8、前野将衛門長泰(長康)は川並衆の蜂須賀小六正勝と同期入社
問題8;豊臣秀吉とは墨俣一夜城建設時のころからの知り合いで、川並衆と呼ばれた蜂須賀小六とは兄弟分であり一般に将右衛門と呼び、関ヶ原合戦で石田方で活躍した舞兵庫は甥になるという。豊臣秀次の家老となって小牧・長久手や小田原戦線で戦ったが豊臣秀次事件に連座して賜死(切腹)した人物の名前は誰か。
@ 木村重成 A真田昌幸 B菊亭晴季 C前野長泰 D石見重太郎 □
解答・・・・・・4
<解説>
1、「川並衆」は「川童」か
「童子」とは昔から「鬼」につけられた名称である。茨木童子、伊吹童子、酒呑童子である。「川」に住む童子を「川童(かっぱ)」といったのである。山に住んだ人は「サンカ」「鍛冶師・鉱山(やま)師」などの「山の民」という。前置きはそのぐらいにして、前野と蜂須賀は秀吉が、織田信長に仕えていた頃からの最古参の家臣である。俗に言う秀吉の墨俣一夜城の築城に協力して、そのまま秀吉の家臣となったとある。しかし、実際は、秀吉ではなく織田家から給金をもらっており、織田信長の家臣と云えた。同様な人物に竹中半兵衛がいる。彼も秀吉ではなく織田信長の家臣である。
川並衆とは川賊である。水運を利用しての商売もしている。あまり知られていないが、後の豊臣秀吉――木下藤吉朗の出世の足がかりというのは、尾張北東部の野武士の棟梁であった蜂須賀小六を織田家に帰属させたことであった。
蜂須賀小六――本名を蜂須賀 彦右衛門 正勝と言うのだが、小六の方が人口に膾炙されていて通りが良い。蜂須賀氏というのは、もともと尾張の清洲から数里ほど西の蜂須賀村(現
愛知県海部郡美和町)というところに根を張る土豪で、信長の父
信秀の代には織田家に属していたらしい。が、どういう経緯かは解らないが信秀に攻められて蜂須賀村を捨て、小六が6歳のときに母
安井氏の実家である宮後村(現 江南市宮後町)へと移り住んだ。
宮後村に城を構えていた安井重継という男は、小六の母の兄――つまり小六の叔父にあたる人物で、木曽川流域に広く勢力を持つ独立豪族であった。『武功夜話』によると、安井氏というのは甲斐源氏の流れの名家で、数代前は美濃の守護である土岐氏の重臣であったらしい。小六は、この安井重継に育てられた。この安井氏が、木曽川流域に広く勢力を持っていた。この当時、川筋――とりわけ大河の流域というのは、特殊な人々が住んでいる。
河原というのは一般に人が住む地域ではないのだが、河川の多くが国と国、領地と領地の境になるために、誰からも支配されない緩衝地帯になることが多く、その結果として、逃散した農耕民や罪を得て国を逃れた者、諸国を漂白する遊行民にとっては格好の住処となっていたのである。それらの人々は時代を経るにつれ、いわゆる「川の民」になっていった。「川の民」というのは、現代でいうところの水運業者と商人を兼ねたような人々である。当時は一般に「渡り衆」と呼ばれ、たとえば琵琶湖のような湖や全国の巨大な河川の流域に住み着き、舟を使うことで川筋を道のように自在に往来し、多少の武力をもって自衛しながら人や荷物を運ぶことで生業を立てていた。いわば、「川賊」とでも呼ぶべき川の地侍である。もちろん、日本を代表する大河である木曽川にもそういう「川の民」がいて、この当時、「川並衆」と呼ばれていた。安井氏は、この「川並衆」と深く繋がりを持ち、これを利用することによって木曽川流域の水運を牛耳り、そこから莫大な利潤を得ていたらしい。小土豪に過ぎない安井氏が、それなりの影響力と富力とを持って独立していられたのはこのためである。安井重継という男は、よほどの切れ者であったのだろう。安井重継が住んでいた宮後城は、地元の人々から「安井屋敷」と呼ばれていた。これが、いつの頃からか「蜂須賀屋敷」と呼ばれるようになる。察するに、成長した小六の人間を見込んだ安井重継が、家督をこの甥に譲ったものらしい。
