2、亡霊となって高野山(この世)をさまよう「豊臣秀次」とその近習たち
問題2;江戸時代、上田秋成によって執筆された「雨月物語」の中には、高野山を舞台にした「仏法僧」という物語がありますが、登場する亡霊は誰れでしょうか。豊禅閤ともいわれ出家させられたうえの無念の切腹であったと聞いています。7月15日が命日です。
@ 木村常陸介・重成親子 A羽柴秀勝 B木下秀俊 C豊臣秀次と小姓 D千利休
解答・・・4
<解説>
秀次公の話が書かれた「雨月物語」とは江戸時代、上田秋成という人物によって書かれた怪異小説集です。明和五年(1768)には完成していたと言われており、その後幾度か推敲が重ねられ、安永五年(1776)に刊行されました。その書名の由来は、序文にもある「雨霽月朦朧之夜」に由来します。その文章は読まれたことがなくとも、高校で習う文学史には必ずと言って良いほどその名が出てくるので、知っている方も多いと思います。ただしそれがどんな作品なのか、と問われれば、答えられる人は限られてくるでしょう。
『雨月物語』は九篇の小説から成る短編集です。具体的な作品名を記せば、「白峰」、「菊花の約」、「浅茅が宿」、「夢応の鯉魚」、「仏法僧」、「吉備津の釜」、「蛇性の婬」、「青頭巾」、「貧福論」がそれに当ります。
九篇に共通することと言えば、やはり「怪異」を扱っているという点が挙げられます。怖さの程度は様々なのですが、生霊、死霊、蛇精、金霊、魔王などなど、この作品では数多くの怪しい存在が跋扈し、時には人間を死に追いやったり、また時には議論を繰り広げたりと、それぞれが種種多様な振る舞いをします。この作は読本(文章を主体とした読み物)の先駆的作品と呼ばれていますが、それが実は怪異小説であったとなると、意外に思われる方も多いかも知れません。
しかし、いくら怪異小説の元祖だからとは言え、それが優れたものではなければ今日「古典」として認知されるわけがありません。本書を古典的名作たらしめるのは、やはり文章にあると思います。
そのうちの「仏法僧」は、時を江戸時代に設定している。:(物語のストーリー)伊勢国の拝志夢然というひとが隠居した後、末子の作之治と旅に出た。色々見て廻ったあと、夏、高野山へと向った。着くのが遅くなり、到着が夜になってしまった。寺でとまろうと思ったけれど寺の掟によりかなわず、霊廟の前の灯籠堂で、念仏を唱えて夜を明かすことに決めた。静かな中過ごしていると、外から「仏法仏法(ぶつぱんぶつぱん)」と仏法僧(ぶっぷおそうという鳥の名)の鳴き声が聞こえてきた。珍しいものを聞いたと興を催し、夢然は一句よんだ。・・・・「鳥の音も秘密の山の茂みかな」
もう一回鳴かないものか、と耳をそばだてていると、別のものが聞こえてきた。だれかがこちらへ来るようである。驚いて隠れようとしたが二人はやって来た武士に見つかってしまい、慌てて下に降りてうずくまった。多くの足音とともに、烏帽子直衣の貴人がやってきた。そして、楽しそうに宴会をはじめた。そのうち、貴人は連歌師の里村紹巴の名を呼び、話をさせた。話は、『風雅和歌集』にある弘法大師の「わすれても汲やしつらん旅人の高野の奥の玉川の水」という歌の解釈に移っていった。紹巴の話が一通り終った頃、また仏法僧が鳴いた。これに、貴人は、紹巴にひとつ歌をよめ、と命じる。紹巴は、段下の夢然にさきほどの句を披露しろ、といった。夢然が正体を聞くと、貴人が豊臣秀次とその家臣の霊であることが分かった。夢然がようよう紙にかいたのを差し出すと、山本主殿がこれをよみあげた。「鳥の音も秘密の山の茂みかな」。秀次の評価は、なかなか良いよう。小姓の山田三十郎がこれに付け句した。「芥子たき明すみじか夜の牀」。紹巴や秀次はこれに、よく作った、と褒め、座は一段と盛り上がった。
家臣のひとり、淡路(雀部重政)が急に騒ぎ出し、修羅の時が近づいていることを知らせた。すると、いままでおだやかだった場が殺気立つようになり、みなの顔色も変ってきている。秀次は、段下の、部外者のふたりも修羅の世界につれていけ、と配下のものに命じ、これを逆に諌められ、そのうち皆の姿は消えていった。親子は、恐ろしい心地がして、気絶してしまった。朝が来て、二人は起き、急いで山を下った。後に夢然が瑞泉寺にある秀次の悪逆塚の横を通ったとき、昼なのにものすごいものを感じた、とひとに語ったのを、ここにそのまま書いた、という末尾で物語をしめている。
一般に伝わる「豊臣秀次」公の概歴はこうです。
豊臣秀次は豊臣秀吉の甥、関白。永禄11年に秀吉の姉・ともの子として生まれ、幼い頃は宮部継潤や三好康長のもとへ養子として送られた。信長の死後は秀吉の数少ない縁者として重用される。賤ヶ岳の戦いに従軍して武功を上げ、小牧・長久手の戦いでは弱冠17歳にして三河侵攻の別働隊の大将となるが、徳川勢の奇襲を受け大敗してしまう。この戦いで軍勢はほとんど壊滅し、池田恒輿や森長可まで討ち死に、秀吉からは叱責を受けた。しかしその後の四国攻めでは戦功を挙げ、近江国蒲生郡に43万石を与えられている。小田原の役では山中城攻めの大将として城を半日で陥落させ、尾張・伊勢100万石の領地を与えられた。葛西・大崎一揆や九戸政実の乱にも功があり、秀吉の実子・鶴松が3歳で病没すると養子となって関白を継ぐなど、とんとん拍子で出世していく。しかし秀吉に二人目の実子・秀頼が生まれると状況は一変する。鶴松の死去により、もはや子は生まれまいと踏んで甥の秀次を後継者に選んだのであるから、実子が再び生まれた以上、秀次は邪魔者でしかなかったのである。文禄4年、秀次は謀反の疑いをかけられ切腹を命じられ、その首は京都三条河原に晒された。一族はおろか多数の家臣や妾に至るまで殺されたという。その晩年は酒色に溺れ、農民を鉄砲の的にして撃ち殺す、妊婦の腹を裂くなどの非道を繰り返し「殺生関白」と恐れられたと伝わる一方、宣教師からは「穏やかで思慮深い」人物として賞賛されるなどその人物像は一定しない。
もう少し、詳しく秀次公について述べてみると・・・・・
豊臣秀次公(豊禅閤と呼ばれた〉が高野山で切腹させられたのが旧暦七月十五日、木村重茲、前野長泰、明石則実ら家臣も連座して賜死しています。八月二日には秀次公の家族ら三十九名が処刑されました。・・・・これを「秀次事件」と云いますが、秀次公粛清の理由には様々な説があります。
豊臣秀次公の謀殺・千利休の切腹・豊臣秀長の病死・豊臣秀保の事故死の一連の事件の裏には、秀吉の無茶な「朝鮮出兵」(文禄・慶長の役=壬辰倭乱・丁酉倭乱)に反対したから、殺されたという説もある。もしそうだとすれば朝鮮人街道を地名に持つ近江八幡市民としても「秀次」公と壬辰倭乱との関係も見過ごすことはできません。現代に生きる私たちは、長い年月の史実のなかで、どれだけ信憑性をもって語ることができるでしょうか。新たな発見や調査によって、多くの史実が判明する一方で、誰もが信じて疑わなかった歴史認識が、大きく変わってしまうことも珍しくありません。
歴史書といわれる書物のなかには、時の権力者によってねじ曲げられた史実が伝わっているのも多く、近年、歴史研究家たちによって、史実としての信憑性に多くの疑問が投げかけられています。誰もが信じて疑わなかった歴史年表も実は、新たな発見とともに書き換えられてきたものです。今後も様々な理由によって、さらなる見直しが行われることもあります。すでに周知の事実としてとらえられている事象に関しても、その事実が覆らないとも限りません。史実として認知されている出来事さえ、後世の人々による創作や潤色されたものかもしれないのです。豊臣秀次公もその一人です。・・
「殺生関白」とされた豊臣秀次公の歴史認識を、様々な資料(図書)を読みながら多角的に検証してほしいと思っています。
豊臣家と豊臣秀次公を滅ぼした原因は「秀吉」の朝鮮侵略という無謀な野望だった・・・・という説があります。これは 私が最も有力視する仮説です。
実際 秀吉―三成―(鶴松)秀頼―淀 ライン(侵略派)と 秀長―(秀保)(秀勝・お江の二番目の夫)―千利休―秀次 ライン(侵略反対派)の 確執で、反対派が粛清され、かくして文禄の役(壬辰倭乱)、慶長の役(丁酉再乱)が起きたのです。このことが原因で、豊臣家子飼いの大名による確執の結果(誤算)が形として現れたのが「関ヶ原合戦」であるといわれています。秀長(病死)秀保(事故死)そして、千利休・切腹の謎。秀次謀反説も「殺生関白」説も秀頼を後継にしようとする秀吉側のでっちあげで、秀長・千利休という後ろ盾を亡くした秀次が(後継)争いに敗れた結果の汚名(濡れ衣)であることはまちがいないだろう。
歴史に if は ないが、もし秀長―千利休―秀次が生きていれば「壬辰倭乱」は起こらなかった。と言われている。この侵略反対派のラインの家臣団には、藤堂高虎、前野長泰(武功夜話)、木村常陸介、田中吉政、山内一豊、など層々たる面々が揃っているし、彼らを取り巻く仲間となる大名では、伊達政宗、最上義光、細川忠興、浅野幸長、毛利輝元。公家では菊亭晴季とその一門につながる真田昌幸・幸村などがいる。秀次公の家臣にも、異色の浅井長政の落し種といわれる浅井井頼や近江佐々木六角家の生き残りの六角義郷がいる。もし、秀次公が生きておれば、彼らの活躍も期待でき、関ヶ原も徳川幕府の日の目も無かったのではないだろうか。そして、無謀な朝鮮侵略や太平洋・大東亜戦争もなかったのではと・・・・・・・・・悔やまれる・・
