湖国法城の八幡別院は浄土真宗本願寺派
江戸時代には朝鮮通信使の休憩場所となり、書院には通信使の書が残っている「湖国法城」の額があるお寺です。現在は浄土真宗本願寺派の滋賀教区の教務所があります。そのお寺の名前は金台寺といいます。
八幡別院は、浄土真宗本願寺派の別院である。織田信長と戦った「石山本願寺」は、一向衆とも呼ばれたが、本当は「浄土真宗」の門徒と自らを呼ぶように気を付けることが「蓮如」のご文章で明らかであるが、真宗門信徒は、「死ぬことを厭わなかった」から強かったといわれる。その原因は正信偈の「往還回向由他力」による本願力の教え(往相回向・還相回向)にあると云われる。教義にいわく「阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて 仏となり、 迷いの 世に還って 人々を 教化する。」往生とは本来死ぬということではなく,生まれていくという意味で,お浄土といわれる仏さまの世界へ生まれさせていただくことであります。「正像末和讃」には「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」と、「真実の心」は虚仮不実の身である凡夫には無いと述べ、如来の本願力回向による名号の功徳は十方にみちたまう。それが、浄土真宗の教えである。
なお浄土真宗の本願寺教団は、織田信長と全国で一向一揆衆として戦ってはいるが、他の真宗(仏光寺派、高田派など)教団は、織田信長や他の戦国武将とは衝突していない。唯一、戦国武将と戦った真宗教団は「蓮如」系統の東本願寺・西本願寺である。こうした歴史を踏まえて、一向一揆を眺めてみるのも面白い。
本願寺第8代門主である「蓮如」が山科本願寺を焼け打ちされ、越前国吉崎御坊まで逃れる際、近江八幡にも立ち寄っている。蓮如上人については、浄土真宗の本願寺派や大谷派では「ご文章・お文」といわれる「お手紙」が有名である。そのお手紙で蓮如上人は「本願寺門徒と一向宗(浄土宗の一派:一向俊聖上人)は違うものであり加担してはならない」と再三にわたって戒められているのをご存じだろうか。さて、彼の戒めにも係わらず、その後、本願寺教団は大阪に本拠を移し、戦国時代には石山本願寺合戦として織田信長と戦った。俗に一向一揆というが、その時の本願寺住職・門主は諱を本願寺光佐とも云われるが通常は「顕如」という僧名(法名)である。また本来の一向宗(浄土宗系)の本山は滋賀県米原市にある蓮華寺であることに留意。
親鸞聖人は、迷信俗信に惑わされている人々を悲しまれ、すでに八百年の昔に、(正像末和讃) 「悲しきかなや道俗の良時・吉日えらばしめ・・」というご和讃を作られています。
「物忌み」というのは、今ふうに言えば「迷信」のことです。「物忌み知らず」というのは、簡単に言えば「迷信に無関心」ということですが、「忌み事」を無視する勇気も必要です。まずは、横綱クラスの「物忌み」に「大安」とか「仏滅」とかいった、いわゆる「六曜」があります。これは、もともと中国で生まれた占いの考え方ですが、その本家本元の中国でも廃れてしまっています。「大安」や「仏滅」が日本で流行したのは明治のころです。陰暦から太陽暦に変わった頃で「六曜」を暦に書き入れることが流行りました。戦後、出版の自由が叫ばれるようになって、再び流行しはじめます。つまり、先勝(せんかち)、友引(ともびき)、先負(せんまけ)、仏滅(ぶつめつ)、大安(たいあん)、赤口(しゃっく)の6種類は、もともと根拠も無く歴史も浅い「迷信好き」な人々をあてこんだカレンダー屋の商売ネタにしかすぎません。これが大きな迷信であることは、ちょっと頭を冷やして考えればすぐに分かることです。次は大関クラスの迷信です。それは「4」とか「9」とかいった数を嫌う迷信です。これは言うまでもなく、「4」は「死」に通ずる、「9」は「苦」に通ずるという語呂合わせからきたものです。