小六は一種の「徳」のある男で、一度引き受けた約束は何があっても守るような律儀さと男気があり、優しさと思いやりも持っている上、人使いが上手かったから、配下の者たちからも「川並衆」からも慕われた。小六の人柄を見込んで、近隣の地侍やならず者らが懐いてき、やがて小六は数百人の人数を動かせるほどの大将になっていた。平素は半士半農の生活をし、戦があればそれらの人数を率い、大名に雇われて戦場稼ぎをすることで暮らしを立てていたわけである。なお前野長泰氏は川並衆にも強い影響力を有していた名門である坪内氏は川並衆の政治的外交を主に担当し、実働部隊としての土豪である蜂須賀党の蜂須賀氏、前野氏(坪内為定が婚姻し、坪内光景が養子となり前野長康を名乗り、影響力を持っていた)等を指揮していた、とされている。
藤吉朗は、織田家に仕える以前、諸国を放浪していた時期があり、小六ともその頃に知り合ったらしい。知り合ったと言っても、実際は「蜂須賀屋敷」に居候をさせてもらい、小六の使い走りのようなことをして飯を食わせてもらっていたようなのだが・・・。信長没後、秀吉が天下人に上る過程で、兄弟分の前野長泰(長康)も山崎の合戦、賤ケ岳合戦にも参加して武功を挙げ、出石11万石の大名になっている。しかし、「狡兎死して良狗煮られ、高鳥尽きて良弓蔵される」の例えのとおり、秀次が謀反の罪により秀吉に自害させられると、長泰も秀次を弁護したことから連座として罪に問われて切腹させられている。
新人物往来社から刊行された『武功夜話』のうち、五宗記は長(泰)康の日記であり、従来の学説を根本的に覆す歴史的にみても非常に貴重な史料と一時は注目された。
さて秀次には、賤ヶ岳の合戦以後につけられた家臣団が木村常陸の介であり、前野将衛門長泰である。さらに家老となる山内一豊や田中吉政彼らは、武将であり大名でもある。
【秀次の家臣団】
●豊臣秀次付きの家老であった『田中吉政』は、当初、宮部継潤の家臣であった。田中吉政と秀次との接点は早く、秀次4、5歳の時(宮部継潤が秀吉の調略により浅井長政から寝返った時)からで秀次の養父(秀次からは第1回目の養子)となっていることから宮部家を通じて吉政とは深い交流があったと推測される。「田中」家はもともと近江人で、近江源氏佐々木信綱の4人の子のうち長男重綱が大原氏、二男高信が高島氏(朽木荘に住す=のち朽木氏とも云われる)三男泰綱が六角氏、四男氏信が京極氏を名乗るが、「田中氏」は二男高島氏の末裔であると云われる。秀次の筆頭家老であった「田中吉政」は秀次事件ののち、関ヶ原では東軍側に立ち、石田三成を捕縛した張本人である。その功により筑後柳川の領地を与えられ大名となった。八幡堀を整備したのは「田中吉政」だといわれていますが、船下りで有名な柳川の掘割を整備したのも、田中吉政です。なにか因縁を感じます。なお、特に高島家庶系の朽木氏、田中氏、平井氏、横山氏などの高島七頭が西近江では勢力を持っており、戦国時代にも活躍している。この高島氏系統の同族の「横山」であるが(近江国横山村出身といわれる)「横山喜内」という人物がいる。彼は当初、近江国の六角氏に仕えていたが、織田信長に滅ぼされると、信長の家臣となった蒲生氏郷に仕えた。その時「蒲生」という姓をもらって「蒲生喜内」又は「蒲生郷舎」とも「蒲生頼郷」ともいった。蒲生氏郷が病気で亡くなると、彼はある人物に仕え、嶋左近清興と双璧をなし、関ヶ原の戦いで戦死する。小説「影武者徳川家康」の題材にもなっている。彼は最後、石田三成に仕え、関ヶ原で戦死している。
