、日本語に近いものであったという。新羅は辰韓・伽耶などの連合国であり、韓族といわれている。文化・言語的に言うならば区別されている。
タイトルに言う「朱蒙は扶余系ツングース族であり、現在の韓国人は韓族である。朱蒙の子孫は、百済を経由して倭=日本に渡来している。それは大和朝廷の政権確立後の高句麗・百済の亡命渡来人(秦氏、東漢氏、狛氏)としてだけでなく、「八咫烏」と関わってヤマト政権確立に貢献した蘇我氏や物部氏、更に葛城氏、鴨氏と藤原氏にまで連なる記紀神話の系譜と深く関係しているのである。現在の韓国は新羅人の子孫だとするなら扶余系ではない。だから、高句麗国のことを韓国人が熱く語ることはおかしいのである。彼らは高句麗を滅ぼした子孫である。あえて百済の子孫が韓国内に居るなら、その人は語る資格があるかもしれない。どちらにせよ当時の扶余や高句麗の地域は、いまの中国(遼東)にあった国である。
いずれにせよ、今、韓国と中国では「高句麗」をめぐって熱い戦いが始まっている。韓国は、「高句麗」を朝鮮の歴史と見ているのだが、中国では「扶余族」は漢族とも韓族とも違うところから、地方の少数民族の歴史「遼東史」として「金国=金は蒙古(元)に征服されるが後に清国を建国するヌルハチが出る。」や匈奴と同じ扱いで見ていこうとするものである。いわゆる「高句麗」は中国の一部であったという理屈なのである。それでいうなら「大琉球(沖縄)」も「小琉球(台湾)」も中国となり、朝鮮半島自体も中国の一部と言う事になるではないか。これは、北朝鮮が崩壊したときに中国が介入するための伏線をいま張っているのではないかとも考えられるのである。その延長線上に「尖閣列島」問題があるのであれば、日本人よ、気持ちをもっと引き締める必要がありそうである。
そこで、このタイトルにもどるわけである。いわゆる「扶余」および「高句麗」は中国の一部であった遼東半島の歴史という事実を韓国側は、朝鮮の歴史と位置づけてしまっていることからくる、「こじつけの史観」を批判しておきたい。これは「独島=竹島」を韓国の領土だと主張する「こじつけ理屈」と同じであるから、容易に反論が可能であろう。そこからして、扶余系ツングース族は、中国大陸においては渤海、契丹さらには金国(女真族)=清に吸収されていく運命であるが、漢族ではない。「高句麗」の一部が「百済」を経て、倭=日本にまで渡来してくる経過が、記紀神話でいうところの神武東征時の「八咫烏」ということになってくるのであろうか。出雲と熊野の神々、神武に対抗した「長脛彦・安日彦」もまた「物部氏」の系統であり、東北の蝦夷の地に行って「荒吐神(アラハバキ)」となったと「津軽外三郡志」(偽書といわれるが)は示す。ここに「物部氏」は「内物部氏」
と「外物部氏」に分かれることとなり、葛城系の蘇我氏=百済系と出雲系の物部・中臣氏=新羅系の政権争いは続き、最終的に百済系の人たちが新羅系の人を負かすという構図になっていくのである。しかし、最後には、白村江の敗戦により、唐=藤の鎌足の子孫が政権を動かして、今に至るのである。記紀の創作は藤原不比等の影響を強く受けており、真実が書いてあるとは限らない。他の文献も含めて、比較検証しながら、推論していくしか方法がない。今回についても韓国ドラマ「高句麗」の朱蒙と「八咫烏」の紋章を基軸に推論を重ねてみたが、推論の糸が絡み合って複雑怪奇であり、私自身、蘇我氏は何者なのか。(=おそらく天日槍の系統なのかと推理するが、明確な確証はない。)また「八咫烏」の紋章に象徴される人々は何者なのか、分からずじまいである。