名君と謳われながら、秀吉の老醜と石田三成の奸計(最近、石田三成の評価が見直され、三成自身は秀次を庇っていたという人もある。実際、秀次の切腹後、彼の家臣を多く取り立て仕官させ、家臣はその恩に報いるため関ヶ原では西軍に加わり多くが三成と共に戦死している事実がある)により、無念の一生を閉じた豊臣秀次公。暴君論は果たして真実なのか?秀次公の切腹以後、秀吉を正当化する史料だけが残った。だが厳正な検証から、城下繁栄や学問・芸術振興における秀次公の功績が認められ、思慮・分別と文化的素養を備えた人物像が浮かび上がってくる。そして秀吉の後継者・関白の地位に就くも、汚名とともに処罰された謀反事件。それは豊臣政権の主導権争いの結末だったといわれる。秀吉の政治的戦略に翻弄された犠牲者であり、引き立て役として歴史上も否定され続けた「殺生関白」の悲劇。その復権にも挑んでみたいと思います。はたして秀吉への謀反は真実だったのか。史料を厳正に検証する中で浮上してきた冤罪説。歴史的に否定され続けた「殺生関白」の復権に挑んでみませんか。この「秀次事件」は後年の「関ヶ原合戦」に大きな影響を与えたとされています。もう一度、そういった目で「豊臣秀次」公関連の図書を読み直してみませんか。ひとつの提案です。
豊臣秀次公と壬辰倭乱の関係を検証する
私ごとですが、このたび、妻のお許しを得て、豊臣秀次公=“豊禅閤”が愛用したという「甲冑(朱塗黒糸素懸威二枚胴具足)」を入手しました。本物は現在は東京のサントリー美術館に所蔵されており、これはその甲冑のレプリカです。具足の兜は、烏帽子形兜で獅噛(しそう)の前立と焔(ほむら)の脇立が付いています。胴は、朱漆である。正式には、兜は、『獅噛前立焔脇立朱塗兜(しかみまえたてほむらのわきたてしゅぬりかぶと)』と云います。甲冑の重さは全部で25キロだそうです。もちろん鉄製です。有名な戦国武将の甲冑であるから高かったのですが、今しか入手できないと思い、思い切って買ってもらいました。最近4度程、着用する機会があったので、着用しました。私が既に購入していた甲冑も立派だと思ったのですが、やはり前立てや脇立てが付いている甲冑は迫力が違います。値段相応ということでしょうか。思い切って購入してよかったです。では甲冑話はそれとして、秀次と朝鮮侵略の関係を検証してみたいと思います。余談ですが私は市役所の同期の者5人で韓国の麗水万博に行ってきました。李舜臣の水営(水軍基地)があったところです。やはり期待通り亀甲船などの複製がありました。では・・・本論です・・・・・
豊臣秀次公(高野山で出家した秀次は『豊禅閤(ほうぜんこう)』と呼ばれています←関白になった人が職を子に譲った者を“太閤”と言い、出家した者を“
禅閤”と敬称します。秀次公は関白職を剥奪され、高野山に入山して出家しています。が、7月15日には切腹を命じられています。)について、調べるなかで、朝鮮との関わりで 政権交代劇があったと記されている書がありました。そこで、もう少し詳しく 調べてみることにしました。それというのも、「殺生関白」という悪名を付けられ、出家までさせられながら、謀殺された「秀次」公の実像とは、どのような人物だったのか。秀吉を出世太閤記などと呼ばせたのは明治になってから日本帝国が大陸侵略に利用しようとしたからであり、いまは、その神通力も薄らいできており、その対極にあった「秀次公」の評価が見直されてきているからである。そこでもう一度、秀次公のことを検証してみようと思った次第である。通常戦国時代の常識でも、叛乱した武将も出家すれば、罪は許されるはずなのだが、この「秀次事件」は当時の常識からしても異常である。そこで、江戸時代に朝鮮通信使が通った朝鮮人街道の地名を持つ近江八幡市民としても、改めて彼にまつわる歴史評価を検証してみることにしました。
現代に生きる私たちは、長い年月の史実のなかで、どれだけ信憑性をもって語ることができるでしょうか。新たな発見や調査によって、多くの史実が判明する一方で、誰もが信じて疑わなかった歴史認識が、大きく変わってしまうことも珍しくありません。
歴史書といわれる書物のなかには、時の権力者によってねじ曲げられた史実が伝わっているのも多く、近年、歴史研究家たちによって、史実としての信憑性に多くの疑問が投げかけられています。誰もが信じて疑わなかった歴史年表も実は、新たな発見とともに書き換えられてきたものです。今後も様々な理由によって、さらなる見直しが行われることもあります。すでに周知の事実としてとらえられている事象に関しても、その事実が覆らないとも限りません。史実として認知されている出来事さえ、後世の人々による創作や潤色されたものかもしれないのです。
そこで、ここでは、「殺生関白」とされた豊臣秀次公の歴史認識を大きく揺るがす衝撃の異論を、様々な資料を読みながら多角的に検証していきたいと思います。
名君と謳われながら、秀吉の老醜と石田三成の奸計により、無念の一生を閉じたといわれる豊臣秀次公。彼の暴君論は果たして真実なのか?秀次の切腹以後、秀吉を正当化する史料だけが残った。だが厳正な検証から、城下繁栄や学問・芸術振興における秀次の功績が認められ、思慮・分別と文化的素養を備えた人物像が浮かび上がる。そして秀吉の後継者・関白の地位に就くも、汚名とともに処罰された謀反事件。それは豊臣政権の主導権争いの結末だったといわれる。秀吉の政治的戦略に翻弄された犠牲者であり、引き立て役として歴史上も否定され続けた「殺生関白」の悲劇。その復権に挑んでみよう。はたして秀吉への謀反は真実だったのか。史料を厳正に検証する中で浮上してきた冤罪説。歴史的に否定され続けた「殺生関白」の復権に挑んでみたい。豊臣秀次は江戸時代に豊臣秀吉の生涯を描いた「太閤記もの」の流行、朝鮮に侵攻した秀吉を西洋列強の圧力に屈していた幕末や侵略美化を訴えた戦前の軍部が秀吉を英雄視した影響で人気者になったことにより、彼により切腹を命じられた秀次は「殺生関白」という汚名が着せられました。聚楽第(じゅらくだい)は安土桃山時代に豊臣秀吉が京都に建てた関白の政庁です。甥の秀次に関白職と共に聚楽第も譲り渡しました。しかし、秀吉は嫡男秀頼が誕生すると我が子を後継者にした秀吉は秀次の存在が邪魔になり、彼を自害させ、秀次の痕跡を消すためか聚楽第も破却されました。聚楽第は歴史や京都に関する書籍等で紹介されることは多く、聚楽第という名前だけご存知の方も多いでしょう。しかし、聚楽第は現存せず、聚楽第の縄張り図や設計図に該当するものは未発見など聚楽第に関する史料は少なく、御殿の配置など具体的なことはほとんどわかりません。西本願寺の飛雲閣にその遺構が残されている程度です。近年ようやく発掘調査と諸史料に基づき聚楽第の推定復元図が作成されましたが、未だに聚楽第の正確な形がわからない状況です。秀次公の評価についても同じことが言えます。
彼の悪評に疑問を持つと近年では彼を再評価する動きが高まっていること、近年までの悪評のほとんどが根拠のないものだとわかり、彼のことを調べてまとめてみることにしました。
豊臣秀次公は豊臣秀吉の甥であり、秀吉が太閤を名乗った後に、関白に就任した人物である。天下最大の実力者・秀吉の甥であるとは言え、秀次が無能な人間であったなら当然のことながら関白と言う要職が勤まるわけがない。少なくとも、同じ秀吉関係の血縁人間・小早川秀秋とは桁が違うまともな人間だっただろう。
豊臣秀次は「殺生関白」と言う名のほうがわかりやすいかもしれない人物である。辻斬りをした(ようするに無差別殺人)、皇族ご用達の狩猟場に乗り込んで銃を乱射した、妊婦の腹を引き裂いて体内の赤子の様子を確かめたなどの悪行が知られている。本当にこんなことをしたのだろうか?私は当時の人間ではない(←当然)から、事実はわからない。が、こういった人物であれば関白になれるはずがない。そして、「殺生関白」に関する情報はある時期から発生している。そのある時期とは言わずと知れた、「お拾い(←後の豊臣秀頼)」誕生である。耄碌(もうろく)した秀吉が我が子可愛さで秀頼に後を継がせたいと考えるのは自然なことである。となると、関白の秀次は邪魔である。それどころか、秀頼の最大の敵になる可能性を秘めている。よって、秀次を追い払いたかった。その秀吉の意図を察した側近(石田三成か?)が、あらぬ噂を流して秀次の追い落としを謀り、謀殺した。そのままでは側近衆は不利なので、噂を流し続け秀次の名声を叩き潰しておき、それが今まで伝わっていると考えた方が自然であると思う。しかし、三成は没落した秀次の家臣をとりたてて救済している実績もあるので、そこらあたりは詳細に検証する必要があろう。「殺生関白」とは後世から見ても、かなりイメージが悪い。ということは、その当時では相当なものだろう。逆説的に言えば、そういった、かなりひどい情報(噂)を流さなければならない人物だったとも考えることができる。つまり、名君だったと。・・・
そして、それを裏付ける記録がある。秀次は近江八幡を治めていたときのことである。
的確な町割を行い、租税も安く・統治をしっかりしていたため、治安も安定し町には活気があったと。スパンは国ではなく町(今の都市)だが、民衆の心を掴んだ見事な政治をしていたことは間違いないようだ(家臣がやったのかもしれないが、そういった家臣を抱え・任せたと言うやり方はよくあることだし、主君の心得の1つ)。篠原町〜池田本町にかかる農業橋の欄干橋上には水争いを治めた秀次公の像が立っている。
そして、戦争が終わって領国経営に精を出す諸大名に金を貸していた(これが謀反追求されることになるのだが・・・)。これも、「基盤の安定化→経済の活性化→国(日本)の活性化」という流れを踏まえた経済政策である。悪意を持って見ない限り「関白としての政策の1つ」と取るのが自然だろう。こういった記録を見る限りでは、「秀次=殺生関白=どうしようもない人物」という図式は見えてこない。ここに「負け組みの悲劇」がある。歴史書は勝ち組みの人間が「自分に都合のいいように」書いていく。逆に言えば都合の悪い部分は消される。もしくは、嘘の情報を並べ立てられる。秀次は負け組みの人間であり、勝ち組みの秀吉から見たら(秀頼誕生後)都合の悪い存在となってしまった。だから、(本当にあったのかもしれないが)ありもしないことを並びたてられ人格を貶められた。それが、今まで伝わってしまっている。豊臣秀次は「殺生関白」ではなく、名君であったと思うのだが、いかがなものだろうか?後世の江戸時代に書かれた「雨月物語」巻之三「仏法僧」の段に豊臣秀次とその小姓の亡霊が出てくるところがあるが、後世になっても、その秀次の無念さは民衆のなかに生きていたのであろう。また、秀次の家臣であり、秀吉の墨俣時代からの仕えた古くからの武将の前野長康(秀次に殉じて切腹・殉死した)の家に伝わる前野家文書(「武功夜話」として今に伝わる)にも、秀次事件が書かれているという。