結構立派なホテルでも、4号室や9号室、それに13号室という部屋がないところもあります。それほど「4」という数字が嫌いなら、「4」が縁起が悪いというのなら、自動車だってタイヤの数は4つですし、机の足だって4本なんですが、これは一体、どう考えるつもりなのでしょうか。日本には、こういった「語呂合わせ」から生まれた迷信が沢山あります。たとえば「中陰」に関するものです。「中陰」とは、ご承知の通り、葬儀のあと忌明(満中陰)までの49日間のことですが、この49日間が「三ヵ月」にまたがるのを嫌って「35日目」に忌明を勤めてしまう方(特に女性だった場合)が意外に多いのです。これも、「三月」が「身付き」と語呂が合い「不幸が身に付く」といって嫌われているからなのです。しかし月の初めの10日頃までに死ななければ「中陰」は必ず三ヵ月にまたがってしまうのですから、単純に言って6割くらいの「中陰」が三ヵ月にまたがってしまう計算になります。こんな語呂合わせのような「言葉遊び」に振り回されて、大切な心の整理期間である「中陰」をないがしろにすることの方が、不都合なのではないでしょうか。タイプは違いますが「交通安全のおふだ」も、みんなこの仲間です。「物忌み」とは、平安時代に陰陽道が日本で盛んになった頃の考え方で、災厄や、霊鬼から身を守るための行い事をいいます。現代でも、特に通夜や葬儀などの仏事には、いわゆるケガレ意識からくる「忌み事」として、あたりまえのように行っていることがあるのですが、多くは死や死者を穢れた者と見る考え方から来ています。しかし浄土真宗では、亡くなられた方を仏さまと仰ぎ、その死をケガレとは考えません。ですから、昔から浄土真宗の門徒の方は、この「忌み事」を必要のないものとしてきました。元々は迷信・占い・日の吉凶にとらわれずに生活してきたということから他宗の方々から「門徒」は「物忌み知らず」と呼ばれるようになりました。これは他宗の仏教信者が「仏教の作法を知らない」と批判する際に使われる言葉でもあります。現在でも初めて葬儀を出される方々は、どうしてそんなことを行うのか、意味も分からないまま行われていることも多く「忌み事」は、本当は死者を冒涜するようなものばかりなのをご理解ください。
例えばお葬式の例ですが、葬儀の後、出棺の際に棺の蓋に石で釘を打つ「釘打ちの儀式」が行われていることがあります。これは「石には霊を封じ込める力がある」という迷信から来ており、死のケガレを石の力によって棺の中に封じ込めてしまおうとするものです。最近では、それ自体も変わってきて、金色のハンマーで釘うちをする葬儀も聞いたことがあります。「もう出てきてはいけませんよ」と、棺の蓋を固定するというのです。「帰ってきてほしい」泣きながらおっしゃっておられたご遺族が、意味も分からずに釘打ちを行う事は、あまりにも悲しく思えます。故人が生前に使っていたお茶碗を音をたてて割ることも「忌み事」として残っております。これは故人に対して「あなたが帰ってきても、ご飯を食べるお茶碗はありません。」と伝えていることだそうです。お骨を拾う時、二人で一つのお骨を拾わねばならないとする「忌み事」もあります。これは、死のケガレを分散させるためだそうです。
また、棺を霊柩車に乗せる前にグルグルと三回ぐらい回してから乗せる地方もあります。これは、棺を回すことによって死者の目を回し、今まで住んでいた家を忘れさせるためだそうです。これも「もう帰ってきてはいけませんよ」いう意味なのでしょうが、故人を偲ぶはずのお葬式が、もう邪魔者扱いです。他にも、棺の中にお金を入れる忌み事もあります。昔、六文銭を棺に入れていたなごりのようですが、六文銭を入れるというのは、三途の川の渡し賃だそうです。「せめて三途というひどい世界だけは越えてくれ」といった気持ちが六文銭という渡し賃につながったのだと思いますが、結局は渡ったら帰ってくるなという発想から来ています。今は六文銭が紙に変わっています。葬儀業者が印刷した物を持ってくるからです。
出棺を終えた後も忌み事は続き、今度は火葬場への道を、行きと帰りでは変えるということもよく聞きます。「同じ道を帰ると亡くなった者がついてくる」と言って、家までの道を覚えさせないために行われているのです。何だかここまで徹底してくると、「忌み事」は故人の冒涜にとどまらず、遺族をも苦しめるようなものに思えます。最後には、葬儀や火葬場から帰ると、家の中に入る前に塩を身体にかけるという「忌み事」があります。いわゆる「清め塩」にはケガレを落とす力があると神道では信じられており、葬儀や火葬場に行くと死のケガレがつくので塩を使ってケガレを落としてから入るということだそうです。神道の方は塩を使っても良いと思いますが、我々仏教徒には必要のないことです。物忌みはこれ以外にも、方角の吉凶、家相、手相、墓相、占い、まじない、厄払いなど、数え上げればキリがありませんが、すべて迷信俗信のたぐいです。その他、箸を立てたり、旅装束を着せたり、守り刀を持 たせたり、逆さ屏風にするなど仏教伝来以前の習俗は、私たち門徒の仏事である葬儀で は行いません。(これらは決して他宗の批判をしているわけではありません。)余談ですが、鬼のイメージとして、牛の角に虎の毛皮のパンツがありますが、それは方位でいう「鬼門」の方角「丑寅」の方角から来ているものである。