一応「八咫烏」を象徴する一族鴨氏の祖はタケツノミであるが、彼は出雲族なのである。出雲族はスサノオであり、大国主を祭る人々であり「物部氏」の系統といえる。(あくまでも記紀神話を信じればの、はなしであるが)物部は「モノ」=鬼であり、「土蜘蛛=出る雲」であり、「もののふ」となっていく。・・・・・このまえ関裕二氏の「物部氏の正体」「蘇我氏の正体」「藤原氏の正体」の3部作を読んだが、頭の糸はもつれるばかりである。つまりニニギノミコトよりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒミコトを祖にもつ物部氏は神武の東征時に「八咫烏」とともに東征に協力した者と敵対した者がいたということである。彼の「蘇我氏=天日槍説」や「藤原氏=百済王豊璋=郭 務宗説」にも記紀神話では分からないことがあって「目からうろこ」の部分があったので、みなさんにもお読みいただくことをお勧めしておきます。
また、記紀では白村江の戦いより250年前の応神と神后が「三韓征伐」をしたとあるが、これをただの神話と考えていたら、「高句麗」の「広開土王」の碑が実際に出てきて、倭国の侵略で百済・新羅が占領されたので、高句麗王がこれを撃退したと書いてある。これは「大王四神紀」のペ・ヨンジュン様が主人公のドラマにも出ているから実在の人物である。これを歴史的事実とするなら、倭国=日本からは、四度、朝鮮半島を侵略していることになる。一度目は記紀神話の「三韓征伐」、二度目は「白村江の戦い」、三度目は豊臣秀吉の「壬辰倭乱」、そして明治・大正・昭和にかけての「韓国併合=1910年」である。先の「韓国併合」の後遺症は戦後66年たった今でも(昨年は韓国併合100年であった)続いている。それは38度線で南北朝鮮半島が分断されて今に至るからである。南北朝鮮は私たち日本人の責任でもある。一日も早い統一を望むものであるが、朝鮮半島の「高句麗」以降の歴史からみると、なかなかに難しい問題である。一口に朝鮮の歴史というが五千年の歴史があるという。中国が四千年なのに、なぜ朝鮮が五千年なのかと詮索はやめよう。彼らの歴史では檀紀(檀君紀元)4344年の辛卯なのだから。日本でも平成23年は皇紀2671年である。(数え方は西暦に660年を加えるのである。)西暦とはイエスの誕生を起点にしての2011年であり、イスラム暦では1432年である。檀紀とは檀君神話に基づく朝鮮独自の歴史のカウント方法であり、日本でも記紀神話に基づき定めた神武天皇即位を紀元とするものであるから、これを他の国の人が云々口出しをすることは止めておいたほうがよいと思うのである。たしかに倭国は任那に日本府を置いていたとか、通商のための倭館がプサン等に置かれていた。といった友好の歴史もあったのである。日本の歴史より朝鮮半島の歴史が古いのは当たり前のことだから、それに対しての考えは同意である。
いづれにせよ、韓国ドラマ「朱蒙」から連想される「八咫烏=三本足のカラス」は日本にも伝わり、熊野(=クマとクモは同じ意味=熊野と出雲は同系列ということになる)神宮の象徴となり、戦国時代には鉄砲で有名な「雑賀衆」の旗となり、現代では日本サッカー協会の旗印として伝わり残ったのである。また日本には「八咫烏」の秘密結社もあるというが、漫画家荻野真が書いている「夜叉鴉」(熊野大社本宮を舞台にした漫画)の二番煎じか。私的には高野山を舞台にした「孔雀王」のほうが好きであるが・・・・・・。なお、「新羅」を祖とする今の韓国人民にとっては「高句麗」は、日本人にとってのアイヌみたいな感覚なのであろう。とは言っても、同じ国内で起こった出来事であるから、「韓国ドラマ」として取り上げているのであろうから、「太祖王建ワンゴン」にしても、そうだろうし、ましてや、歴史的にみても韓国とは何の関係もない「竹島=独島」を韓国領土だと主張するのだから、韓国も中国も大同小異かもしれない。
