18、織田信長の側室だった「お鍋」の方と「お鍋屋敷」
問題18;「小田は良いとこ お鍋の方が 殿をまねいたこともある」今も子守唄に唄われるお鍋の方は、一代の英傑「織田信長」の愛妾であった。小田神社のある小田町にはお鍋の方は住んだといわれる屋敷跡もある。お鍋の方は数多い信長の妻妾のなかで、唯一実名の判明している女性である。天正十年(1582年)六月二日 信長が本能寺で自刃、同十五日 安土城炎上のとき、側室お鍋の方を、ともかく敵方に囚われぬよう日野城へ迎え入れた人物は誰か。
@ 丹羽長秀 A滝川一益 B滝川益氏 C蒲生賢秀 D前田慶次郎 □
解答・・・・・4
<解説>
小田神社は織田神社でもある。小田に住んでいた「お鍋」の方の伝説は地元でも紙芝居にするほど有名な話である。実際、実存した人物なのである。「小田は良いとこ お鍋の方が 殿をまねいたこともある」今も子守唄に唄われるお鍋の方は興雲院(きょううんいん)と云われ、近江の豪族高畑源十郎の娘で一代の英傑「織田信長」の愛妾であった。小田神社のある小田町にはお鍋の方の実家がありそこに住んだといわれる屋敷跡もある。お鍋の方は数多い信長の妻妾のなかで、唯一実名の判明している女性である。天正十年(1582年)六月二日 信長が本能寺で自刃、同十五日 安土城炎上のとき、側室お鍋の方を、敵方に囚われぬよう自分の城へ迎え入れた人物は蒲生賢秀である。当初は六角家に仕えていたが後に織田家に仕え安土城の城代(留守居役)になった人物である。余談だがお鍋の方は信長が死去した後は、信長の側室の代表的存在として行動し、織田家の位牌所を守ったとされている。子には織田信高(信長の七男)、織田信吉(八男)がいる。兄弟は関ヶ原では西軍に付いたが、のち信高の子孫は徳川の旗本として仕えたとある。彼の子孫にフィギアスケート選手の織田信成がいる。信吉の子孫は関ヶ原の後、水戸に移住し津田姓を名乗ったとされている。
最近だが、近江八幡観光物産協会の事務局がある白雲舘(日牟礼八幡宮鳥居の前)を通りかかったら、塀に「織田信長の始祖 津田親実の郷 南津田町」という看板が掲げられていた。織田一族に津田姓が多いことは歴史を知るものなら誰でも知っていることであるが、なぜ津田姓なのかというと案外しらない者も多い。尾張の織田氏は、元は越前の織田荘(織田剣神社がある)から出た越前の守護の斯波氏(足利氏の一族で三管領も務めた。同族には大崎氏や最上氏がいる。)の被官であり、斯波氏が越前だけでなく尾張も守護した関係で尾張に赴任し、信長の先祖の織田氏も土着したものである。さて、織田氏の始祖とされる「津田親実(ちかざね)」だが、平治の合戦(平家と源氏が戦い源氏が勝利する)で破れた平家の女房(子を宿していた)が、親元である津田郷に逃げ、そこで生まれたのが親実である。成人した親実が越前織田荘の神官忌部氏に養子として入り、その子孫が斯波氏に仕えるにあたって津田姓にもどしたが、織田荘の出身ということで織田氏を名乗ったとされているのである。昔は地名から自分の姓をとり出身を明らかにしていたものである。長浜市の黒田荘(黒田官兵衛)しかり、石田村や甲良町の尼子氏などである。歴史的に有名な人物では織田信長の甥(弟の子)も津田信澄(近江高島の大溝城主だったが、本能寺の変で明知光秀の娘婿だったことから織田信孝に大阪で殺された。)がいるが彼も津田姓である。話をもどすと、津田親実の生まれた近江八幡市南津田町には顕彰の碑が建っている(地元の人が建てた)ので、一度見に行かれることをお勧めする。なぜ、織田信長が、わざわざ隣の安土山に城を築こうとしたのか、「故郷に錦を飾る」というが、案外そういった意味も含まれていたのではないだろうか。これは推測であるが・・・・織田信長と近江八幡の関係は単に安土城だけではないということだけはご理解してほしい。
なお、蒲生賢秀は蒲生氏郷(織田信長の娘婿)の父親で当時は日野城主である。さらに滝川一益は、もとは甲賀忍者であったと伝えられ、その弟の滝川益氏の子が前田家(前田利家の兄の家)に養子に行き前田慶次郎利大を名乗ったのである。漫画「花の慶次」をご覧の方は、そんなことは先刻ご承知のことだろうが・・・・漫画だからフィクションだと馬鹿にしないでほしい。この花の慶次や、影武者徳川家康、また最近私の見た映画では、のぼうの城、、タイムスクープハンター安土城炎上、清須会議などでは膨大な歴史資料を踏まえて制作されていると思われるのである。たしかに「47RONIN」などの途方もない創造の娯楽映画もあるにはあるが、その見極めをしてほしいものである。