4、今に伝わる「伊庭貞剛」の教訓
問題4;「住友」中興の人と言われた叔父広瀬宰平の後を継いで第2代住友総領事となり明治時代に東の足尾、西の別子とされた「別子銅山の中興の祖」と云われて環境問題にも心血を注いだ。別子銅山に植林した結果が今の「住友林業」に繋がっている。田中正造も称賛した近江八幡の西宿町出身の事業家は誰か。
@ 塚本幸一 A山岡孫吉 B伊藤忠兵衛 C堤 康次郎 D伊庭貞剛 □
解答・・・・5
<解説>
伊庭貞剛は、当初、明治政府の官吏をしていたが、当時、住友の総支配人(総理事)をしていた叔父であった広瀬宰平氏により、住友に入社し、住友の別子銅山を運営した人物である。
伊庭貞剛の叔父である広瀬宰平は、文政11(1828)年5月5日、北脇理三郎の次男として近江国野洲郡八夫村(現滋賀県野洲郡中主町)で生まれた。天保5(1834)年、別子銅山勤務の叔父・北脇治右衛門に従って別子銅山に登り、その二年後、就業年齢に達してより住友家に奉公した。28歳のとき、住友家第10代当主・友視の推挙によって広瀬義右衛門の養子となり、慶応元(1865)年、38歳で別子銅山支配人となった。慶応4(1868)年2月、別子銅山の接収に訪れた土佐藩(現在の高知県)の川田小一郎に対して、別子銅山は確かに幕府領であるけれども、住友家が発見し、独力で経営してきたものである。しかるに、新政府がこれを没収し、経験のない者に任せるというのであれば、それは国益に反することである、と訴えたのである。広瀬の訴えは、同じ「草もうの志士」(幕末の志士)である川田の心を動かし、両者の出願によって同年三月、新政府から正式に別子銅山の継続経営が許可された。川田は後に三菱の創設に参画し、日本銀行の総裁となった人物であるが、当時はまだ下級役人であった。しかし非凡な才能をもつこの両者の出会いが、その後の住友発展の契機となったのである。このことは、本宮ひろし作のコミック本「猛き黄金の国」に掲載されているので一読をお勧めする。(新居浜には広瀬宰平歴史記念館と旧屋敷が残されている。住友発展の礎を築いたので住友中興の祖とも言われている。)さて、本題の伊庭貞剛のことであるが、近江八幡西宿の生まれで生家も西宿にあったが叔父、広瀬宰平の勧めにより住友に入社。3ヵ月後に本店支配人となった後も才覚を高く買われ、さまざまな役職を経験する。薩摩の五代友厚(大阪商工会議所や大阪造幣局、大阪証券取引所などの設立により東の渋沢、西の五代と言われる関西経済界の重鎮)と後の大阪市立大学校となる商業学校や大阪紡績(東洋紡)を設立している。住友銀行の創設もこの人である。明治23年滋賀3区から衆議院議員に当選。銅山の開発により荒れるがままになっていた西赤石山系の山々に「別子全山を旧のあおあおとした姿にしてこれを大自然にかえさねばならない」として、植林を施すなど、環境復元にも心血を注いだ。それらの山林は、後に管理会社として「住友林業」が設立され、今日まで住友の山として受け継がれている。田中正造は貞剛の一連の行動を評価し、別子銅山を「我が国銅山の模範」とまで言い切っている。引退後は、滋賀県石山の活機園【今も住友林業の管理である】に住まう。1926年(大正15年)10月22日、石山の自宅(活機園)にて没す。享年80。滋賀県近江八幡市に墓がある。
西宿町に伊庭貞剛の屋敷跡があり、現在は公園になっており、地域の方々が清掃などを行ない保存している。また晩年、彼が住まいした大津の石山晴嵐近くの居宅(住友活機園)は現在、住友林業が管理していて、一般に公開されている。また安土にある郷土舘伊庭邸宅は、伊庭貞剛の四男,慎吉が住まいしたヴォーリズ建築である。伊庭慎吉は安土町長も務めている。
さて、残りの人物について紹介しておくと、 塚本幸一(敬称略)は ワコールの創始者である。山岡孫吉はヤンマー(商標のヤンマーは「やまおか」に発音が近いのとトンボのオニヤンマをかけたもの)の創業者であり、伊藤忠兵衛は「伊藤忠」や「丸紅」の創始者である。堤 康次郎は云わずと知れた、「西武鉄道」の創業者である。彼らは、残念ながら近江八幡の出身ではないが、「近江商人」ではある。山岡は長浜(高月町)であり、伊藤は現在の滋賀県豊郷町に生まれる。初代忠兵衛が1858年「紅長」(べんちょう)の屋号で繊維小売業=近江麻布類行商をなしたのにはじまる。伊藤忠・丸紅とも、この年をもって創業としている。堤康次郎は愛荘町の出身である。第44代衆議院議長を務め大津市の名誉市民でもある。「ピストル堤」の異名をもつ日本を代表する実業家でもある。今でも彼の子どもたちによる経済界での影響力はすごいものがある。