●同じく豊臣秀次付きの家老であった『山内一豊』は、「功名が辻」で有名な奥方の内助の功の逸話(安土に来た奥州の馬商人から、奥方のへそくりで馬を購入する話)が残されているが、もともと「山内一豊」の父は尾張の守護代であった岩倉織田氏の重臣であった。岩倉織田氏が織田信長に滅ぼされた後は、諸国を放浪したのち、信長・秀吉に仕え、長浜城主となり、秀次の家老となった。関ヶ原では東軍につき、土佐をもらう。一方、妻の「千代」は近江浅井氏家臣、若宮喜助友興)の娘として弘治2年(1556年)に生まれた。幼くして両親を失い、近江坂田郡宇賀野(滋賀県米原市)で一豊の母に裁縫を習ったことが一豊との縁の始まりだといわれている。夫の功名をその優れた状況判断で支え続け、長浜、京、伏見、大阪等に転住し秀吉の妻おねと仲が良かったという。徳川の世になり、一豊が土佐一国を授かり、土佐に移るが、夫の死後は、京に住んだという。関ヶ原では山内一豊の部下であった田中孫作(米原市出身)に届けさせた石田三成の挙兵を伝えた「笠の緒の密書」が有名な話である。さて、山内一豊が移封された土佐藩は、前領主の家臣であった「一領具足」を郷士と呼び、山内家の家臣を上士と呼んで区別した。
●秀次の家臣で秀次事件に関連して、切腹した「明石則実」という播州出身の人物がいる。彼は、小寺官兵衛(黒田官兵衛)の従兄弟であり、官兵衛と共に秀吉に仕え、のち秀次に仕えている。関ヶ原で戦った宇喜多家の明石全登は同族である。このように秀次の家臣にはすごい人がごろごろ居た。例えば秀次に剣術指南をした人物の、「神後宗治」(神後流)は、剣聖といわれた上泉信綱の弟子である。もう一人、同じく秀次に剣術を指南したのは「疋田文五郎景兼」という疋田陰流の祖となった人物である。上泉信綱の弟子・新陰流四天王のうち二人に秀次は剣を習っているのである。あとの二人とは「柳生宗厳」(柳生新陰流)と「丸目蔵人長恵」(タイ捨流)である。俗に秀次の親衛隊(精鋭部隊)を「若江八人衆」というが、秀次の死後、多くは石田三成に仕え、関ヶ原で討ち死にしている。同じく秀次の家老をしていたが「秀次事件」で謹慎させられた「おね」の親戚筋で、子孫には「忠臣蔵」で有名となった播州赤穂藩の藩主がいた。
●一柳満喜子女史を主人公にした小説が刊行されています。『負けんとき〜ヴォーリズ満喜子の種まく日々〜』上・下(玉岡かおる著 新潮社)です。彼女が地元の未就学児童を対象として始めた「プレイ・グラウンド」は「清友幼稚園」に発展、今日の近江兄弟学園へと発展。1969年(昭和44年)、ヴォーリズが逝去して5年後に彼女も永眠し、二人は共に同市北之庄町の恒春園に葬られている。さて「一柳満喜子」の家系(先祖)は「一柳直末」に始まる。元は美濃の土豪の出自。羽柴秀吉が織田信長に仕えていた頃から家臣だった古参の武将で、武勇に秀でていたことから「熊」の異名をとった。秀吉に仕えて各地を転戦して武功を挙げ、秀吉の黄母衣衆となった。天正13年(1585年)には田中吉政・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊らとともに豊臣秀次の宿老に任命され、美濃国に3万石を領した。しかし、天正18年(1590年)、小田原征伐に参加したが、その緒戦である伊豆国山中城攻めで戦死し、弟の一柳直盛が跡を継ぎ、近世大名へと繋がり、徳川幕府でも幕末まで続き、明治には子爵となっている。秀吉にとても信頼されていた武将であり小田原の陣中にあった秀吉は黒田如水から直末討死の報告を聞いて「直末を失った悲しみで、関東を得る喜びも失われてしまった」と嘆き、三日間ほど口をきかなかったという(『一豊公記』)。家督は弟の一柳直盛が継ぎ、また、母らくにも直末の死を悼んだ豊臣秀次から800石の知行地が与えられた。この際の所領宛がい状は、女性相手というためか漢字がほとんど使われておらず、主にひらがなで構成されている(『一柳文書』)。岐阜県関市にある一柳城は直末が築城・改修し、一柳の名をつけた城である。祖先が豊臣秀次の家臣だったこともあり、ヴォリズ氏に嫁いでも近江八幡市に居住しつづけたとも云われている。