「歴史群像新書」で、豊臣秀次のことについて書かれた本が2冊あった。また羽生さんが「豊臣秀次」の小説を書かれてニューオウミで「披露」があった。それらを検討するなかで、「殺生関白」という悪名からして「秀次」を陥れての謀殺であったことが浮き彫りになってきた。そこで、これまで通説とされてきた歴史認識を再検証してみたいのである。まず、頭に浮かんだのは「狡兎死して、良狗煮られる」という故事の例である。豊臣秀吉は「太閤記」という物語では貧農から天下様にまで登りつめた出世物語として世に知られているところですが、秀吉に残虐な一面があったことを知る人は、よほど歴史に詳しい人です。自分の妹や実母まで人質に出すという行為まで行っているのですが、人質は、いざ両者の間で戦争になれば真っ先に殺される運命を担っていることを忘れてはなりません。徳川を臣下にして、名実ともに天下様となった秀吉に、唯一苦言を言えるのは、弟たる「秀長」です。だから、置毒を使って異母弟の「秀長」を暗殺した。という説があります。事実、秀長の養子となった「秀保」(秀次の三番目の実弟)も原因不明の事故で亡くなっています。これは史実です。また最近のNHK大河ドラマでは「お江」の二番目の夫「秀勝」(秀次の二番目の実弟)も亡くなっており、その「お江」のドラマでは秀次は良い人に描かれています。逆に秀吉の身勝手さや残虐さが印象に残りました。ざまを見ろです。NHKドラマも徐々にではあるが、秀次公への評価を変えつつある。織田信長が本能寺で倒れた時、笑いをこらえた秀吉の姿をみて黒田官兵衛に言われた言葉で、自分の正体を見透かされたと思い、その後は、徹底的に官兵衛を利用するが、自分が天下様になった(=敵が居なくなった)時には、彼を遠ざけている。竹中半兵衛も最終、秀吉にすり潰されて亡くなっている。そして、国内の騒乱が収まったとき、秀吉は朝鮮侵略と明国征服という途方もない妄想を抱くのである。常識的にみて、朝鮮侵略や明国征服は無理だと誰もが考えるだろうが、周囲の石田三成や加藤清正などの取り巻きは、秀吉の勘気を恐れて何も言えず、迎合するばかりで、唯一、秀吉の暴挙として侵略戦の反対を表明したのは、弟の秀長であり、千利休であった。秀次も関白に取り立ててもらってからは、太閤となった秀吉とは、二重政治で、対立を深めていった。(本来、太閤は関白の隠居名であり実権はなく、正式の政府の権限は関白にあった。しかし、天下様ということで権力を行使して、関白秀次とよく政策面等で衝突したという。)そのために、秀吉の誇大妄想といわれた政策=朝鮮・明征伐、大陸征服に反対だった弟秀長や千利休、秀次は邪魔になった。天下が収まった(北条征伐終了)時点で、彼らを「狗煮る」したのではないか。実際、巷では、豊臣家と豊臣秀次公を滅ぼした原因は「秀吉」の朝鮮侵略という無謀な野望=老醜だった・・・・という説があります。
実際 秀吉―三成―(鶴松)秀頼―淀 ライン(侵略派)と秀長―(秀保)(秀勝・お江の二番目の夫)―千利休―秀次 ライン(侵略反対派)の確執で、反対派が粛清され、かくして文禄の役(壬辰倭乱)、慶長の役(丁酉再乱)が起きたのです。このことが原因で、豊臣家子飼いの大名による確執の結果(誤算)が形として現れたのが「関ヶ原合戦」であるといわれています。
秀次謀反説も「殺生関白」説も秀頼を後継にしようとする秀吉側のでっちあげで、秀長・千利休という後ろ盾を亡くした秀次が(後継)争いに敗れた結果の汚名(濡れ衣)であることはまちがいないだろう。
天正19年(1591)に実子・鶴松が亡くなると高齢の豊臣秀吉は実子の誕生を諦めたのか、甥(姉の子)の秀次に関白職と関白の政庁である聚楽第を譲りました。
しかし、文禄2年(1593)に実子・秀頼が生まれると秀頼を後継者にするため文禄4年(1595)に「秀次に謀反の疑いあり」として高野山へ追放し、自害させました。
終戦までは侵略が美化され、朝鮮へ出兵した秀吉を英雄視していました。その反動で、歴史上の「英雄」である秀吉によって切腹を命じられた秀次は、秀吉の甥という血縁だけで関白職を継ぎ、秀頼誕生により後継者になれないことで自暴自棄に陥り、悪行を繰り返し後世の人々から「殺生関白」と呼ばれるようになり、処刑されたと考えられています。
最近では彼の「殺生関白」と呼ばれるような悪行には史料的裏付けがなく、作為的に作られたと考えられました。そして、彼の文化貢献などこれまで知られなかった彼の側面に注目し、再評価する傾向が強いようです。
◆秀次の人生
○生い立ちから三好家へ養子入り
永禄11年(1568)に秀吉の姉と百姓の三輪(または木下)弥助の子として生まれます。3歳頃に宮部継潤へ養子(実情は人質)に出され、浅井氏滅亡により戻ります。
天正7年(1579)に12歳で織田信長に臣従した四国の三好康長に父子ともに養子に出されます。父は三好吉房、秀次は三好孫七郎信吉と名乗りました。
三好家に養子に出された理由は織田家中の権力争いです。織田から四国安堵の朱印状を授かった土佐の長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)の正妻は信長重臣の明智光秀の家臣の斉藤利三の妹です。
長宗我部と信長の仲介役の明智光秀から四国主導権を奪おうという秀吉の目論見から四国の名門「三好」家に養子入りさせたといわれています。長宗我部は四国統一目前という大勢力になり、信長に従う三好家を攻撃すると信長は方針を展開し一変し長宗我部と手を切りました。
秀次の養父・三好康長は天正10年(1581)に四国討伐軍の先鋒として阿波へ出陣していましたが、本能寺の変により信長が討たれたことで討伐軍本隊が来ず四国で孤立し、彼は堺へ逃げ帰り、その後の消息がわからなくなります。
養父と過ごした時間は長くはなかったですが、多感な時期の秀次にとって茶の湯と連歌に造詣が深い養父の影響は大きかったようです。長康は津田宗及ら堺の茶人と親しく、当時を代表する連歌師・里村紹巴が参加する連歌会に何度も秀次と出席しています。
○羽柴・豊臣時代の秀次
天正12年(1583)に三好家から離れ、羽柴姓を名乗り、翌年には羽柴秀次と改名しました。秀吉が天正13年(1585)に豊臣姓を授かると秀次も豊臣姓を名乗りました。
秀吉の計らいで朝廷から高い官位を授かり、武家の公卿になります。天正16年(1588)の後陽成天皇の行幸では叔父の豊臣秀長、徳川家康ら武家の公卿と共に天皇の行列に供奉(ぐぶ)しました。秀吉は天正19年(1591)1月に弟の秀長、8月に実子の鶴丸を失い、12月に関白の座と聚楽第を秀次に譲りました。
大陸への合戦に専念する秀吉に代わり、朝廷と政権のパイプ役を務めていましたが文禄2年(1593)に秀吉の息・秀頼が生まれたことで両者の関係が大きく変わります。実子を後継者にしたい秀吉は秀次を後継者にした決断は誤りで彼が邪魔な存在となり、文禄4年(1595)に謀反の疑いで高野山で切腹させました。
秀吉は彼、秀次の切腹後、聚楽第の破却命令を下します。彼の子供と妻妾とその侍女34名(正確な人数は不明で説により人数の増減があります)を三条河原で処刑しました。
◆武将としての秀次
豊臣秀次の武将としての活躍は一般的には長久手の戦いでの敗戦のみの印象が強いです。しかし、あまり知られていませんが、それ以外はきちんと役目を果たしています。
彼の武将としての姿を振り返ります。
○小牧・長久手の戦いまで
初陣は天正10年(1582)の織田信長を討った明智光秀との戦である山崎の戦いと考えられています。
指揮官としての初陣は翌年の伊勢の滝川一益攻めが最初です。秀吉は伊勢攻めの軍を3隊に分け、彼に1隊の指揮官に任じました。彼は無事に役目を果たしました。
○小牧・長久手の戦いでの敗戦
天正12年(1584)に秀吉との関係が悪化した織田信雄は徳川家康と同盟を結び挙兵し、秀吉軍と徳川家康・織田信雄連合軍の戦いである小牧長久手の戦いが起こります。
兵力は連合軍約3万に対し秀吉側は約10万と云われています。数の上では秀吉側が圧倒的に有利でしたが、小牧山城に籠城した徳川軍を攻めあぐね、戦況はこう着してしまいます。
戦況打破のため秀吉は、秀次を大将とする別働隊を結成し、正面の徳川軍を迂回し、徳川の本拠地の三河国の岡崎城へ向けて進軍させます。秀吉軍は元信長配下というかつての秀吉の同僚達(=池田恒興、森長可、等)が多く、羽柴一族である彼を秀吉の名代という意味合いを込めで大将にすることで別働隊に配属された元信長配下の者も従うという判断でしょう。
秀次の別働隊が壊滅したことでこの作戦の詳細な内容はわかりません。籠城した徳川軍に苦戦している状況から、別働隊は岡崎城へ向かう動きを見せることで小牧山城の徳川軍を城から誘き出すための陽動、もしくは徳川が陽動に応じず籠城を続けるなら岡崎城を強襲し攻め落とすという2つの意図があると推測されます。岡崎城が陥落すれば小牧山城の徳川軍は岡崎城奪還のため小牧山城を捨てて撤退するはずです。いずれかの方法で城から出撃した徳川軍を秀吉本隊が討つという作戦だったと考えられます。