浄土真宗のご門徒の方々は、この物忌みが親鸞聖人がお示しになられたお念仏の教えとは大きく異なるものであり、これらが死者を冒涜するものであることをよく知っていたからこそ「忌み事」を行なってはこなかったのです。我々浄土真宗門徒は、この「門徒物忌み知らず」という言葉を、浄土真宗の「誇り」であると受け止めて理解したいと思いますが、しかし一般的には、この物忌みが今もなお、当たり前のように執り行われているのが現実です。このようなことは習俗として門徒の方のなかにも、そういった慣習・慣行に流されておられる人も見受けられます。・・・よく聴聞し、流されないようにしましょう。
浄土真宗になじまない言葉として、「ご冥福をお祈りいたします」という言葉があります。冥福という言葉ですが冥とは、「暗黒。くらやみ。無知と同義語。」と出ており、迷いの世界を指す言葉です。つまり冥福を祈るとは、「死後、暗黒の迷いの世界に落ちたあなたですが、その世界での幸せをお祈りいたします。」という意味の言葉なのです。(電報の例文に「冥福」が非常に多いのでご注意)以上のようなものが「忌み事」と呼ばれているものですが、浄土真宗の人たち、門徒さんは自分たちの教えと大きく異なるものであり、これらが死者を冒涜するものであるとよく知っていたから行ってこなかったのです。
しかし他宗の人たちは「門徒物知らず」といって、自分たちの習俗が迷信から来ていることさえ判らずに門徒を「うつけ」て来た言葉なのですが、それは、迷信や習俗に従わない門徒だからこそ、私達は逆に、「門徒物知らず」あるいは「物忌み知らず」を「誇りに思い」社会にも広げて変革する必要があると考えるのです。この「ケガレ意識」に基づく「慣行・慣習」の弊害の一つに「女性蔑視」「女性差別」という社会構造としての「差別意識」があります。若衆が少なくなり「祭り」の存続が心配な地域でも「女性も参加してもらおう」と意見を出してもなかなか成立しない。「抵抗勢力」や「カベ」があるといいます。大相撲で「女性を土俵に上げない」という事案がありましたが、本音は「女性はケガレている」という意識(昔は三穢といい、死穢、産穢、血穢の三つとも女性に当てはまるから女性蔑視の原因となった意識)が根本にありそれを屁理屈で誤魔化していました。女性が穢れているなら、そこから生まれる男性(相撲とり)は何なのだろう?と言いたくもなりますが、こういった迷信の「忌み事」を小さいものから地域から一つ一つ潰して解決していく、「不断の努力」こそが私たち門徒に今こそ求められているものではないでしょうか。今でも、宮参りは30日を過ぎてから、とか鳥居は母親は潜れないなどの迷信=蝕穢思想が生きている地域もある。八幡祭りに女性を参加させないというのも、改める時期がきているのではないでしょうか。
私事の葬儀のことから、女性差別の社会的なものにまで話が広がりましたが、「差別問題」や「人権尊重のまちづくり」として共に考えて見ましょう。
私たち真宗門徒は、お盆に「おしょらいさん」をお迎えしたり、追善供養をしません。
6月に亡くなった「つれあい」の父(義父)「釈 智清」の「満中陰」が7月24日にありました。月忌、百ヶ日というのは、紙に張り出してありましたが、「8月の初盆はしないでよいのか」と親族の方がおっしゃるものだから、「浄土真宗では、「お盆」のための特別な行事はしません。」と、簡単な説明がお参りに来られた住職からありましたが、私は十分に分かっていたのですが、他の皆様はご理解されたのでしょうか不安です。浄土真宗では一般に、「先祖霊」をお迎えや送りはしないのです。なすびやきゅうりも使いません。ただし、一部の地域では真宗門徒も、慣行・習俗として「お盆」行事をしているところがありますが、この滋賀県の近辺ではしません。それは何故でしょうか?
