3、近江八幡の歌人は商人でもあった
問題3;江戸中・後期 の国学者・歌人で、本名、資芳。別号、閑田子(かんでんし)と称した近江八幡の商家出身の人は誰か。今に残る旧商家住宅は、近江兄弟社図書館としても親しまれました。彼の屋敷は今は教育財団教育会館の所有である。
@ 蝉丸 A松尾芭蕉 B伴蒿蹊 C西川吉輔 D北村季吟
解答・・・・3
<解説>
伴蒿蹊(ばん こうけい、享保18年10月1日(1733年11月7日) - 文化3年7月25日(1806年9月7日))は、江戸時代後期の歌人・文筆家。名を資芳(すけよし)と称し、別号を閑田蘆と号した。生家は近江八幡出身の京都の商家で、8歳で本家の近江八幡の豪商伴庄右衛門資之の養子となった。18歳で家督を継ぎ家業に専念したが、36歳で家督を譲り隠居・剃髪し、その後は著述に専念した。著書『主従心得草』は近江商人の典型的な家訓、他に『閑田詠草』、『閑田耕筆』、『閑田次筆』など。『近世畸人伝』は、著名・無名な人物達の生活と意見が述べられ、17.18世紀江戸時代を知るのに有益な伝記集である。
新町通りの散策
天秤棒を担いで全国を歩いたという近江商人は、「売り手よし、買い手よし、世間よし」の“三方よし”と商売とは関係なく社会貢献をする“陰徳善事”を理念に商売をして、現伊藤忠商事を初め、丸紅、高島屋、大丸、西武グループ、日本生命、ヤンマーディーゼル、武田薬品、布団の西川産業、足袋の福助と近代まで綿々と続く大企業家を生んでいる。
品薄の時に値上げをして利益を得るのを潔しとせず、社会貢献はするけどそれで“名前を売る”のを潔しとしないだなんて、昨今話題のIT社長に聞かせたい言葉ではあるけど、IT企業に限らす最近はこういう“徳”って無くなった。
メンソレータムの近江兄弟社もこの地の出で、この町に学校を持っている。実際に街を歩いてみると、近江八幡は“天秤棒を担いで”には程遠い“豪商”が多いのがわかる。
伴家、西川家と言う公開されている豪商だけでなく、新町通りに軒を連ねる家はどれも軒の低い平屋か2階屋で建物は京都の大きなお寺の宇堂に匹敵する?と思う程大きい。通りに面した家屋は今もお住まいの民家ばかりで中を見ることが出来るのは資料館となっている旧伴家と旧西川家だけだけど、公開されていないお宅も含めてどのお宅も町屋としては大きい。「八幡 表に 日野 奥座敷 五個荘の庭」という言葉があるが、それぞれの地域の商人が金をかける家の場所を表している言葉である。また八幡は蚊帳から発展したので繊維系の商人が多い、日野は椀や薬の行商であったが、酒屋が関東に多い。後発の五個荘は近江麻布が中心だが商社系が多いと云われる。
伴家などは個人の住まいであった家屋が後に小学校の校舎や町役場として使われるほどの大きさだし、西川家は“奥”に至る“庭”の奥行きは30mはある。大きな公営駐車場は、伴家の分家の屋敷跡だ。分家のお屋敷の跡が大型の観光バスが30台は停まれる駐車場になっているので、本家の大きさの程が窺い知れる。
伴家(本家)の住宅は確かに大きくて、ここの当主が本居宣長、上田秋成、与謝蕪村らと交流がある国学者であり歌人でもあった伴蒿蹊の家と知って観光に訪れる人も多い。伴家の向かいには市立資料館。ここは明治の洋館風なのだけど、昭和初期に建設された「旧八幡警察署庁舎」を考古資料館として公開している。裏手にある「歴史民俗資料館」、向かいの「旧伴家住宅」、裏手のそのまた裏に当たる「旧西川家住宅」の4館で“資料館”を構成している。ぜひ観光にお越し下さい。
「伴蒿蹊」 読み方:ばん こうけい
江戸後期の国学者・歌人。近江八幡生。名は資芳、別号に閑田子。有賀長伯・武者小路実岳に歌道・和学を学び、晩年には荷田春満に私淑する。和歌では平安四天王の一人。国学を知悉すると共に仏教・漢学にも詳しかった。文化3年(1806)歿、74才。
他の回答に登場した人物で「蝉丸」は云わずと知れた平安時代の歌人で、「小倉百人一首」にその歌が収録されている。大津の逢坂の関の近くにに庵をむすび、往来の人を見て「これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂の関」と和歌を詠んだという盲目の琵琶法師だったという説や皇室関係の人であったなど諸説がある。逢坂山には蝉丸を祀った「蝉丸神社」がある。滋賀県にはゆかりの人である。
松尾芭蕉は、三重(伊賀)の人だが、江戸時代前期の俳諧師で、「奥の細道」は有名である。「水戸黄門」とは同時代の人なので水戸黄門のドラマにもたびたび登場している。伊賀という出身地から隠密としての任務も請け負っていたのではないかとの推測もある。旅の途中で病んで大阪で客死したが、「墓は木曽殿の隣に」との生前の遺言で、大津膳所の「義仲寺」に木曽義仲の墓の隣に葬られた。
Dの北村季吟は、芭蕉の師匠であり江戸前期の歌人・俳人である。近江国野洲郡(野洲市)北村に生まれ、代々医者であったが、元禄2年、歌学方として幕府に仕えた。以後、北村家が幕府歌学方を世襲した。
Cの西川吉輔(にしかわよしすけ)は、近江八幡の商家、西川伝右衛門家の分家である肥料商の西川善六家の出身で7代目であり、彦根藩士だったが、幕末維新期平田派国学者として藩論の尊王への転換を計った。安政の大獄で捕まったが脱出し、京で足利三代木像梟首事件を起こした尊王攘夷派の勤王の志士である。禁門の変にも関係したとされるが、王政復古の明治維新後は、日吉大社の宮司や生国魂神社の宮司を歴任し、帰正館を創設し教導にも努め、伊庭貞剛などの明治期の近江商人を輩出した近江八幡を代表する国学者=維新の志士でもある。