徳川軍主力との戦闘は秀吉本隊の役目と考えられます。兵力の上では有利な秀吉ですらどうにもできない徳川相手に、若年で戦の経験が少ない秀次では適うはずもなく、まして秀次側は敵地への進軍という不利な状況です。別働隊単独で徳川軍主力と戦うことになれば、勝つことは難しいです。陽動という安全な役割だから数少ない一族である秀次を名代という意味合いを込めて大将に起用したと考えられます。
実際は別働隊の動きを察知した徳川軍は正面に対峙している秀吉軍に気づかれぬように小牧山城を密かに抜け出して出陣し、別働隊を奇襲し壊滅させました。秀吉より家康の方が将としては上手だったようです。
大敗した軍の大将という結果責任から秀次にも敗戦の責任はありますが、むしろ徳川軍本隊が小牧山城を密かに抜け出したことを察知できなかった秀吉に責任があります。特にこの作戦が別働隊の陽動により城から出陣した徳川軍を秀吉本隊が討つ作戦であるならば、徳川軍の出撃を秀吉本隊(軍師は黒田官兵衛だが、この時は中国戦線に張り付いており、不在であった。)が察知できなかったことは作戦の根幹を揺るがすような致命的な失敗です。
大将である彼が敗戦という結果責任から、秀吉から厳しい叱責を受けます。しかし、秀吉はこの敗戦以降も彼を指揮官に任じていることから、この大敗の原因が彼の指揮に重大な過失があったなど彼の指揮官としての資質が欠けているとは考えていないようです。 ちなみにこの敗戦以降も両軍の対峙は続いていますが、秀吉側は家康には勝てず、信雄との単独講和に成功し、信雄と同盟関係にある徳川が戦を続ける大義名分を失わるという外交的な勝利を得ました。家康も秀吉に講和し、臣従します。この時、秀吉の実妹と実母を家康に人質として、差し出しています。
○秀次のその後の合戦での活躍
天正13年(1585)の紀州根来衆攻めと同年の四国討伐の副将を務め、その功績で近江43万石(彼自身に20万石と秀吉から派遣された附家老ら23万石分)を与えられました。この頃の秀吉軍は秀吉が大将、秀長と秀次が副将です。秀吉が出陣しない四国討伐では秀長が大将、秀次が副将を務めました。秀次は豊臣家にとって欠かせない将でした。
天正15年(1587)の九州征伐には従軍していません。彼は前田利家と共に東国への有事に備えとして留守を任されました。天正18年(1590)の小田原攻めでは病身の秀長に代わり先鋒を務め、北条側の最前線という重要拠点の伊豆山中城をわずか一日で陥落させる活躍を見せました。天正19年(1590)に陸奥で起こった九戸政実(くのへまさざね)の乱の平定軍の総大将を務め、その任を果たしています。小田原攻めからは徳川家康の補佐を受けています。
○武将としての秀次
後に彼が「殺生関白」説の流布により「秀吉の甥というだけで努力せず高位に就いた」など彼を不当に低く評価する風潮が広まると、長久手の戦いの大敗以外の武将としての功績は一切触れず、彼の無能さを示す例として長久手の戦いでの大敗のみが取り上げられ、敗戦の原因がまるで彼の重大な過失によるものと考えられるようになりました。勝利の影には補佐役の支えもあり、彼の将としての器量を示す逸話が残っていないことから彼自身の武将としての能力は正直わかりません。結果論で評価する以外ないですが、勝利を積み重ねた結果から、彼はけっして無能は武将ではなく、豊臣家の一翼を担う武将であったことは間違いありません。
◆領主としての豊臣秀次
天正13年(1585)に近江半国20万石(別に秀吉から派遣された山内ら附家老達の23万石で計43万石)が与えられました。近江八幡には城がなく、ゼロからの城下街作りが行われました。
焼け落ちた安土城の城下から商人を移住させ、碁盤目状の街路を作り、武家町と町民が住む区域を分け、職人と商人が住む区域を分けました。近江八幡には現在でも残る八幡堀を作り、琵琶湖につながる運河とし海運で栄えました。近江八幡には当時では珍しい上下水道がありました。
豊臣一族である秀次は領主という役割以外に、京や大坂などで公家と諸大名達を饗応し豊臣家との友好関係を築く役割もあり、領国を離れていることが多く、秀吉から派遣された補佐役である附家老の田中政吉らが実務を担っていたと考えられます。個別の施策の立案が彼か附家老達のどちらによるものかはわかりませんが、数々の優れた施策には領主である彼の意向が反映されているはずです。彼が領主の時代に現在の近江八幡市の発展の礎が築かれたことは紛れもない事実です。
天正18年(1590)に仮想敵国である関東の徳川家康に対する構えとして、秀吉は彼に尾張一国伊勢五郡(旧織田信雄領)約100万石の領地を与えました。奥州への出兵や関白職を譲り受けた後は聚楽第で関白としての政務を執るなど不在領主の彼に代わり、実父三好吉房が領地を治めました。川の堤防建設と維持費の負担から税率が高く、実父は領主として頼りなかったという記録もあります。彼の領地であることを示す領地宛行状と知行目録がなく秀吉配下の奉行衆が尾張を検地しているため「単に預かっているだけ」という考え方もあります。
◆文化人だった豊臣秀次
養父・三好康長は茶の湯と連歌に造詣が深い文化人です。養父の影響を受けた秀次も高い教養を持つ人物でした。秀次は10代の若さで津田宗及ら堺の茶人が開く茶会、当時を代表する連歌師の里村紹巴主催の連歌会に出席しています。
聚楽第には公家や諸大名達との社交場の役割もあります。天正19年(1591)に秀吉から関白職と共に聚楽第を譲り受けた後は、聚楽第に里村ら文化人や公卿を招き、芸能鑑賞や茶会、王朝文学に関するサロンを形成し、彼らと共に文化政策を進めていきました。
秀次が豊臣一族や関白という地位であっても、教養と知識がなければ公家達から相手にされません。彼は彼らとの交流に不可欠な教養と知識を持っていたと推測できます。
21もある勅撰和歌集を集めて学び、書き写させ、連歌会を開くなど和歌にも造詣が深いです。特に公家達との交際に不可欠な連歌や和歌を詠むためには『源氏物語』や『伊勢物語』などから引用することも多く、王朝古典文学の知識が不可欠です。彼も習得していたと考えられています。他には『源氏物語』を奈良の僧侶に書き写させたことが知られています。
歴史に「if」は ないが、もし秀長―千利休―秀次が生きていれば「壬辰倭乱」は起こらなかった。と言われている。この侵略反対派のラインの家臣には、藤堂高虎、前野長泰(武功夜話)、木村常陸介、田中吉政、山内一豊、など層々たる面々が揃っているし、それを取り巻く仲間となる大名では、伊達政宗、最上義光、細川忠興、浅野幸長、毛利輝元。公家では菊亭晴季とその一門につながる真田昌幸・幸村などがいる。もし、秀次公が生きておれば、関ヶ原も徳川幕府の目も無かったのではないだろうか。そして、無謀な朝鮮侵略や太平洋・大東亜戦争もなかったのではと・・・悔やまれる・・・・「雨月物語」の巻之三、「仏法僧」の段には「豊臣秀次」とその小姓の幽霊が登場する話があるので、一度お読みください。また秀次の家臣には、浅井長政の三男の浅井喜八郎井頼や六角義郷(六角氏の一族)がいるので、面白い展開が臨めたのではないだろうか。余談だが、同小姓に不破万作という人物がいたが、現代にも同性同名の役者がいる。刑事役でサスペンスドラマによく出ているので、すぐ名前をみつけられるでしょう。・・・・
秀吉の実姉で、秀次、秀勝、秀保の兄弟の母の名前は「とも」(瑞龍院日秀 智子)と云いました。尾張の百姓弥助(後の三好吉房)に嫁ぎ、三人の子供を産みました。弟の秀吉が出世すると弟に召出され、家族で秀吉の元に移ります。秀勝は文禄元年(1592)に朝鮮出陣中に亡くなり、文禄4年(1595)4月に秀保が亡くなり、同年7月には秀次が弟の命で切腹するなど次々と不幸が続きます。秀次が亡くなると剃髪して、秀次らの菩提を弔うため村雲の地に寺を建てます。彼女が住む寺には後陽成天皇から寺領千石と「瑞龍寺」の号が下賜されました。寛永2年(1625)に徳川幕府から500石を寄進されましたが彼女は同年に亡くなります。
尖閣・竹島では日本政府の弱腰外交が指摘されているところですが、その昔にも、ヨーロッパからの植民地主義的南蛮貿易に対抗して、戦国〜安土桃山〜江戸時代の初期(鎖国が始まるまで)には日本からも多く海外に雄飛して出国(商人や合戦浪人など)しており、ベトナムやタイには日本人町がつくられていました。彼らは江戸幕府の鎖国と当時に棄民となりました。歴史にifはないが、豊臣秀吉の「朝鮮侵略」が韓国ではいまも悪として歴史で教えられています。しかし、信長―秀吉と継承された、アジア対南蛮(ヨーロッパ)の戦略としてはあながち間違いであったとは言いきれません。戦術的には、李朝朝鮮を相手にするより、頭角を現してきていた金国=女真部族と同盟を結び、衰退著しい「明国」を両方で攻撃すれば、必然的に李朝鮮も明国も降せたと思われる、のですが・・・・。明治維新政府が太閤秀吉を持ち上げた理由もこのへんにあります。さて、文禄・慶長の役は1592年と1598年ですが、女真・建州族の愛新覚羅ヌルハチが明に最初の反乱を起こしたのが1983年で、建州女真を統一し明に対抗して後金を建国したのが、それから5年後である。この時期に明国や朝鮮国は動乱の嵐(文禄・慶長の役)に翻弄されている。だから、日本も豊臣秀長や千利休が生きていて、竹中半兵衛なみの軍師がついていれば、戦術さえ間違わなければ、「文禄・慶長の役=朝鮮・明国との戦い」という愚かな合戦も無かったかもしれないのである。歴史のifが悔やまれる。
文禄・慶長の役において、豊臣軍4万人と明軍4万人が戦った「碧蹄館へきていかんの戦い」は有名であり日本軍も大将宇喜多秀家、副将小早川隆景、その他立花宗茂、黒田長政、小西行長、石田三成などの武将が率いた軍を相手にした明軍の大将を李如松という。彼の名は日本でも有名である。またもう一人明国の有名な人物がいる。それは、明国が滅亡するとき(日本軍の侵攻に防衛出兵して財政的に破綻したとされるが)日本に助けを求めた「明国」武将(鄭 芝龍)がいた。日本ではその武将の息子を「国姓爺」といい、近松門左衛門の浄瑠璃「国姓爺合戦」として有名である、国姓爺と言われたその武将の子の名前を鄭 成功という。