また、先日(7月16日)京都の「祇園さん」(宵宮)を見に行きましたが、京都のお盆では、精霊をお精霊さん、「おしょらいさん」と呼びます。このお精霊さんが各家庭に帰って来るのは8月12日の夜とかで、13日の朝の朝食より、16日の朝の朝食までを、お精霊さんとの精進料理で過すこととなります。精進料理は生ぐさものを避け、ダシも鰹節は使わずコンブと椎茸でとります。そして「七種」(なないろ)と呼ばれる、瓜、ほおずき、ささげ、枝豆などを供えます。でも今どき、この風習を厳格に守っている家庭は少なくなっているそうです。そして、8月16日の夜、大文字の送り火と伴にお精霊さんは帰っていくこととなります。
普段私たちの地域でも「おしょらいさん」をお迎えするとか言っています。御招霊(おしょうれい、おしょうらい)は、日本の盂蘭盆(うらぼん)の年中行事の一つでお盆に先祖の霊があの世から帰ってくるとされるものを迎える、または招く迎え火の一つです。「ごしょうらい」や「ごしょうれい」と呼んだり、お招霊とも書かれます。天台宗や浄土宗の家では「お盆」の行事があります。そのため、私たち真宗系の門徒は「お盆」の行事をしないことからも、「門徒もの知らず」と言われています。幼い頃は、わが家では「お盆」のお迎えをしないのを不思議に思っていました。(母の実家が天台宗だったので、お盆には迎え火と送り火を焚きお飾りをし、という日本のごく普通のお盆の迎え方をしていましたのを覚えています。)
先祖が帰ってくるのに道が暗いと困るので明かりを持って迎える意味を持っている「迎え火」に対して、お盆の後にあの世に戻って行く先祖の霊を送り出す「精霊流し・送り」や「送り火」があります。旧暦の7月15日のお盆前の13日に行なわれた行事である。京都の「大文字の送り火」や映画にもなった「精霊流し」は有名な行事です。
また、死者の霊そのものを「おしょらい」や「おしょらいさま」と呼び、「御招霊」とは違う漢字の表記の「お精霊」や「お精霊様」とする迎え火や送り火も京都のほか多くの地域で広く行われます。「おしょうらい」を「お招来」と表記すべきか、「お聖霊」なのか、小生はそんなことは知らない。そもそも「おしょうらい」ではなく「おしょらい」と言っていたような気もする。多分「お聖霊」が正解だろう。おしょらいの火で13日にご先祖様をお迎えするわけである。お盆休みが近づくなかで、「お盆」の意味を門徒として見直してみませんか?
〜門徒は、お盆のお迎え・送りの準備はしません〜
さて、私たち浄土真宗の門徒としては、「お盆」をどのように、迎えたらよいのだろうか。前述の義父の満中陰のとき、「お斎(とき)」の際にご住職に聞いてみました。
住職は「お盆」のことを「歓喜会(かんぎえ)」とも言うし、盂蘭盆会(うらぼんえ)というのも仏教行事である以上、浄土真宗も無視はできません。しかし、浄土真宗ではお盆に「死者・ご先祖」を地獄か浄土(天国じゃありません)からお帰りくださるための特別な用意はしません。(真宗では霊魂が帰ってくると言う考え方はない)新盆にも当てはまります。(新盆の迎え方については,宗派や習慣によって,さまざまですが浄土真宗の場合は,特別に何かをしなければならないということはありません。浄土真宗の教義では,亡くなられた方は,阿弥陀さんのおられる浄土に生まれ出るので,わざわざ現世に戻ってこられないのです。「門徒忌み知らず」と他宗派の方から言われますが,気にすることはありません。
年忌法要やお盆などにお坊さんと接する機会がありますが,浄土真宗本願寺派では,亡くなられた方への追善供養をするわけはなく,それのことをきっかけに仏道や御仏に接する機会であるとおっしゃる住職さんがたくさんおられます。
お盆という行事は仏教のものではなく(他の仏教国にはそのような行事が無い)、中国経由で仏教が伝わる際に、シルクロードを通って伝わった他の宗教行事とミックスして、日本で独自に発展したもので、仏教の心を味わうには伝統的な意味で必要な行事でありますが、霊魂が帰ってくると言う考え方は仏教には無いので、浄土真宗ではそのような考え方につながるお盆での特別なことはいたしません。新盆(今年に亡くなった方のお盆)でも同じことです。同様のことは、喪中ハガキにも見られます。門徒は、あえて年内に喪中(年賀欠礼)ハガキを出す必要はありません。年賀状でよいのです。私は、そうしようと思っています。
なお、お盆の行事は、宗教行事というよりも地方独自の民俗行事ともなっておりますので、日本全国一律の作法があるのではなく、地方ごとに、その土地の特産物などを取り入れた独自の飾りつけも残っています。その中には、浄土真宗では行わないことになっている提灯や灯籠等も安芸教区ではやっていることがありますが、迎え火や送り火は全国的に浄土真宗では行っていません。浄土真宗は、「ああしなければいけない」とか「こうしなければダメ」ということは少ないです。ただ、他宗と比べると、「する必要が無いからやらない」ということが多いだけです。
〜真宗門徒のお盆〜
