16、近江八幡と柴田勝家の関係

 

問題16信長亡き後、勝家と秀吉が戦った賤ヶ岳合戦で、敗れた柴田勝家は北の庄城(福井市)で滅亡しますが、柴田勝家が北の庄城に移る前は(天正5年北陸の上杉氏に対抗するため転封)近江八幡市内の城を居城としていました。永禄11年に足利義昭を擁した信長が入京のため近江に侵入以降、近江平定に、秀吉が長浜城、明智光秀が坂本城、佐和山に丹羽長秀配して分封支配した頃です。そして勝家の居城のあった地を現在でも『瓶割山』と呼ぶ。彼の異名ともなった「瓶割り柴田」が居城とした市内にあった城の名前はなんですか。近年、南隣の東近江市羽田地区においては、この時の柴田の異名の元となった「柴田勝家」と「六角義治」の戦いをモチーフにした「雪野山歴史まつり」を開催し「水鉄砲」合戦が行なわれている。

@     雪野山城 A岩倉城 B馬淵城 C長福寺城 D長光寺城        □ 

     解答・・・・・

   <解説>

「瓶割り柴田」の異名と瓶割城(長光寺城)のこと

「元亀元年(1570)織田信長は朝倉攻めの途中、浅井長政に背後を突かれて、急遽越前から京へ退却。
その後岐阜へ戻るが、その途中六角承禎、義弼父子によって襲撃されたこともあって同年5月、信長は諸将を江南の城に配した。その時、長光寺山の守備を命ぜられたのが柴田勝家で、勝家は古城を修築して、長光寺城に入った。
 同年6月、伊賀に潜んでいた六角承禎は、敗残の兵を集めて一向一揆を扇動し、浅井とも同盟を結んで、5000余の軍を率いて、柴田勝家の立て籠もる長光寺城を包囲した。勝家は800余名の兵と共に城を堅く閉じ、ひたすら籠城策をとった。
 これを攻めあぐんだ六角承禎は城の水源を断ち、ころを見計らって配下の平井勘助を使者に出し城内の様子を探らせた。ところが案に反して城中では水は潤沢で、馬のからだを水で洗うという豪勢さであった。だが、これは勝家の苦肉の策で実際のところは、飲料水にも事欠く有様であったのである。
 こうして六角勢の意気を挫いた勝家は同6月23日を期して城を打って出ることとし、その前日、籠城戦と食料の欠乏のため、ゆるんだ志気を高めるために、勝家は城兵を前にし、長刀の柄で最後の水を貯めた瓶を割って見せた。
つまり、このままむなしく死を待つか、それともここを先途と打って出て活路を開くか、この決断を促したのである。
 23日未明、 総勢800余名を引き連れた勝家は城門を開くと、山を揺るがすばかりの鬨の声をあげて六角軍の本陣をめがけて、打って出た。
不意をつかれた六角軍は総崩れとなって、300余名が戦死したという。
この時以来、柴田勝家のことを「瓶割り柴田」と呼び、長光寺城のことを「瓶割城」と呼ぶようになった。)

 これは、戦国史の中でも有名な話である。現在、長光寺山を「瓶割山」と呼ぶことに、何の疑問も持っていない市民が多くなっている。嘆かわしきことである。なお、余談だが、福原教育長が住んでいる、彦根市肥田町は、近江の戦国史のなかでも特筆すべき「水責め」が戦国歴史の中で最初に行われた城があったところである。秀吉の毛利攻めの時の備中高松城の水責めは有名であるが、それに匹敵する水責めの戦いが展開されたのが、この近江の地であったことは覚えていてほしい。ちなみに野良田合戦は浅井氏と六角氏が戦った合戦場として有名である。合戦で言えば毛利と大内が覇を争った厳島の戦い、今川と織田の桶狭間の戦いぐらいに有名なはずなのだが、肝心の地元の人が知っている人は少ないのは残念である。

越前福井市には柴田神社があり、瓶割りの絵馬が奉納されており、柴田勝家まつりも行われている。一度訪ねられたら良いでしょう。ですが、福井市民に瓶割りの絵馬の由来を聞くと、まず正確に答えられる人は少なかった。残念です。