文禄・慶長の役は日本だけでなく、朝鮮国にも政治的、文化的に大きな変化をもたらした。日本では政治的には秀次・千利休を切腹させた豊臣秀吉が亡くなり、関ヶ原合戦へと続き政権が代わるのであるが、文化面でも、大陸の陶磁器の製法が持ち込まれ、特に有田焼・伊万里焼の代表とされる柿右衛門様式は、ヨーロッパに輸入され、「マイセン」陶磁器にも影響を与えたのである。また朝鮮国においても、政治的には明国の支援を受けた関係で、ますます頭が上がらなくなったし、文化的には、南蛮貿易によって日本にもたらされた農産物が、この戦争によって朝鮮半島にも持ちこまれ、現在でも、朝鮮の食文化には欠かせないものとなっている。それは唐辛子である。いまではキムチには欠かせない韓国料理の必需品である。
船木町にある 浄土宗宝池山西願寺は、豊臣秀次公を開基とする寺院です。上杉謙信を見習い武人の毘沙門天の信仰・祈願所として建立されましたが、今は阿弥陀如来や薬師如来もおられます。住職の金森昭憲さんは、特技の「琵琶による説法」で布教をされています。
しつこいようだが、もう一度、秀次事件を検証する。
文禄4年(1595)7月15日に豊臣秀次が豊臣秀吉の命で高野山で切腹した出来事は秀次事件と呼ばれています。
この事件の原因を「秀次が謀反を企んだ」、「殺生関白と呼ばれるように異常な人格」、「秀吉が我が子秀頼かわいさによるもの」などいろいろあります。
西洋の外圧を受けた幕末から終戦まで侵略が美化された影響により、桃山時代に大陸へ出兵した豊臣秀吉を歴史上の英雄として賞賛する秀吉ブームが起こります。その反動から「秀次は殺生関白と呼ばれる異常人格者」という不当に低い評価が定着し、「秀次側に原因がある」と考えられていました。しかし、戦後に秀吉を英雄視する評価は薄れるに伴い、秀次を再評価しようとする動きがあります。ここでは秀次事件は何だったのか、後の影響など事件を考えてみます。
◆秀次事件を振り返る
事件が起こるまでを振り返ります。
○関白職譲渡から文禄4年より前の経緯
秀吉は天正19年(1591)に関白の座を彼に譲ります。秀吉は聚楽第を関白の政庁と位置付けていたようで、聚楽第も彼に譲り渡しました。ただ、豊臣家の城である大坂城や秀吉の持つ広大な領地などは譲りませんでした。また、石田三成ら官僚達の所属も秀吉のままです。徳川家康が秀忠に征夷大将軍を譲り、大御所として秀忠を後見するという意味合いとは全く異なります。
文禄2年(1593)8月に秀頼が誕生すると秀次は直後から10月まで湯治に出かけました。「秀頼誕生により自分の立場がどうなるかわからない」という不安を鎮め冷静に対処しようと考えたのかもしれません。しかし、湯治中に秀吉が秀次に日本の5分の4を与えるという案が示され、10月には秀吉から秀頼と秀次の娘の婚約話を持ちかけます。秀吉は秀頼擁立のためさっそく動き出しました。
また、秀吉は前年から豊臣氏の本拠地大坂と聚楽第がある京の間にある伏見の月見の名所である指月(しげつ)に隠居所として築城中でしたが、秀頼が生まれると秀頼の居城にするため本格的な城として築城します。
文禄2年閏9月に秀吉が大坂城から伏見城へ移住したのを機に、諸大名の伏見屋敷が作り始められ、翌年には山中長俊を町割奉行に任じるなど、伏見を城下街に変えます。諸大名は秀吉の命で伏見に大名屋敷を築きます。秀吉は諸大名の屋敷を聚楽第周辺から秀頼の居城となる伏見へ移させることで、秀次と諸大名の関係を引き裂こうとしたそうです。
また、横田冬彦「豊臣政権と首都」(『豊臣秀吉と京都/聚楽第・御土居・伏見城』編 日本史研究会 文理閣)の「表1 秀吉 秀次 家康の御成等があった大名屋敷」の秀吉が大名屋敷を訪れた回数を見ますと天正15年から秀頼が生まれるまでの期間と秀頼誕生から秀次事件までの期間では回数が圧倒的に違います。前田、蒲生、宇喜田、上杉など有力大名への御成には他の有力大名や公家を引き連れて行きました。何を話したのかわかりませんが時節柄、後継者問題が話題になったのは間違いないでしょう。秀次の立場から考えると秀吉の動きはこの上なく不愉快でしょう。文禄3年(1594)8月に秀吉の聚楽第御成が10月に延期されます。理由はわかりませんが二人の関係の悪化の一途がわかります。
○切腹までの経緯
秀次の右筆である駒井重勝は日記(『駒井日記』と呼ばれているもの)の中で文禄4年(1595)4月10日の記事に前後の記事と関係なく突然、聚楽第の広さを記します。秀次の側近として2人の関係は修復不可能なほど悪化し、秀次が悲劇的な最後を向かえ、聚楽第が壊されることを予測していたとも考えられます。
4月16日に療養中の秀次の弟・秀保が領国の大和十津川で亡くなります。『駒井日記』では死因は疱瘡による病死とあります。若年での病死は当時としては珍しいことではありませんが、死因は自殺、他殺という説もあることから、正確な死因は不明です。嫡男がいない秀保の死去により大和豊臣家(秀吉の弟の秀長が祖)は断絶しました。家を存続させるならば秀次の息をこの家の養子にして継がせるという方法がありました。
7月3日に秀吉の奉行衆の石田三成、増田長盛、前田玄以、富田知信(『甫庵太閤記』では宮部継潤を加える)が聚楽第に秀次に「謀反の疑いがある」と糾弾してきます。彼らの求めに応じて謀反をする意思はないという七枚継ぐの誓紙を彼は提出しました。
それで疑いは晴れず、8日には秀吉は秀次の元へ使者を遣わし、伏見へ来るよう命じます。『甫庵太閤記』ではこの使者を山内一豊、堀尾吉晴、中村一氏、宮部継潤、前田玄以としています。彼にとって山内、堀尾、中村は近江八幡城主時代に秀吉から補佐役として派遣された附家老、宮部は元養父(人質という意味合いで彼は宮部家へ養子に出されていました)です。京都の行政を担う京都所司代の前田は、京都の聚楽第に住む彼とは役目柄会う機会が多かった人物でした。彼が疑いもなく伏見へ来るため、彼と関係が深い人物を使者に選んだとも考えられます。
伏見に到着した彼は伏見にある彼の屋敷ではなく秀吉の命で木下吉隆の屋敷に行き、秀吉との面会を待ちます。しかし、秀吉は彼に会うことなく、彼を高野山へ追放するよう命じました。7月15日に秀吉からの切腹命令が伝えられ、彼はその日のうちに切腹しました。
○高野山で切腹させたのはなぜ?
秀次を高野山に流した理由は昔の政治犯は大寺院に流されたからです。「領地と官職を奪い政治の表舞台から退場させる代償として、世俗の権力から離れた大寺院に蟄居させることで命だけは助ける」という不文律が日本の伝統としてありました。
例えば、関ヶ原の戦いで西軍に属した真田昌幸は徳川家康により高野山の寺領がある九度山に流され生涯を終えました。高野山へ流された秀次は世俗の地位を全てを失いますが高野山で残りの人生をおくるはずでした。織田信長の孫である三法師こと織田秀信もそうでした。関ヶ原で西軍に属し、高野山に流されて天寿を全うし生涯を終えています。
わざわざ高野山に流した後に切腹させたのは、この間に秀吉の気が変わったとしか言いようがありません。生かしておけば秀吉が亡き後、秀頼の反対勢力である何者か(秀吉は生前最も徳川家康を警戒していた)が彼を担ぎ出すのではないかという不安に捉われたのかもしれません。
○秀吉、秀次両者の行動から謀反は事実ではない
秀吉側、秀次側の行動から謀反が事実とは思えません。仮に彼の謀反が事実という前提で、秀吉からの糾弾の使者が彼と面会した7月3日から、彼が秀吉の命令で伏見へ行った8日までの両者の行動を考えてみます。
まず、秀吉側から考えると石田らを聚楽第へ向かわせ、謀反の疑いで秀次を糾弾した7月3日以前に彼の謀反の企てを察知していることになります。この時点で送るべきは彼を糾弾する使者ではなく、謀反を未然に防ぐため首謀者である秀次らを捕らえる者です。謀反を企てている相手が主からの謀反を糾弾する使者に素直に会うとは考えにくです。
謀反を企てている相手へ謀反を糾弾する使者は、謀反を起こす決意表明のために殺される危険性があります。そのような危険な使者に石田ら重臣を選ばないはずです。豊臣政権の行政を担う石田と増田らを一度に失うことは政権にとって大きな損失です。そのリスクを背負ってまで、秀吉が彼らを糾弾の使者に選んだとは考えられません。彼が謀反を起こすと考えているならば、送るべきは糾弾のための使者ではなく彼を捕える者です。抵抗されることも予想されるため兵を伴うでしょう。
彼が蜂起する前に聚楽第がある京都周辺の要所に兵を置き、謀反軍を討伐するための兵を集めるなど軍事的な動きや諸大名に彼の謀反に加担しないようにするための説得工作など彼の謀反に対し何らかの手段を講じるはずです。しかし、この期間は特に目立った動きはなく、これから謀反が起こるかもしれないという緊迫感が全く感じられません。
彼に謀反の企てがないと秀吉側が考えるからこそ、石田ら重臣を糾弾の使者に選び、謀反への備えも行わなかったと推測できます。
一方、秀次側から考えると、7月3日に秀吉からの糾弾の使者が来た時点で彼の謀反の企てが秀吉側に露見していることがわかります。企てが露見した以上、決起するか秀吉に処断されるしか選択肢はないです。彼が謀反を起こすならば、彼が取るべき行動は秀吉が彼の居城である聚楽第へ討伐の兵を差し向けて来る前に、謀反に必要な武器や兵力を準備し、謀反に加担する大名達へ決起を促す使者を送るなど謀反への蜂起する準備です。しかし、そのような行動を取った痕跡がないです。