真宗ではお盆のことを歓喜会(かんぎえ)といい、亡き人を通して仏さまの教えに出遇わせていただく尊い仏縁と考えます。お盆の行事は「仏説盂蘭盆経(ぶっせつうらぼんきょう)」というお経がもととなっており、命の尊さや欲を離れた施しの大切さを教えてくれるものです。
しかし、一般的には盂蘭盆経にはない迷信的・俗信的な考えがはびこっておりますのも事実であり、世間で言われているお盆に対する考え(供養)の間違いを指摘し、浄土真宗の正しいお盆の迎え方をここにお知らせする次第です。
〜「お盆は亡くなられた方が年に一度帰ってくる?」〜
よくキュウリで馬を作り【馬に乗って早くこっちに帰ってこい】、ナスで牛を作る【牛に乗ってゆっくりあの世へ帰れ】という風習をTVなどで見ます。「慣習=おもてなし」としてはわからないことはありませんが、「正月も帰ってこい」と云えと言いたくもなります。何故、お盆の時だけ帰るのでしょうか?なにかしっくりときません。時間や空間や形を超えた真実のはたらきが「仏」となり目には見えないけれど常に私を包み込んでいてくださっている。そう考えてみてはいかがでしょう。(還相回向と同じです。)
〜お盆の現状〜
日本のお盆は、盂蘭盆(ウランバナ)と先祖崇拝が入り混じってます。地域によって様々な俗信が存在するのが特徴だ。あるおばあちゃんは「お盆の間は掃除をしちゃならん」と頑なに掃除することを拒み続けたそうだ。理由は「先祖の霊を掃除機が吸い込んでしまう」から。なんとなくダイソンには吸い込まれたくないものだ。他にも十三日に先祖の霊をお墓に迎えにいって、十五日に送りに行くという地区もある。お墓(墓地)が駅みたいな役割をしているらしい。迎えにいかない家の先祖は待ちぼうけをくらうのか?いつも気になるのだが、先祖と言っても十代前で千人を超える。全員、家の中に入ることができるのか?若手は駐車場待機ということになりそうで心配してしまう。「ご先祖が帰ってきているから私達はお出かけしましょう」と先祖に留守番をさせて遠出する人も増えている。盆踊りにしても「マツケンサンバ」を踊ったり、先祖を楽しませる余興みたいな印象をうける。
〜歓喜会ということ〜
浄土真宗ではお盆のことを「歓喜会」(かんぎえ)と言う。歓喜とは字の通り「よろこび」を意味する。我々はどんな時に「よろこび」を感じるだろう。
煩悩が邪魔してなかなかそう感じることは出来ないが、『本物の「いのち」に気づけよ!』と如来は常に呼びかけてくださっている。その壮大な「いのち」の世界を知ることが本当の歓喜(よろこび)ではないかと思う。お盆という時節、先祖を大切にするのも必要だが、自らの「よろこび」を確認することも忘れてはならないのではないだろうか。お盆は「追善供養」ではないのである。
同じく〜浄土真宗と永代読経法要〜について
お盆と同じ時期に我が寺では「永代経」が勤められるわけですが、浄土真宗における「永代経」とは「永代読経」の略であり、「未来永代、末永く釋尊の説かれた真実の教えである経が読み続けられ、その経が聞き続けられ、その教えに救済され続けられる」ことを願い勤まる法要である。先達・先祖を御縁にするというかたちをとりますので、永代経は先祖への永代の追善供養≠ニいう認識が強いですが、浄土真宗における「永代経」は、先達・先祖を御縁として私が経(教え)を頂き未来永代に伝えるということが本義となります。勤め方は地方、寺院によってまちまちのようです。ただ基本は死者に追善供養する意味ではなく、故人を縁としてお寺に参詣し、故人を追慕し報恩の営みをするとともに、自身が聞法のご縁をいただきます。永代経懇志をあげられた場合に、その都度おつとめすることもありますが、お寺では年に1回または2回、一括しておつとめされるのが通例です。
永代経法要は、毎年行われ、寺院の護持に役立てます。
「真宗教団は報恩講の教団」と呼ばれますように報恩講を重要視しますが、その真宗教団がなぜ他宗派のように、しかも追善供養と誤解されかねない形態の「永代(読)経」というお勤めをはじめたのでしょうか?これは私の私見ですが、やはり経済的な理由が大きいと推測しています。あと、他宗派が勤める永代供養の法要▼・・(永代読経(どきょう)が、信徒の代わりにお寺が永代にわたって死亡者の毎年の祥月命日(しょうつきめいにち)や毎月の命日(月忌)に供養の読経を行うこと。この依頼の際には、永代経料が納められ、永代経の帳簿に記録されて、命日のたびに読経が行われる。)というものに追従したとも考えられます。真宗では一括して永代経をします。
真宗の永代経とは、末長くお経が読まれるという意味で、お寺が存続し、み教えがますます盛んになるようにとの思いからつとめられる法要です。毎年行う報恩講と同様に永代経も年中行事です。他宗のように追善供養のための法要ではありません、これはお盆と同じ考え方です。
「命日」と「生前」の意味について考える