さて、「太祖王建」にも出てくるが、同じ男優チェ・スジョンが演じた「大祚榮テ・ジョヨン」の「渤海」国についても触れておきたい。渤海国とは今の中国黒竜江省付近で旧満州国がそれにあたる。渤海国は扶余系ツングースで「高句麗」の遺民が建国した国である。実はこの渤海国は日本にも国書を送り、以降37回にわたって通信をしているのである。最初の日本への国書には次のようにある。
伏惟大王天朝受命、日本開基、奕葉重光、本枝百世。武藝忝當列國濫惣諸蕃、復高麗之舊居、有扶餘之遺俗
この文の中で、「国書」の主・大武芸王は、「復高麗之舊居」、つまり、渤海の前身・高句麗の領土を回復し、「有扶餘之遺俗」、夫余の伝統を継承したと言っているのです。ここに出てくる「夫余」こそ、日本・渤海の原郷−かつてあった「一つの国」の名なのです。中華帝国を主体に書かれている中国の「正統」な歴代史書では、夫余を北方の野蛮な国としてしか書いていません。しかし、この国はかつて、全満州からモンゴル、更に華北(北中国)や朝鮮半島まで、広大な領土を有する大国でした。殷周革命で殷王朝が、「中華思想」を「国是」とする周王朝に滅ぼされる迄、中国(殷)はむしろ夫余の「属国」と言った関係でした。しかし、秦の始皇帝による全中国の統一以後、これらの事実は悉く葬り去られ(これが世に言う所の「焚書抗儒」の一端です)、逆に中国が満州等の周辺諸国を「属国」として来たと言う風に歴史を歪曲されてしまったのです。言い換えれば、「中華思想」とは、かつて「属国」の地位だった中国のコンプレックスの裏返しなのです。さて、その後、夫余は一体どうなったのでしょうか? 「夫余」は、朝鮮史に登場する「檀君朝鮮」と同じ国なのですが、王朝交替の中で、「高句麗」と国名を変えます。そして、その高句麗の後身が、あの「渤海」なのです。つまり、「夫余(檀君朝鮮)→高句麗→渤海」という民族の継承と言う訳です。では、日本と夫余の関係はどうなのでしょう? 実は、夫余にはもう一つの系統があるのです。そのもう一つの系統は朝鮮半島を南下した一派で、「南夫余」と呼ばれていました。この南夫余は朝鮮半島南部に定着し「百済」を建国したのですが、中には更に南下し対馬海峡を渡って、日本に来た者もいました。そして、その時、日本に渡った南夫余の王・依羅が、崇神天皇になったとも言われているのです。
「依慮王、鮮卑(せんぴ)の為に敗れ、逃(のが)れて海に入りて還(かえ)らず。子弟走りて北沃沮(きたよくそ)を保つ。明年、子・依羅立つ。自後、慕容?(鮮卑慕容部の首領で、燕国の王)、又復(ふたた)び国人を掃掠す。依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王と為る・・・」
上に記した文は、朝鮮の史料『太白逸史』中の「大震国本紀」に依るものですが、南夫余の王・依慮はモンゴル系鮮卑族との戦に敗れ戦死?した(「還らず」が示唆している)、翌年、王子の依羅(依罹)が新たな王となり、北沃沮(地名)を領有したと言っているのです。更に、宿敵・慕容氏に再び攻められ、新王・依羅は国民を引き連れて対馬海峡を渡り、日本に入って「倭人の王」となったと言っているのです。そして、依羅(依罹=イリ)が、御間城入彦(ミマキイリヒコ)、つまり崇神天皇だったとすれば、日本の皇室も又、夫余の流れを汲んでいたと言う事になるのです。