瓶割山(別名:長光寺山)は、湖東平野の田園地帯に盛り上がった里山です。隣に双耳峰のような位置関係で岩倉山(標高:約220m)が並んでいます。登山道は、@北側の工業団地近くにある神社近くから登り、岩倉山の鞍部に降りるルートと、A南側上平木町にある日吉神社から、水道配水タンクの管理用道路(通行禁止)を伝うルートがあります。山域には長光寺城址の遺構があり、掘割跡や石垣・井戸などが散見でき、往時のよすがが偲ばれます。応仁年代(1467〜69)の頃、佐々木氏の築城と言われています。その後、織田氏の支配となり、六角氏との戦で、守将の柴田勝家は籠城戦を取り、水瓶を割って士気を鼓舞いしたことから「瓶割柴田」の異名が付けられました。瓶割山の名前の由来は、これによると伝えられています。瓶割山南側中腹と岩倉山には、現在の水瓶である上水道の配水タンクがあります。

 

柴田勝家には長光寺城主時代から六角氏の旧臣が多く家臣となっている。これは長浜城主の豊臣秀吉と同じく城持ち大名として近江出身者を多く雇用した結果である。柴田勝家はこれら家臣の他に北陸軍団長として大名級の「与力」がつけられている。前田利家、佐々成政、佐久間盛政などである。拝郷 家嘉(はいごう いえよし)も、尾張出身の織田氏の家臣だが、柴田勝家与力として北陸戦線で功績を挙げ、加賀大聖寺城の城主に任じられた与力の一人である。主君の織田信長の死後、勝家と羽柴秀吉が天下の覇権を争った賤ヶ岳の戦いに出陣し、勝家方の将として佐久間盛政の攻撃隊に参加したものの、盛政・柴田勝政山路正国らとともに退却する際に福島正則に近江柳ヶ瀬にて討ち取られた。その子孫は徳川家に仕えたとされているが、ここに登場するのが「拝一刀」である。「拝家は織田信長に仕えた武将、拝郷家嘉をルーツとし、一刀は家嘉の子である孫十郎の子、正直の子である。拝の姓は、拝郷が武士が見せてはいけない「背後」に通じるとして、拝郷の「郷」を取って拝とあらためたという。」というように劇画『子連れ狼』においては、拝家がどのような家柄で、どういう歴史を持つかについては、詳しく描かれている。これはフィクションではあるが、現実に拝一刀の使う剣術=流派(水鴎流)を今も静岡県下を中心に命脈を保つている古流剣術=水鴎流があるという。

  

●仏教の四天王にちなんで、優れた者を指して徳川四天王とか織田四天王と云われる。徳川家康の四天王は酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政を言い、織田信長四天王は柴田勝家・滝川一益・丹羽長秀・明智光秀を言う。ここに羽柴秀吉を入れた場合は「五大将」という。では、織田四天王のうち、近江国(滋賀県)の出身でありながら近江に城がもらえず、関東を中心に戦った軍団長で、その昔、服部氏と双璧をなした伴氏の流れをくむ人物に滝川一益がいる。彼の出身地は今の甲賀市とされている。なお親族には前田慶次郎利益がいる。

また、近江八幡市の有名人で検索すれば、戦国武将で言えば豊臣秀次や織田信長だけでなく、「浅井長政」もヒットした。それもそのはずで、「浅井長政」は、浅井氏が六角氏に従属していたころ、浅井久政の嫡子として観音寺城下の浅井家屋敷で生まれて育っているからである。当初の名前も、六角義賢の「賢」をもらって「浅井賢政」と名乗り、最初の妻も六角氏の重臣平井定武の娘を嫁にしている。その後、小谷城で、反六角の姿勢をとった彼は六角義賢の偏諱である賢を捨て、信長の長をつけ「長政」と改名している。

 

織田信長は、平清盛の子孫であって「平信長」だと名乗っています。なぜなら平清盛の長男が重盛でその子が平資盛であり、信長の出た織田氏はその資盛の末裔だとされているからです。NHK大河ドラマで承知でしょうが、平清盛は南都六宗を焼き討ちしています。また、織田信長も比叡山延暦寺を焼き討ちしています。それに信長の部下になった松永久秀が多門山城の戦いで、東大寺の大仏の首を落した事件は有名です。