●秀次の家臣になった者のなかには、変わり者もいる。「可児才蔵吉長」は、美濃の生まれで斉藤義龍に仕えたが、斉藤家が織田信長に滅ぼされると織田家に仕え、次に秀吉に仕えた。この経歴は仙石権兵衛秀久に似ているが、秀吉が秀次に付けた武将であるが、秀次が小牧・長久手の戦いで大敗したとき、混乱の中、徒歩で秀次が逃げていた時、馬に乗って逃げる家臣を見かけ、秀次が「馬をよこせ」といったところ、その家臣(可児才蔵)は「雨の日の傘にて候」と答え、そのまま走り去ったという。つまり、自分が(逃げるのに)必要なものであるので、主君であっても譲ることはできない。と答えたという有名な逸話がある。秀次の怒りを買ったのは言うまでもない。当然その彼は浪人したが、その後、福島正則に仕えた。宝蔵院流槍術の開祖覚禅房胤栄に槍術を学んで「槍の才蔵」と異名をもつ、常に笹の指物を背負って戦い、倒した敵の首の切り口に笹の葉を入れたので「笹の才蔵」ともいう。
●豊臣秀次の家臣に、浅井 井頼(あざい いより)という武将がいた。通称は喜八郎。浅井長政の三男(または次男)で浅井万福丸の弟と伝わる。号は作庵。天正元年に織田信長によって浅井氏が滅ぼされたとき、信長の残党狩りから逃れた。1583年の賤ヶ岳の戦いで羽柴側に属し、その後に豊臣秀次の家臣となり、600石の知行を与えられる。1600年関ヶ原の戦いでは生駒親正の隊に属し、西軍に付いた。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で大坂城に入り、二の丸の東を守備し、落城後に大坂を脱出し、常高院(お初)を頼り若狭小浜藩の京極忠高の家臣となって「京極作庵」と名乗ったとされる。また、香川県丸亀市の京極家の菩提寺である玄要寺に浅井井頼と伝わる墓がある。
●戦国武将としての豊臣秀次の武功については、あまり語られていないが、初陣の小牧・長久手の戦いで徳川家康に惨敗したあと、小田原征伐においては、山中城攻めの大将となって戦ったとある。この戦いは激戦で「一柳満喜子」さんの御先祖である「一柳直末」が討ち死にしているほどであったが、半日で陥落させている。他の城攻めでは韮山城攻めに蒲生氏郷、細川忠興、福島正則、蜂須賀家政、下田城には九鬼、長宗我部などの水軍、松井田城には上杉景勝、前田利家が当たり、「忍城=のぼうの城(映画)」攻めには石田三成や佐竹義重、真田昌幸が担当していたが小田原城が降伏するまで陥落させられなかったという。翌天正19年(1591年)奥州に出兵し、葛西大崎一揆及び九戸政実の乱鎮圧においても武功を挙げているが、そういうことはあまり聞かれない。特に葛西大崎一揆は伊達政宗が裏で暗躍していたといういわくつきのものである。秀次は同年(天正19年1591年)12月に関白となり、豊臣氏の長者なって聚楽第で政務を行なった。そのため秀吉との二元政治が1595年に高野山に追放されるまで続くのである。なお秀次には「若江八人衆」という精鋭の家臣団がいる。また「松花堂昭乗」という人物は一説では秀次の子どもという説もあるが大阪落城後も生き残り、江戸時代には「寛永の三筆」と称された。またこの人が考案したからその名がつけられた「弁当」を「松花堂弁当」という。