まして、謀反の企てが秀吉側に露見している状況にも関わらず、彼が秀吉の命令に応じて、伏見の秀吉の下へ弁明に行けば自ら捕まりに行くようなものです。身内とはいえ謀反を企てている彼を秀吉が許すはずはなく、彼が聚楽第に生きて帰ってこられないことは容易に予想できます。彼の側近が命を賭けてでも伏見行きを止めるはずです。彼が謀反を起こすつもりなら、伏見への出頭命令に来た使者を捕えるか命を奪い、伏見へ秀吉と一戦交えるだけの兵を率いて行くか、命令を無視して聚楽第で決起するはずです。
彼は謀反を起こす意思がないからこそ秀吉と直接話し合えば身の覚えがない謀反容疑が晴れると考え、秀吉の命に応じて伏見へ向かい、側近も伏見行きを止めなかったと推測できます。
7月3日から彼が秀吉の命令で伏見へ行った8日までの期間、両者の行動から彼の謀反が事実とは考えられません。
秀次や側近達は、高野山や預け先の大名の屋敷での自害です。切腹は死刑の中でも軽い部類に入り、「武士としての体面を保ち、自らの罪を自らの手で裁いた」という自裁の意味合いがあります。謀反が事実なら関ヶ原の戦いで敗れた石田らが市中引き回しの後に六条河原で群集の前で処刑されたように理由を明らかにし、公衆の面前で斬首か磔になるはずです。
『お湯殿の上の日記』の同年7月16日の項によれば謀反の疑いが無実とわかり、切腹となったとあります。謀反の疑いをかけられたことが彼の罪という解釈です。しかし、その容疑も秀吉側によるものと考えられます。彼の謀反容疑は冤罪の可能性が極めて高いです。そもそも、謀反容疑をかけられたことが切腹に値する罪とは思えません。
○狂気の処分
秀次とその男子を処刑しただけの処分なら「戦国時代によくある御家騒動の悲劇の1つ」と考えられ、秀吉の評価を大きく下げることはなかったでしょう。むしろ、「秀吉は自身の死後に起こるであろう秀次と秀頼の後継者争いを防ぐため、苦渋の判断を下した」と好意的に評価する人もいたかもしれません。
しかし、彼の妻子ら30数名(本によって人数は多少違います)を彼の首と対面後に処刑し、死体を塚に埋めさせた方法は異常です。通常、切腹した者の首を晒すことはしません。彼らが秀次の無実を訴えるのは目に見えているため口封じと無実を訴える者への見せしめ、朝鮮出兵などで秀吉に不満を持つ大名への脅しなど様々な意味があったと考えられますが、残酷すぎます。
さらに彼が住んでいた聚楽第と彼が城主だった近江八幡城(当時の城主は京極高次。この事件後に京極は加増される形で大津へ移ります)を破壊する行為は、秀次が生きていた証を地上から全て消したいとしか思えません。秀次事件での狂気の処分により秀吉は評価を大きく下げました。
ちなみに秀次事件後に豊臣家の血を引く男子は秀吉と秀頼のみです。結果的には秀頼は無事に成人しましたが、秀頼が成人せずに亡くなった場合は秀吉以外の豊臣の血を引く男子が絶えてしまいます。冷静な判断ができる状態なら、このような処分は行わなかったはずです。
○連座した人々
彼の側近は自害、他の家臣は側室の親族でなければ改易です。『太閤さま軍記のうち』によると彼の補佐役と思われる木村常陸介のみが斬首です。木村のみ斬首の理由はわかりませんが『太閤さま軍記のうち』では彼だけが悪人として描かれています。その他の者は改易の上、他家に預けられた後に自害です。秀次の側近達が誰であるのかはこの時に処分された人からわかります。家臣以外の側室の親族では最上義光が謹慎、伊丹正親が追放です。
意外なところでは秀次重臣である粟野木工頭が元は伊達家に仕えていたことから「伊達政宗が粟野を通じて彼に通じた」疑いをかけられ、市中には娘が秀次の側室である最上と共に謀反を起こすという噂が流れました。
伊達は秀吉により没収された旧領大崎・葛西で起こった一揆を扇動した疑いがあり、秀吉にとって要注意人物でした。秀吉は秀次事件を利用し、秀次との関係から伊達と最上を取り潰し不安定な東北の問題までも解決しようと企てたようです。伊達は国許から急遽伏見へ向かい、秀吉と対面し許されました。
秀次が秀吉の養子となり関白職を継ぎ、秀頼が生まれるまでは彼が豊臣家の実質的な後継者と考えられていただけに、諸大名が彼と交誼を持つのは当然でした。そのことを秀吉が「秀次と通じていた」と考え処罰できるなら、ほとんどの大名を処罰できます。
細川忠興は娘が秀次重臣の前野景定に嫁ぎ、『新訂寛政重修諸家譜』によると秀次から黄金百枚を賜ったことで嫌疑がかけられ、「黄金は借りた」と弁明し、徳川家康から金を借りて返済し、疑いを晴らしました。
連歌師の里村紹巴は讒言により三井寺で蟄居、秀次に仕える医師・曲直瀬玄朔(まなせげんさく)は追放です。
彼、もしくは彼の側近が謀反を企んでいたと仮定するなら、それなりの人数の大名が謀議に加担していたはずでしょう。改易された大名はいずれも彼の周りの大名が中心です。異常人格を理由にする割には連座した人物が多く、謀反にしては少なすぎるという印象を持ちます。彼の家臣達までも一掃したのでしょう。
○なぜか事件直後に加増された人達
秀次の切腹当日に秀次が近江八幡城主時代の附家老だった山内一豊は8千石、中村一氏は5千石加増され、石田三成らと謀反の疑いがあると秀次に糾弾した使者の富田一白は加増されて伊勢安濃津城5万石(2万石を息子に分地)になりました。
事件で重要な役割を果たした石田は加増されて近江佐和山19万4千石になりました。加増前の正確な俸禄には諸説ありますが小和田哲男氏の『石田三成』(PHP新書)に基づけば、事件後に9万4千石加増です。石田と同じ近江出身で石田と通じていたのではないかと考えられている田中吉政は翌月に3万石を加増(『寛政重修諸家譜』の田中吉政の項では秀吉の直轄地3万石を預けられたとあります)されています。
この時期に事件に関わった大名の加増は事件での貢献によるものと推測できます。
○実は戦乱の危険性をはらんでいた
大勢力の秀吉の前には適わず、やむなく豊臣家に随っている大名も多かったです。「天下統一で長年続いた戦乱の時代が終わりようやく平和な時代が来る」という期待感の中での朝鮮への戦争は政権への失望感を抱かせました。
戦争と数々の普請で過分の負担を強いられた諸大名は領民に重税を課さざるを得ず、領内は疲弊し政権の求心力が低下し、不満が高まったことが秀吉亡き後に政権を失った原因です。
伊達政宗など彼と深い関わりのあったと秀吉が考える大名への対処を誤り、彼らが国許で蜂起し、他の豊臣家へ不満を持つ大名も呼応すれば、戦乱の時代に逆戻りする可能性も考えられます。
◆首謀者は?
○石田三成達?
『甫庵太閤記』では殺生関白説を採りつつも、秀吉の奉行衆石田三成と増田長盛が秀吉に讒言したとあるように当時から彼らが首謀者と考えられていました。「秀次が後継者になれば秀吉の側近である彼らは失脚するから首謀者になった」と考えもあります。しかし、一時的に失脚する可能性はありますが、政権の実務を担う彼らなしでの政権運営は困難で、復帰するでしょう。
また、江戸時代では関ヶ原の戦いの勝者の徳川家康の正当性を強調するため、敗者である石田は実情以上に悪く描かれます。
江戸時代の「太閤記ブーム」の影響で主人公である豊臣秀吉を悪者扱いにできない事情から、物語上の構成上原因を石田達に押し付け、彼らが豊臣家滅亡の原因を作ったと考えられるようになりました。彼らが台頭してきた時期と秀吉の晩年が重なり「秀吉の人柄が変わった」とは知らない(もしくは信じたくない)当時の人々は秀吉の命令を執行する立場の石田三成が首謀者だと誤解していた可能性もあります。
秀頼生母の淀殿は石田ら官僚達の出身地の北近江の領主だった浅井長政の娘です。彼らは淀殿を拠り所にして派閥を形成しているため、秀頼が豊臣家を継ぐことに異存はないはずです。信長死後の織田家の後継者争いを見てきた彼らは後継者争いが政権存続の大きなマイナスになることは承知のはずで、何らかの手段を用いて後継者問題に決着をつける考えはあったでしょう。しかし、秀吉の強引な方法に心の底ではどう考えていたのかわかりません。
朝鮮出兵と数々の普請で多大な負担を強いられ豊臣家への不満が高まる中、追い詰められた秀次が本当に謀反を起こせば呼応する大名もいないとは言い切れません。そうなると政権にとって好ましくないです。石田らが秀吉に反対すれば、冷静な判断が下せない秀吉により、彼らが処罰することも予想されるため職務として執行しただけです。
秀次が切腹する3日前の7月12日に石田と増田は「秀頼に二心なく忠節を誓う」という起請文を提出します。彼らが提出することで諸大名の自発的な提出を促すためでしょうが、諸大名より先に出さなければならない何らかの事情が秀吉と彼らの間にあったようです。実の甥でも必要がなくなれば排除する秀吉の姿勢に、側近の彼らですら身の危険を感じたかもしれません
○やはり秀吉が首謀者
秀吉の意向がなければ、彼の子供や側室への狂気の処分を下すことはなかったです。
特に事件当時の京極高次が城主である近江八幡城を秀次が城主だったという理由で石田らが城を破却するように秀吉に提案するとは考えられません。京極は近江八幡から大津へ加増される形で移りました。京都に聚楽第のような拠点が必要だったのか、事件の三年後には京都に京都新城を造営しています。財政を担う石田らが首謀者なら無駄なことをするとは思えません。
あまり触れられませんが、当時の感覚では高齢である秀吉はこの頃はすでに病にあったと考えられています。秀頼を後継者に指名しても、秀次が生きていれば他の者が秀吉死後に無視して幼少の秀頼ではなく彼を後継者にすることも想像できます。
遺言を残しても守られる保証がないことは戦国時代を生き抜いた秀吉がよく知っていたはずです。秀頼を後継者に据えるには秀頼以外の後継者候補を消してしまうことが最も確実な方法です。
