5、   姉と嫁のおかげで出世した京極高次

 

問題6;初代八幡城主の豊臣秀次はよく知られているところだが、小田原征伐の功により第二代八幡城主で最後の城主となった人物の名は誰か。(彼が大津城へ移転の後八幡城は廃城となる)大河ドラマの「お江」の姉「お初」の夫と云えば分かるかな。関ヶ原後は大津城での戦功が認められて小浜城主となる。

@     田中吉政 A山内一豊 B京極高次  C藤堂高虎 D細川忠興   

 解答・・・・

 

<解説>

 京極家は、元々、近江守護の佐々木家から分かれ佐々木京極家が湖北を、佐々木六角家が湖東湖南を領していた。・・・・保元・平治の乱で源義朝に味方した近江源氏の佐々木秀義は源頼朝につき従い関東に流罪となったが、平家打倒の兵をあげた頼朝軍として参加。彼の息子の定綱、高綱、経高など兄弟は頼朝の側近として仕え、木曽義仲追討の宇治川の合戦や平家追討で名をはせた。定綱の四男の佐々木信綱は、承久の変の功により鎌倉幕府により近江他数ヶ国の守護に任じられた。そして彼の4人の息子に近江を分けて継がせた。このうち、江北(北近江)にある高島郡伊香郡浅井郡坂田郡犬上郡愛智郡6郡と京都の京極高辻の館を継いだ4男の氏信を祖とする一族が後に京極氏と呼ばれるようになる。なお、この時に江南(南近江)を継いだ3男の泰綱は佐々木宗家を継ぎ、六角氏の祖となっている。長男の重綱と次男の高信も坂田郡大原庄と高島郡田中郷を相続、それぞれ大原氏高島氏の祖となった。その後、建武の新政により鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏に仕えた佐々木導誉(京極高氏)の活躍により、京極氏は室町時代出雲隠岐飛騨守護を代々務め、バサラ大名として繁栄した。応仁の乱の後は家督争いや浅井氏の台頭により衰退したが、京極高次高知兄弟が戦国時代織田信長豊臣秀吉徳川家康に仕えて家を再興した。徳川時代から明治維新を生き延び華族に列せられている。なお佐々木導誉(京極高氏)の孫の高久が山名氏の起こした明徳の乱で活躍し出雲尼子郷を分け与えられ以後、尼子氏の始祖となる。

 さて、京極高次の頃は、北に家臣であった浅井氏が起こり下剋上により京極氏に代わって戦国大名化していた。南は佐々木六角氏が観音寺城を拠点に、浅井氏と近江の領有権を争っていた時代である。京極氏は戦国末期には新興の浅井氏に追われて崩壊状態でした。

やがて織田信長によって浅井氏が滅ぼされると、当時京極氏当主の高次は離散していた家臣を集めて知行五千石で信長に仕えることになります。しかし、かつての京極氏の栄光とは天と地ほどの差があったのです。1582年に主信長が本能寺の変に倒れると、高次は明智光秀のもとにはせ参じます。しかし光秀は秀吉にあっけなく敗れてしまい、高次は越前の柴田勝家、さらに若狭の武田元明を頼って落ち延びていきます。しかし、賤ヶ岳の合戦で秀吉は柴田勝家を破ると、余勢をかつて武田元明をも滅ぼし、高次は行き場がなくなってしまいます。さて、ここまで追いつめられれば自害して果てるか、もしくは敵将のもとに出頭して沙汰を待つかといったところが戦国のならいですが、高次はそのどちらもとりませんでした。高次は武田元明のもとに嫁いでいた妹竜子を秀吉に側室として差し出します。竜子はかなりの美貌の持ち主として知られ、一方秀吉は一角ならぬ女好き。秀吉は高次を許し、知行二千五百石を与えます。

やがて高次の妹竜子は秀吉の寵愛をますます受け(後の京極殿)、高次はついに近江大津六万石の城主となります。さらに秀吉の死の直前には従三位参議に叙任されるにいたります。こうして高次は見事に京極氏の復興を完成させますが、その出世の功績は秀吉の寵愛を受けた妹竜子の力によるところが大きいと言えます。つまり秀吉の死後は後ろ盾を失い、他の秀吉の寵臣達と同様没落の一途をたどる、はずでした。ところが・・・。京極高次の妻はお初と言い、浅井長政とお市の方の間に生まれた三娘のうちの次女にあたります。彼女の姉である長女茶々は秀吉の側室で、妹の三女お江は徳川秀忠(のちの江戸幕府二代将軍)の正室となっていました。豊臣秀吉の死後は五大老筆頭の徳川家康が台頭し、徐々に実権を握っていきます。こうしたなかで高次は、妻が徳川秀忠正室の姉である縁で徳川家に急接近します。そして関ヶ原の戦いでは大津に籠城して豊臣方と戦います。