ところで、話は変わりますが、ある方が、死んだ日の事を、何故「命日」と言うのだろうか?普通は「死亡日」というのだが、仏教ではいわないのだろうか?また「葬式などで生前お世話になりました。」という言葉を使うが、よく考えてみると、生前=「生きてる前」「生きる前」という表現もおかしいのではないか。意味は「死ぬ前」のことだから「(死)亡前」ではないのだろうか。というような質問をされた。本当にたわいもない話なのだが・・・・・
この質問に対して、「浄土真宗」流には、門徒として、どう答えたらよいのだろうか。考えてみました。個人的な見解であるから、皆さんでご異見等がある方は、ぜひ和讃講や仏教壮年会、あるいは仏教婦人会、尼講などで論議してみてください。以下は私見です。
「ご命日」と言えば、故人が亡くなった日を言う。毎月または毎年の忌日(きにち)を指して「亡き人の死亡日」を思い浮かべます。それならなぜ「死んだ日」ではなく、「命の日」と言うのだろうか、つまり、浄土真宗では死というものに出会い、その日は「自分の命を振り返り、考える日」という仏の願いが込められた日という意味なのだと考えます。「命日」=亡き日は、私が生かされていることに感謝する『命の日』だと気付かされた日、そんなことに気付く機会の日にしていただくことなのです。
「命日」は、命の日と書きます。これは、私どもに先立って亡くなった方が残していってくださった本当の「贈りもの」だと思います。命日をご縁に仏事を勤め、その仏事に出席した私どもに、「どうか、あなたがこの世に生を受けた、その命の意味について明らかにしてほしい」と、問いを投げかけられているということ、それが「贈りもの」という意味です。法事は、命の意味について明らかにする日です。「往生成仏」という言葉を真宗では使いますが「お浄土」に生まれて命輝く日。と私は解釈しましたが、間違っていればご指摘ください。
また命日というのは『灌頂経かんじょうきょう』に死亡の日を「命過日めいかにち」とあり、過は過ぎるということで、一期の寿命が過ぎ去った日という意味からこれを略して「命日」というとありました。ご参考までに・・・。
また、「生前」と言う言葉は「死前」ではないのかという質問のこと。たしかに赤ちゃんは「生後」何ヶ月と言います。故人なら「生存中」とか「存命中」と言う言葉が適切ではないでしょうか。あえて「生前」とは如何なることなのか?「後生」に対する「前」なのだろうか。死の反対語は生、だから生と死の背中合わせは「前側」と「後ろ側」ともとれます。つまり「生まれる前」ではなく、「前の生」です。私は、これも「浄土に生まれる前」というように解釈しましたが、いかがでしょうか。
「忌中」のつづき
和讃講で「門徒モノ忌み知らず」の浄土真宗の教義に関わることを提起し、「清め塩」だけでなく「忌中」張り紙のことを書き、態度で示そうよというようなことを言ったところ、「忌中」を問題にすると、「年回のOO回忌」の「忌」も問題になり大変なことになるという意見が出てきた。ズバリその通りである。そう指摘した人は「忌中」の問題が「忌中」に留まるものでないことを感じとったのである。それは直截に言えば、「忌中」の紙一枚のことなら、玄関に張ろうが張るまいが、他のものに変えようが大したことではない。ところが、「OO回忌」が問題となると、お寺の「飯」の問題に直結するということだ。親鸞聖人大遠忌しかり、門徒の家の○回忌しかりである。「忌中」を問題とし、それを改めることを提起した時に「忌中」の問題が「忌中」にとどまるものでないという感覚はなかったわけでない。しかし、どういう問題に発展しようと、目の前に「おかしい」ということがあれば、「まず止めることからしかはじまらない」という思いから(これは差別・人権問題に共通することである。清め塩問題は納得だった)の話題提供であった。今日でも、その方向に間違いはないと思う。この問題=「忌中」論争は、そのことが部落差別の「穢れ意識」につながる問題であるとする考え方と、つなげて考えるべきではないとする考え方もがある。私事だが6月につれあいの父が亡くなり、9月に次男の結婚式を行なったが、喪中(忌中)で延期するという考えはなかった。
再び「門徒忌み知らず」について
昨年(2011年)に金照寺の先々代住職「釈龍山」老師の50回忌法要が、11月23日にありました。前日の22日は通常の報恩講でありました。龍乗前住職が編集された「龍山師」の思い出の「冊子」が参加門徒に配布されました。至洸住職で6世を数えるとなっていました。「龍山師」が法隆寺に勤めていたことも初めて知りました。金照寺へ入寺した経過もなんか複雑な歴史をもっていたので新鮮な驚きでありました。
また朝の報恩講のお勤めに、今年度は年番なので夜の和讃講でのお勤め以外に初めて参加しました。「正信偈作法」での御勤めは、前に私が練習したいと言っていた「宗祖讃仰作法(音楽法要)」と同じであった。やっぱり、和讃講や仏壮でも練習は必要で、いざという時には役に立ちます。私は楽譜を見ながらであったが、尼講や老和讃講の人が戸惑わず歌っていることに少々驚きを感じた。普段から尼講やお講で練習しているのでしょうか?