天平時代の神亀4(西暦727)年12月20日、寧楽(なら)の都(平城京)に、遙か彼方・満州から使節一行が入京しました。当時、満州にあった渤海国からやって来た使節は宮中に参内し、渤海国王・大武芸(武王)の国書を、時の帝・聖武天皇に奉呈しました(下記)。
<原文>
武藝啓。山河異域、國土不同。延聽風猷、但増傾仰。伏惟大王天朝受命、日本開基、奕葉重光、本枝百世。武藝忝當列國濫惣諸蕃、復高麗之舊居、有扶餘之遺俗。但以天涯路阻、海漢悠悠、音耗未通、吉凶絶問、親仁結援。庶叶前經、通使聘隣、始乎今日。謹遣寧遠將軍郎將高仁義・游將軍果毅都尉將徳周・別將舍那婁等廿四人、賚状、并附貂皮三百張、奉送。土宜雖賤用表獻芹之誠、皮幣非珍、還慚掩口之誚、主理有限、披膳未期。時嗣音徽、永敦隣好。
<読み下し文>
武藝(渤海国王・大武芸本人)啓す。山河域を異(こと)にして、国土同じからず。延(ほの)かに風猷(ふうしゅう)を聴きて、但(ただ)、傾仰(けいぎょう)を増す。伏して惟(おも)うに、大王の天朝、命を受け、日本の基(もとい)を開き、奕葉(えきよう)光重く本枝百世なり。武藝忝(かたじけ)なくも列国に当たり、濫(すべ)ての諸国を惣(す)べ、高麗(高句麗のこと)の旧居を復し、夫余の遺俗を有(たも)てり。但、天涯路(みち)阻(へだ)たり、海漢(ひろ)く悠々たるを以て、音耗(おんもう)未(いま)だ通ぜず、吉凶問うことも絶ゆ。親仁を結び援(あわ)せん。庶(ねが)わくば前経(ぜんけい)に叶(したが)い、使を通じて隣に聘(へい)すること今日に始めん。謹みて、寧遠將軍郎將高仁義・游將軍果毅都尉將徳周・別將舍那婁ら二十四人を遣(つか)わし、状(のり)を賚(たま)い、并(あわせ)て、貂皮(てんがわ)三百張(はり)を附け、送り奉(たてまつ)らん・・・(以下略)
時の朝廷は、はるばる満州から、高級な貂皮等の「おみやげ」を持ってやって来た渤海国の使節に、右往左往すると同時に、「大国」日本に、「属国」の礼をとってきたものと勝手に解釈し、狂喜乱舞しました。そして、この時から延長7(西暦930)年1月31日の来朝迄、約二百年間に渡って、実に37回も渤海国使節が日本に来訪したのです。
改めて言いますが「日猶同祖論」というのもあります。京都の祇園祭の山車の絵などから、失われた「十支族」が中国大陸を横断して、日本に渡ってきたという説が、第二次大戦時に再燃していましたが、それと、秦氏、東漢氏との関連あるいは渤海国、百済、高句麗などとの関連も今後は検討してみたいと思いますが、この稿については、ここらへんで終わりたいと思います。そうしないと、次から次とつづいていくことになりそう・・・・
それから現代に続く過去の歴史のこだわりとして未だに大きくあるのは地域間での差別があるそうです。全羅道と慶尚道とかの対立が、表層的に現れています。全羅(チョルラ)道とは昔、百済があった地域であり、慶尚(キョウサン)道は新羅があった地域である。ついでに余談であるが地域名について解説すると全羅道とは地方都市の全州(百済の皇宮があったところ言わば首都である。)と羅州を合わせた言葉で、慶尚道とは慶州(新羅の首都であったところ)と尚州を合わせた言葉である。日本で言えば東京と横浜を合わせて「京浜」といい、京都、大阪、神戸を合わせて「京阪神」というようなものである。それに「道」をつけたのだ。