結局大津では豊臣方に敗れていったん高野山に逃れますが、戦後はその軍功で若狭小浜八万五千石に封じられ、さらに翌年には七千石加増されて最終的には九万二千石の大大名となったのです。 しかし高次はいきなり大津城主となったわけではなく、赦免された当初 (天正十二年) は近江高島郡田中で二千五百石であった。しかし同十四(1586)年には高島郡で五千石、九州攻めの後には大溝城一万石、小田原攻めの後には八幡山城二万八千石と、まさにトントン拍子で出世することになるが、これには松の丸殿の存在が大きかったであろう事は想像に難くない。そして文禄四年に高次は大津城主となり、慶長元(1596)年には従三位参議に任官し、以後「大津宰相」と呼ばれるまでになるが、周囲からは彼の功績などではなく妹の「尻の光」で出世したという意味から、蔭で「蛍大名」と囁かれた。

戦国の世にあって、武功によらず妹と妻という二人の女性によって九万石の大名にのし上がったというのは大変珍しく、おもしろい例と言えます。また、徳川時代には京極家の子孫は四国丸亀藩に移封になります。現在でも丸亀市のPRを京極おもてなし武将隊がしていて京極家を有名にしている。

なお、京極高次を大名にした彼の妻とその妹お江は、数十年前に京極家を没落させた浅井長政の娘達というのも大いに興味深いところです

 なお、京極高次の弟に「京極高知」がいるが、彼も兄高次と同じく、秀吉に仕え、信濃飯田城6万石を領し、関ヶ原の合戦では東軍に属し、丹後12万石(田辺城・宮津城)を賜っている。子孫はのち但馬豊岡へ転封をさせられるが、徳川幕府内では若年寄を出すなどの中枢大名として活躍している。

また忠臣蔵で有名な大石内蔵助夫人「大石りく」は、但馬国豊岡藩京極家の家老石束源五兵衛毎公の長女として誕生している。また、大石内蔵助良雄の本貫は滋賀県である。少し長くなるが、彼の生い立ちを見ておく。なお、「良雄」はで、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られる。大石家は藤原秀郷の末裔小山氏の一族である。代々近江国守護佐々木氏のもとで栗太郡大石庄(滋賀県大津市大石東町・大石中町)の下司職をつとめていたため、大石を姓にするようになった。その後、大石氏は応仁の乱などで没落したが、大石良信の代には豊臣秀次に仕えた。秀次失脚後、良信の庶子にして次男の大石良勝(良雄の曽祖父)は京で仏門に入れられたが、京を脱走し江戸で浪人した後、浅野家に仕えるようになった。良勝は、大坂夏の陣での戦功が著しかったため、浅野長政の三男浅野長重(長矩の曽祖父で常陸国真壁・笠間藩主)の永代家老に取り立てられる。長重の長男・長直は赤穂に転封されたので、大石家も赤穂に移ることになる。

良勝の長男大石良欽赤穂藩浅野家の筆頭家老となる。また良勝の次男大石良重も家老となり、浅野長直(長矩の祖父)の息女鶴姫を妻に賜っており、その子の二人はいずれも浅野長直に分知されて幕府旗本(浅野長恒浅野長武)になった。

大石良欽は鳥居忠勝鳥居元忠の子)の娘を娶り、その間に大石良昭を長男として儲けた。その良昭と備前国岡山藩の重臣池田由成(天城3万2,000石を領する大名並みの陪臣)の娘くまの間に長男として、播州赤穂城内に生まれたのがこの大石内蔵助良雄である。

このように、良雄の直系の曾曾祖父である大石 良信(おおいし よしのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、関白豊臣秀次の側近として近侍したが、秀次が切腹したために浪人する。その後仕官したかどうかは分かっていないが息子の良勝の代に笠間の浅野家に仕官し大阪夏の陣で活躍したといわれている。

京極つながりで、忠臣蔵の大石家まで言及したが、余談なお話でした。余談ついでに、私がNHK大河ドラマの「お江」で印象に残っているのは京極高次に嫁いだ浅井長政の二女「お初」役の「水川あさみ」が印象に残っています。