●近江八幡市安土町石寺。ここに我が国最大級の山城跡が残っている。古い時代から山頂近くに西国札所第三十二番の名刹、観音正寺があるので観音寺城という。そこは標高432mの山の東南側全体に巨大な遺構を残し、別名を佐々木城とも呼ばれる。鎌倉初期からの近江守護職、六角佐々木氏の居城である。一般に佐々木六角と呼ばれていた。応仁の時代に築城され、弘治、永録の戦国時代を迎えるころ、佐々木氏の支配下にある近江南部の各武将がこの城中に屋敷を構え兵を置いていた。安土山と峰続きの繖山に今も残る巨大な遺構は安土城後も観音寺城は廃棄されず詰めの城として残された証左といえる。長政の義理の兄である織田信長に敗退後、一時期六角氏は歴史上から遠ざかるが、六角義郷が豊臣秀次に見出されて家臣となり1万石を与えられて六角氏を再興する。義郷と共に取り立てられた六角系家臣(元来は彼の家臣)の多くが秀次の直臣となっており、秀次の処断後、秀次付の家臣として連座切腹となった木村重茲(常陸介)は、その代表格である。
木村 重茲は、当初は、近江六角氏の家臣であったが、織田信長により六角氏が敗れて後は、織田信長に臣従し、賤ヶ岳の合戦では、羽柴秀吉に味方し、堂木山砦の守将を任された。秀次が八幡城主となったとき、その家老となり、小田原攻めでは北条氏の岩槻城攻めなどで功を立てた。しかし、秀次事件に連座して、賜死した。その子供は、同じ近江人で秀吉により復活して大名となっていた六角義郷にかくまわれ、豊臣秀頼の近習となり、大阪夏の陣で討ち死にした。その子が匿われて住んでいたのは馬淵村であったという。その子どもの名前を「木村 重成」という。この木村重成をかくまって育てたのが、元の主人で、秀次の家臣となった六角義郷だったといわれています。木村重成は、後日の大阪冬の陣、夏の陣で活躍しています。
●直接、近江八幡とは関係がないのだが、佐々木六角氏に仕えていた三井家は近江武士であったが信長の近江進攻とともに伊勢に逃げ屋号を「越後屋」として商売を始めた。それが今の三井・三越の始まりである。また、豪商鴻池についても、尼子氏に最後まで仕えた山中鹿之助という戦国武将の子孫が鴻池村で酒造りをはじめたのが最初である。その戦国武将は豊臣秀吉、織田信長とも縁がある人物で最後には、秀吉に見捨てられて裏切られて死ぬことになるのであるが、・・・・
●剣術指南と云えば徳川家康と柳生石舟斎・宗矩が有名であるが、「豊臣秀次」の剣術指南役は、柳生石舟斎よりも強かったと云われる「疋田陰流」の創始者疋田文五郎景兼である。「新陰流」の上泉信綱の姉を母に持ち、早くから信綱に師事して剣を学んだとされる。同門の「神後伊豆宗治」(信綱高弟)も秀次の剣術指南役になっている。このように「新陰流四天王」と言われた疋田景兼、神後宗治の2人に師事した秀次も相当な腕前であったといわれている。では、疋田景兼、神後宗治、柳生宗厳(石舟斎)と丸目蔵人を加えて新陰流四天王という。
【秀次の関係者】
●豊臣秀次公の一族の生き残りの一人に真田信繁(幸村)の側室(正室は大谷行部の娘)となった隆清院(秀次の娘)がいる。彼女は大阪の陣で父を亡くしたが、娘を産んだ。それが「顕性院」である。「秋田県由利郡岩城町にある日蓮宗の古刹、顕性山妙慶寺の一角に、大光院(真田幸村 )を父、隆清院(豊臣秀次の娘)を母に持ち、数奇な運命をたどった顕性院(御田姫)の墓