そう考えると秀次事件の三ヶ月前に急死を遂げた秀保は他殺の可能性も否定できません。秀次事件で彼とその男子全員を排除できても、秀吉死後に秀保が存命ならば、秀保が秀頼と後継者の座を争うことが予測できます。同様の理由で秀保亡き後、大和豊臣家を秀次の息に継がせず、断絶させたと推測できます。秀保が亡くなった時点で秀次排除を決めていたとも推測できます。
◆秀次事件のその後の影響
○秀吉没後体制の確立
秀吉が関白職に就いたのは政権の正当性を朝廷に求めたからです。織田信長の孫・三法師(成人後は秀信)の後見人という名目で織田家の勢力を継いだため、彼が成人すれば彼に領地を返還する義務が生じます。秀吉はその問題を解消するため人臣最高位(天皇・皇族を除けばもっとも高い位)の関白に就任しました。全ての大名は関白の秀吉より自動的に地位は低くなり、諸大名が関白である秀吉の命に従うのは当然という論理になります。
天正16年(1588)の聚楽第行幸では諸大名に「朝廷へ忠誠を誓わせる」誓紙を出させることで間接的に「関白である秀吉に忠誠を誓わせる」という方法を使いました。秀次事件の直後には秀吉は直接、豊臣家と秀頼に忠誠を誓うという起請文を書かせます。秀吉は朝廷に触れを出すなど秀吉と朝廷との力関係が逆転し、豊臣家の力のみで日本を治められるようになりました。
秀次事件直後に秀吉が諸大名に秀頼に忠誠を誓わせたことで、秀吉は正式に秀頼が後継者であることを明確にしました。このことで世間はこの事件の本当の理由を悟ったはずです。
秀吉は政権の有力大名の徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜田秀家(秀吉の養女が妻)、小早川隆景(秀吉が亡くなる一年前の慶長2年に亡くなる)らの合議で政権を運営するようになります。前田と宇喜田が秀頼の傅(もり)役を務め、坂東は上杉と徳川、坂西は毛利、小早川が宰領し、石田ら奉行衆が実務を行う分権体制を作り上げ、秀頼が成人するまでの体制を整えました。事件の3年後の慶長3年(1598)に秀吉は亡くなります。
○関ヶ原の戦いへの意外な影響
あまり触れられませんが秀次事件の処分は関ヶ原の戦いの東軍勝利に少なからず影響を与えています。事件で処罰された多くの大名が関ヶ原の戦いで東軍に属しています。
秀吉から秀次事件を利用する形で謀反の疑いをかけられ窮地に追い込まれた東北の伊達政宗と最上義光は、事件での豊臣家や石田への恨みという私情ではなく、家康有利という冷静な情勢分析に基づく判断かもしれませんが、東軍に加わります。彼らが東軍に加わり、江戸へ攻め込む動きを見せた西軍の上杉景勝を抑えたことで、家康は本拠地の江戸を離れることができ、上方へ軍を進め関ヶ原で勝利することができたのです。
また、秀次事件で家康に助けられた細川忠興は石田への恨みからか、武断派に属し慶長4年(1599)には武断派の加藤清正らと共に石田三成を襲おうとしました。関ヶ原の戦い直前の石田と家康との対立では秀次事件で受けた家康への恩から東軍に味方します。
石田は大坂城下にいる諸大名の妻子を人質にすることで味方にする策を使いますが、忠興の妻ガラシャは人質になることを拒み自害したことで諸大名の石田への不信感が増し、東軍に味方するものが増え、策は逆効果になりました。忠興とガラシャの行動が東軍勝利の一因となりました。
近江八幡城主の京極高次は前城主が秀次だったという彼とは全く関わりのない理由で、城を壊され加増される形で大津に移ります。関ヶ原の戦いでは京極は東軍に属し大津城で籠城し、大軍の西軍を前に降伏しました。しかし、降伏は関ヶ原の戦いの前日です。京極が大津で敵をくぎ付けにしたことで大津城攻めの軍勢は翌日の関ヶ原での戦いに参戦できませんでした。大津籠城も東軍勝利の大きな一因です。
秀次事件で被害を受けた大名達は、その恨みを関ヶ原の戦いで晴らしたとも考えられます。
秀次事件により秀吉政権への不信感が増大しました。特に狂気の処分により秀吉の評価は大きく下がりました。また、この事件で嫌疑を受けた大名の多くが東軍に属したことで関ヶ原の戦いでの西軍敗北につながりました。
当時の人々は秀吉からにらまれ、連座させられないように秀次を弁護するどころか関わった記録すら削除しました。そのため、秀次事件は秀次を弁護する史料がないまま、秀吉側の言い分だけによる冤罪事件だと思います。
秀次が秀吉の考えをくみ取り、自発的に関白職を辞め、秀頼に従うという起請文を出せば助かったという考え方もあるでしょうが、晩年の秀吉がそれを信じる保証はなく、秀吉が彼の命を奪う前に亡くなる以外、彼が助かる道はなかったと考えられます。
結局、多くの人が考えたように「我が子秀頼可愛さに邪魔になった秀次を排除した」というのが事件の根底だと考えます。
6、秀次公の「殺生関白」説を検証する
「明智光秀がなぜ本能寺の変を起こしたか」や忠臣蔵の発端となった「浅野内匠頭がなぜ殿中で吉良上野介を斬りつけたか」など未だに真実がわからない謎について、いつの間にか「何となくそうであろう」と世間が納得できる理由で説明されているものもあります。
特に小説やドラマなどで理由がわからない事件を扱う場合は、理由を描かなければ話が進まなくなります。様々な推測により説明しています。
豊臣秀次の処刑の本当の理由は未だにわからず、処刑した側の豊臣秀吉の人気が江戸時代から現在まで高く、秀次に非があると考え、導き出した答えが「殺生関白」という秀次の人格性に求め、根拠として具体的な悪行まで形成されました。
作為的に作られた人格が世間に広く知られ、茶の湯や連歌、能を嗜み、数々の文化貢献をした彼の姿を抹消し「秀吉の甥だけで努力もせずに高位に就いた人物」と定義付けされました。
ここではどうして豊臣秀次が殺生関白と呼ばれるようになったのか、本当にそのような悪行があったのかを検証します。
◆殺生関白の成立
殺生関白が形成された過程を考えます。
○太田牛一の『太閤さま軍記のうち』
秀次を最初に殺生関白と書いたのは太田牛一が書いた秀吉の一代記『太閤軍記』からです。この本は現存せず、貴人の頼みで二巻のうち一巻を清書した『太閤さま軍記のうち』のみが残っています。秀吉が亡くなった直後から書き始め、慶長10年(1605)頃には成立したと考えられています。
この本は織田信長と秀吉に滅ぼされた秀次や三好、松永などの話の最後に必ず「天道怖ろしき事」と締めくくります。「信長と秀吉に天道があるから滅ぼされた」という勝者の論理で構成されています。天道は当時普及している思想です。「天道」を他の言葉で置き換えれば「運命」や「時流」などに近いニュアンスです。成立当時は関ヶ原の戦いが終わり徳川幕府は成立しましたが、大坂の豊臣家は存続しています。天道を何度も使い強調することで「豊臣に天道がある」つまり、「豊臣の天下が再びやってくる」ことを主張したかったと推測できます。
『太閤さま軍記のうち』が成立推測時期の慶長10年時点では家康は64歳です。当時の感覚ではいつ亡くなってもおかしくない年齢でした。家康は征夷大将軍の位を秀忠に譲っていますが、実質的なトップは家康です。家康が亡くなれば徳川に従う豊臣恩顧の大名が豊臣秀頼の下へ戻り、豊臣家の天下を取り戻すと希望を持ち続ける人も多かったです。しかし、家康は豊臣家を滅ぼした翌年の元和2年(1616)に75歳で亡くなります。
織田信長に仕えていた太田が書いた『信長公記(しんちょうこうき)』は正確な記述で一級史料として専門家に扱われています。しかし、『太閤さま軍記のうち』の序文に後陽成天皇と秀吉を称えていることから関ヶ原の戦い以降も仕えていた豊臣家の命で書いたのではないかと思います。
豊臣家に仕え、豊臣家の復権を願っていたであろう太田は当時の多くの人が考えた「秀吉が我が子可愛さに無実の罪で秀次を切腹させた」という豊臣家にとって不利なことを記すことは執筆の意図に反します。そのため史実を曲げて非は秀次にあるとし、「秀次が殺生関白という異常人格者だから処刑された」と創作、根拠になる数々の悪行を挙げたのではないかと思います。
○小瀬甫庵(おぜほあん)の『甫庵太閤記』
「秀次=殺生関白」を決定的にしたのは寛永2年(1625)に執筆が開始された小瀬甫庵(おぜほあん)の『甫庵太閤記』です。小瀬は史実に基づいた『太閤軍記』の太田の記述を「愚にして直なる故(正直すぎてつまらない)」と批判しています。『太閤軍記』は知名度が低く、貴人の頼みで清書し贈った『太閤さま軍記のうち』が現存している程度です。
『甫庵太閤記』は江戸時代に何度か重版された人気作です。『太閤軍記』など他の史料と聞書きによる内容を下地にし、作品としての面白さを増すための脚色をしました。彼の『信長記』と『太閤記』は史書ではなく歴史を題材にした読み物と最近では考えられています。
また、「評曰(ひょうしていわく)」など作中に儒学思想を基にした小瀬の評論が多いのが特徴です。秀吉の一代記という体裁をとりつつ「秀吉の一代記を題材に儒学思想を基にした評論を展開する」ことが本当の目的のようです。脚色をして面白くしたのは自著が世間に広く読めれることで持論を世間に広く知られるためだと思います。
そのため、財政論を語った7巻では普請狂の秀吉を暗に秦の始皇帝(中国を初めて統一した人物。万里の長城を築いたことで有名。豊臣家同様二代で滅びた)に例え、数々の城の普請と大仏建立や金配り、朝鮮侵攻をするより民のために金銀を使うべきだと手厳しく批判しています。
「秀次=殺生関白」を広める原因になった『甫庵太閤記』でありながら、8巻では秀次が家来に知行地を与えるため彼の領国尾張での検地では人を上手く使い、家来から不平の声が出ないようにしたことを褒めています。史料や聞き書きの寄せ集めに対して脚色と評論を加えているため、同一人物への評価が巻ごとに異なるなど全体的な内容に一貫性を欠いています。