私事ですが、昨年6月に私(釈俊正)のつれあい(釈久願)の父(釈智清)が亡くなりましたが、「忌」は気にせず9月に私の次男の結婚式を行ないました。そして今回も「年賀はがき」の季節になって「喪中葉書」は出さず正月の「年賀はがき」を出すことにしました。一般的には1年間は「喪に服す」として「喪中葉書」にするそうですが、熱心な先人達の念仏相続のおかげで、迷うこともなく、そのように決めました。私たちは「門徒モノ忌み知らず」といって「忌」(卜占祭祀=雑行雑修自力の心)を気にしません。それが浄土真宗の教えですから。門徒の皆さん「領解文」を声に出して再確認してみてください。
門徒の皆さん、「年賀欠礼ハガキ」の再考を!
真宗門徒の親戚から「年賀欠礼・喪中葉書」が来ました。葬儀を出して初めて迎えるお正月の年賀状は「喪中」であることから遠慮するのが慣例のようですが、「喪に服する」という「忌中」や「喪中」の習慣も思想も仏教(特に浄土真宗)には存在しません。私は浄土真宗の立場から、往生浄土は不幸なことではありませんので、「年賀状を欠礼すべき」ではなく、「年賀状を出す方向で考えるべき」と解釈しています。さらに、故人の葬儀を浄土真宗の儀式にて執行されながら、年賀欠礼の挨拶状に「喪中」を引用することはおかしなことです。浄土真宗の教義からすれば、故人は「阿弥陀如来さまと同質の仏さま」であり、故人を「不浄な者」とする「忌中」や「喪中」のケガレ観念は、道理に合わないことになります。そこで、世間に流されないひとつの策として、私が今年に出した「年賀状」を掲載いたします。「なるほど、浄土真宗では年賀欠礼は必要なかったのですね」と認識を新たにしていただけたら幸いです。
真宗門徒であれば、そのご縁を大切にされて信仰にふさわしい表記を使用しご縁深い方々に故人の遺徳が偲ばれる年始の挨拶状を差し上げてください。受け取る側としても、それのほうが嬉しく思います。下記例を門徒の皆さん参考にしてください。
【例文】
慈光のもと、念仏ご相続うるわしく慶賀に存じます。
昨年「釈○○」が浄土往生し「満中陰」を7月に迎えました。私たち家族にとっては寂しい年でしたが聞法と仏縁を深くする年でもありました。私たち夫婦はお念仏のご縁に遇えて倶会一処の生活をするなかで、夫婦協議のうえ年賀欠礼(喪中)葉書は出しませんでした。私たちは「門徒モノ忌み知らず」といって「忌」(卜占祭祀)もあまり気にしません。それが浄土真宗の教えですから。また昨年9月には○男「○○」が結婚式を挙げました。新しい年を家族一同力を合わせて歩んで参ります。今年もよろしくお導きくださいますようお願い申し上げます
「ケガレ」意識と「差別」 〜ハレとケ〜
映画「もののけ姫」はインパクトのある物語だった。特にハンセン病患者や鍛冶師(タタラ)が登場する「エボシタタラ」。異民族(蝦夷)としての「アシタカ」、天朝とアサノの侍たち。ジコ坊に代表される謎の組織「師匠連」。彼らこそ中世日本の民衆の象徴ではなかろうか。H24年のNHK大河ドラマは「平清盛」である。松山ケンイチ(平清盛)が、貴族以外は人間として扱われなかった中世社会のなかで、どのような動きをするのか今から楽しみである。
さて、新年早々「ケガレ」の話で恐縮だが、「ケガレ」を説明するには民俗学でいうところの「ハレ(晴れ)」と「ケ(気)」の意味を知らなければならない。「ハレ」とは正月行事や祭りなどの「非日常」のことで、「晴れ着」「晴れ舞台」という言葉で残っている。「ケ」は毎日の日常のことである。「ケガレ」とは「ケ(気)が枯れる」=日常でなくなることをいう。この「ケガレ」には「こと」としてのケガレと「もの・ひと」のケガレの二種がある。「こと」(出来事)としてのケガレには、通夜振舞いでの酒や清めの塩で厄災を祓うという行為がつく。中世ではこれら祓いを担ってきた人が陰陽師、鉢叩き、千秋万歳、猿回し、春駒、節季候などの宗教者や芸能者である。ひな祭り、節分豆まき、なども災いを祓う行事である。ハレによりケガレを除去しケにもどすのである。ところがキヨメは死牛馬処理や刑執行も担っていたため、「もの・ひと」そのものが「ケガレ」とされ「浄―不浄」思想が加わりキヨメ=ケガレ=不浄とみなされるように変化したのである。