がある。 妙慶寺は、顕性院が真田家菩提の為、寛永6(1629)年に建立した寺である」と伝わっている。真田信繁(幸村)の残された家族では、三女阿梅が伊達家の片倉重綱の継室(泰陽院)となっている。豊臣秀次の関係では、秀次の娘である隆清院を母に持つ五女、なほ(御田姫)は秋田の佐竹氏支流の岩城宣隆に嫁ぎ出羽亀田藩主となる岩城重隆を産んでいる。同じ隆清院を母に持つ三男・幸信は実姉の伝手で出羽・亀田藩に仕えたとある。名も豊臣秀次の旧姓である「三好」姓を称し、三好左馬之助幸信と改名している。それはさておき、豊臣秀次と真田幸村に関係があったことに驚きを隠せない。
なお、伊達政宗の側近、片倉小十郎。その子である片倉重長に側室(継室)として迎えられた「梅」という戦国武将の娘が真田幸村の娘であることは世間的に有名な話である。
●豊臣秀次は、三回養子に出されている。1回目は3歳(治兵衛)の時、宮部継潤の養子となり、2回目は実父、弥助=吉房とともに三好長慶の養子となり「孫七郎信吉」を名乗り、のち叔父、秀吉の養子となり「羽柴秀次」を名乗る。問題は第2番目の養父である「三好長慶(笑厳)」は、家臣に松永久秀を持っていた関係で、ある将軍と対立していた。その将軍とは「足利義輝」である。
●松永久秀は三好長慶の勢力が衰えると、織田信長の家臣となるが、第三次織田包囲網で毛利家や上杉謙信はもちろん、織田方であった別所長治や荒木村重が謀叛すると松永久秀もともに叛旗を翻した。結果的には、松永久秀は大和信貴山で鎮圧され、信長がほしがっていた宝物と一緒に爆死するのだが、松永久秀とともに失われた宝物とは「平蜘蛛の茶釜」という茶器である。
●豊臣秀次は、関白となって八幡城主から京都の「聚楽第」の主となるが、当時、京都は「お土居堀(洛中惣構・京廻りの堤)」によって囲まれていた。秀次の切腹と共に「聚楽第」は壊され、近江武士出身の豪商「角倉了以」により、高瀬川などが開削され「お土居堀」も壊される。しかし、「お土居堀」も一部は現存しており、「聚楽第」の一部も、現在、京都の「三閣(金閣、銀閣、飛雲閣)」の一つ、飛雲閣として残っている。その秀次が最後に過ごしたという「飛雲閣」は今は西本願寺の庭園にある。
●豊臣秀次の養母であった「おね」は、豊臣秀吉が亡くなって「豊国神社」に祀られたとき、剃髪して近くの「高台寺」に隠棲した。関ヶ原前夜には、加藤清正、福島正則、徳川家康等が高台寺詣りをしたという。この「高台寺」が再び歴史に登場するのは幕末である。壬生浪といわれた近藤勇を中心とした「新選組」を分かち「御陵衛士」として「高台寺党」を伊東甲子太郎が結成するのである。
秀次は秀吉晩年の豊臣家の中では唯一とも言ってもよい成人した親族であった。しかし、秀次とその子をほぼ殺し尽くしたことは、数少ない豊臣家の親族をさらに弱める結果となった。ただしその一方、後継者が確定しないなかで秀吉が死去した場合、覇権を巡り秀頼と対立し豊臣家内の分裂を引き起こした可能性もある。
人物
秀次は通説として凡庸・無能な武将として評価されることが多いが、秀次の失敗は小牧・長久手の戦いの敗戦の一度だけであり、その後の紀伊・四国攻め、小田原征伐での山中城攻め、奥州仕置などでは武功を上げ、政務においても山内一豊、堀尾吉晴らの補佐もあって無難にこなしていることを考慮すると、そこそこの力量はあり、文武両道の人物だった。
秀次切腹の主な連座者
切腹 者
その他
難を逃れた主な人物
秀次の家臣・与力大名等
その他の人物
・ 藤堂高虎 ・ 毛利輝元(この事件の首謀者の一人と言われ、秀次から多額の借金をしていた)
・ 堀尾吉晴 ・ 伊達政宗 ・ 最上義光(秀次の側室となっていた娘の駒姫が事件に連座し処刑された)
・ 細川忠興 ・ 浅野長政(既に1593年に事実上失脚して、子の浅野幸長に家督を譲っていたため新たな処分はなし。のちに五奉行として復帰)
最上、細川、伊達らは徳川家康の取り成しで事なきを得た。