現代の三昧聖の「納棺師=おくりびと」もそうである。「死」は非日常の「ケガレ」であった。それが「死」を扱う人も「ケガレ」が(放射能のように)うつる危険なものとだったのである。中世ではケガレ=穢れはうつる(=触穢思想)と考えられたので、「忌中や喪に服す」という慣習が生まれた。49日の忌明けもそこに由来している。「ひと・もの」については「穢れ=不浄」になり人や職業そのものが差別されるようになったのである。これが部落問題の最大のポイントです。ケガレには「こと(できごと)」としての「ケガレ」、言いかえれば「ある状況を説明する概念」としてのケガレと、本来は存在しないはずの「もの」や「ひと」自体をケガレとする概念、即ち「不浄」とみなすケガレがあります。ケガレを処理することをキヨメ・祓えと言いますが、その対象が違うことによって、同じキヨメの行為であっても、それを行う人々に対する差別意識も変遷していくのである。雑芸能を担った万歳や猿回しなどの「こと」としてのケガレを祓う人への差別意識は簡単になくなったが、「もの・ひと」である夙や散所民=部落のゲガレ=不浄はなくならなかったのである。もう一度歴史的に価値付けを教えていかなければならない。差別意識の解消は、つくりだされた「異(ちがい)」をただす必要がある。
「ちがい」の違い・・・差別と人権・同和教育
よく「同和教育」と「人権教育」はどこが同じでどこが違うのか?という質問を受けることがある。まず「差別の定義」だが(差別とは)「ある集団ないしそこに属する個人が他の主要な集団から社会的に忌避・排除されて不平等、不利益な取り扱いを受けること。その差別の表れ方はその社会の文化と歴史によって異なるが、差別される側の就業機会はせまく、他集団成員との自由な通婚が阻害され、しばしば居住地域まで限定されるという共通性がある。」一方、差別する側にとって「被差別者は自分たちと違う存在、である。この場合違うという認知が差別意識の出発点であれば、明確な理由で、ある人たちが差別の対象となってることの認識から出発して、それが違うはずだ、という意識をまねき寄せる場合もある。」いずれも自分たちとは違う、と言う認識が差別意識を生むのである。現実上の、あるいは架空上の差異に普遍的、決定的な価値づけをすることが差別なのである。そこで「違い」と「異い」について考えてみたい。人種・男女など一般に「人権」として取り扱いされている「違い」はもともとの、今あるちがい(違い)であり、それらは互いの「違い」を「豊かさ」に変えていく学習が必要である。一方創り出された(る)ちがい(異)は、「ちがい」の誤りを認識していく学習が必要である。そこで、人権問題と同和問題で必要とされる学習の違いをあげてみた。「同和教育のコンセプト」では、もともと同じであった人々を「ちがう」存在であるとしてきた根拠を明らかにする学習(部落史学習)が必要である。「ちがう」として排除する考え方を維持させてきた社会意識・システムを変革していく学習が必要である。排除に基づく差別の実態を克服する取組みが必要である。の三点を挙げてみた。また「人権教育のコンセプト」では、お互いの「ちがい」を認め合い理解しあうことを通じて「ちがい」を「豊かさ」に変えていく学習が必要である。「ちがい」を持った個人が集まり、豊かな社会・集団が出来るという実感を持たせる学習が必要である。排除に基づく差別の実態を克服する取組みが必要である。このなかで重要なことは、被差別部落の起源を江戸時代の身分制度に求める「近世政治起源説」は誤りであることは今日の部落史研究の深まりのなかで明らかにされてきている。そして創り出された「ちがい」の根拠を「ケガレ意識」に求めることが多くなっている。このケガレという問題は歴史というより民俗・宗教の範疇に入る問題であるが、もろもろの「差別」の要因として「ケガレ意識」が色濃く反映していることは確かである。・・・・・そのため、あえて「忌・喪」と係わって「ケガレ」と「差別」の問題を取り上げた次第である。 合掌 南無阿弥陀仏・・・・