秀次滅亡を描いた17巻「前関白秀次公之事」の悪行の内容が「秀次の家臣が書いた話だから殺生関白は事実だろう」と考えられています。しかし、17巻の内容を読んでみると『太閤さま軍記のうち』を下地にいます。秀次の家臣でありながら事件の実情は『太閤軍記』に頼らざるを得なかったようです。事件当時は秀次の領地である尾張にいたのかもしれません。
また、高野山へ流される秀次一行の身を案じた人達による見舞いの飛脚が次々と来たため、秀次は家臣を通じて高野山への見舞いを断ったという記述が加わります。殺生関白が事実ではないからこそ、秀次の身を案じる人がいるのです。彼を異常人格者として描きたいならば、この記述は本来不要なはずです。
悪行に関する記述は『太閤さま軍記のうち』との違いは比叡山での狩に木村常陸介(当時の木村は朝鮮で従軍中)が同道していたことや『太閤さま軍記のうち』で北野神社に参る途中座頭を斬り、座頭が彼に言った悪口の具体的な内容が加わります。
『甫庵太閤記』は22巻までありますが本編は16巻で終わり、17巻以降は秀次事件、武将列伝、儒学思想、主家滅亡後、主家復興のために奔走し亡くなった山中鹿介の活躍、秀吉の形見分けの品など本編と関係のない話が続きます。17巻は省いても進行に支障はありませんが、因果応報のわかりやすい例なので省かなかっただけなのかもしれません。
評論が目的の『甫庵太閤記』は江戸時代に何度も重版された人気作です。重版される過程で小瀬の評論は無視され、削除されたようです。『甫庵太閤記』は太閤記ブームの一端を担い太閤記は芝居や歌舞伎の出し物として演じられます。江戸中期には『絵本太閤記』が出版され庶民にも広く読まれます。太閤記ブームで主人公の秀吉が善という位置づけになったため「豊臣秀次=殺生関白」が事実のように信じられていました。
◆殺生関白の悪行の検証
ここでは『太閤さま軍記のうち』を中心に殺生関白の悪行を検証します。
○有名な『殺生関白』の落首の真偽
『太閤さま軍記のうち』によると文禄2年(1593)1月に正親町上皇が崩御し、それからしばらくしてから鹿狩りをしたため
「院の御所にたむけのための狩なればこれをせつせう関白(関白の別称・摂政と殺生をかけてある)といふ」
という落首が詠まれ、当時の人は秀次のことを殺生関白と呼んでいたとしています。
しかし、殺生関白の根拠として有名なこの落首は、本当に当時詠まれたものか疑問を感じました。落首の辞典である『落首辞典』で調べると出典は『太閤さま軍記のうち』です。殺生関白の根拠として有名な落首ですが、当時詠まれたもののなら出典は『太閤さま軍記のうち』ではなく、当時の日記になるはずです。落首全文までは記録に残らなくとも、当時の日記に○月□日に「秀次を批判する落首が詠まれた」という記録が残るはずです。
自作の落首を「当時の人は秀次を殺生関白と呼んでいた」という根拠にするべく、当時のものと記載した結果だと推測します。
○比叡山での狩り
『太閤さま軍記のうち』ではの6月8日に女人禁制の比叡山に女人を引き連れ、殺生禁断の地で狩を行い、止めようとした僧たちの塩酢の器の中に獲った鹿肉を入れたとあります。何年の出来事かは記載されていませんが、前後の流れから文禄2年(1593)の出来事と考えられています。
これが事実なら比叡山の寺院にとって大事件です。当時の日記や比叡山の寺院の記録に残るはずです。しかも、この一件に関して比叡山の寺院の記録などが引用された例はないです。また、「秀次が鹿肉を入れたとされる塩酢の器」など物的証拠が現存していているという話を聞いたことはありません。
山科言経の日記『言経卿記』では同日に「殿下へ参了、山里へ渡御了、サウメン・吸物・夕?□(該当する漢字がPCにはないです)御相伴了、タン一檢校同参了、平家五六句程語了、申下刻ニ退出了」とあります。山科(招かれたのが山科1人だけかは文面だけではわかりません)を聚楽第の山里茶亭(山里町という山里茶亭を由来とする町名が聚楽第本丸跡地にあります)へ招き、夕食で持て成した後に山科と共にタン一検校が語る平家物語を聞きました。この日の彼がいた場所は比叡山ではなく聚楽第ということがわかります。
このことから考えると事実と認定することは不可能です。
○千人斬り
秀次が文禄4年(1595)6月15日に北野神社へ参拝に向かう途中に座頭を殺したなど千人斬りと称して無実の人を殺したとあります。辻斬りは悪人の典型的な悪行の一つです。
江戸時代初期まで辻斬りは横行していました。秀次は疋田新陰流の祖である疋田豊五郎(文五郎とも)と富田流の祖の富田景政から指南を受けたなど兵法に関心を持っていました。そこから思いついた悪評創作話なのではないかと思います。
また、天正14年(1588)に宇喜田多次郎九朗が大坂、文禄2年(1593)に秀吉の家臣・津田信任(のぶとう)が山科で千人斬りの犯人として捕らえられた記録があり(信憑性に疑問あり)、殺生関白が形成の中で当時の事件の犯人がいつの間にか秀次にされた可能性があります。
個人的な意見ですが「殺生関白」は「大岡政談」の真逆にあると感じます。「大岡政談」が町火消し創設など町奉行として江戸の町に多大な貢献をした南町奉行大岡忠相の功績を後世に伝えるため「名裁き」というわかりやすい話にし、一例を除き古今東西の名裁きを彼の裁きとしました。
一方、秀次を「殺生関白」とするため「弓と鉄砲の稽古で民衆を的にした」、「妊婦の腹を割いた」、「気に食わない料理人の腕を切り落とした」など古今東西の悪行が彼に押し付けられた感があります。
このような事件の真偽は当時の日記等を調べればすぐにわかります。『太閤さま軍記のうち』では「秀次と関係のない罪まで負わされた」とあり、暗に彼の無実を訴えています。
秀吉が秀次を切腹させたことを正当化するため、秀次が殺生関白という異常人格者と位置づけられました。彼の悪行を強調したいため、民衆を弓矢や鉄砲の的にするなど古今東西の知っている悪行を付け加えられたと思われます。
当時の人々は秀吉からにらまれ、連座させられないように彼に関わった証拠となる記録を削除し、江戸時代に入り「殺生関白説」の流布で、彼に関わったことは御家の恥になるとして、諸大名は徳川幕府に提出する家譜にすら彼との関わりを記載しなかったため彼の無実を証明する記録が消滅しました。
「殺生関白」が事実なら秀吉は高野山に追放することなく、理由を公にして洛中で磔にするなど処刑したはずです。
彼を弔うため母親の瑞竜院日秀が村雲の地に寺を建て、後陽成天皇から寺領千石と「瑞竜寺」という号を賜りました。
寛永2年(1625)には徳川家光の上洛を機に500石を寄進され、二条城の客殿を移築されました。同年に日秀が亡くなると幕府の命で摂家の娘が代々貫首(かんじゅ。住職のこと)を務める尼門跡寺院となり、瑞龍寺は村雲御所と呼ばれました。「殺生関白」が事実なら彼を弔う寺に天皇と幕府が手を差し伸べるはずがありません。
なお、寺は昭和38年(1963)に彼が城主だった近江八幡城址の八幡山に移りました。また、行者順慶は処刑された彼の妻子が埋められた塚に庵を構え彼らの菩提を弔います。順慶亡き後洪水で庵と塚は崩壊しますが高瀬川を掘削していた豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)が塚を見つけ慶長16年(1611)に瑞泉寺を建立しました。幕府に頼み大仏殿の遺材を寺に使っているため、幕府も彼を弔う寺を建てることは承知していたはずです。
彼の生前の姿を知っているからこそ順慶と角倉は彼を弔おうという気持ちが起こったと思います。特に角倉の弟は彼に仕えた医師です。弟から彼の実情を聞いていたからこそ、寺を建立しようという気持ちが起こったのでしょう。
「殺生関白」が疑いのない事実のように信じられてきましたが、戦後は秀吉を英雄視する風潮もなくなり、1970年代に入るとようやく彼を再評価する動きが生まれました。「殺生関白」という世間に定着した誤解が消える日も近いのではないかと思います。
「異説、豊臣秀次」にも「闇の系譜」という言葉を使っているが、近江国も産鉄地域(藤原秀郷の百足退治が有名=ムカデは産鉄の象徴)であるから、「もののけ姫」の舞台は近江ではないかとの論を寄せたことがある。しかし、ある人は岡山県地方か丹波地方ではないかという人もいる。断定できる資料はないが。ダイダラボッチは中部から関東・東北にかけての物語であり、それだけは混在している。その他の考証は小豪族などが割拠していることなどの状況を併せると中国地方という結論になるらしいのである。ちなみに「中国」という呼び名は「白村江」の戦いで唐から郭ムソウ将軍らの唐軍(=以後公家と称される)が進駐してきたところから「中国」といわれ、唐すなわち=藤(藤原)であり=桃(桃太郎)とされる所以である。
闇とは表の歴史には現れてこない歴史のことであり、その多くは当時の権力者によって削除されたり偽装(偽造)されたりした、タブーの歴史のことである。今でいえば同和問題である。「あの人は同和(地区)だ」ということはタブーとなっているように、たとえば、当時、豊臣秀吉は農民ではなく(農民に日吉丸という幼名があるはずないではないか)サンカ系の出身(秀吉の母なかは美濃の関の鍛冶の出身である。また同朋衆とか御伽衆といわれた人々が後年の秀吉の周りにはいた。鉢屋衆のアヤタチムネやアラバギ衆の曾呂利新左衛門とかである)であった。とか、世良田二郎三郎という人物(上州新田郡得川郷)が徳川家康であり、松平元康とは別人である。とか、ないとか。これは眉唾物だが家康の先祖が世良田村の徳阿弥という時宗聖であったことは間違いない。あるいは本能寺の変を演出したのは秀吉と家康であって、踊らされた光秀は山科で死なず家康に匿われて天海(日光東照宮にその証拠がある)となった。などと当時は知っていても?タブーとして言えなかった?(殺される)状況があったと考えられる。それを闇といい、いまそれらを表に出すことを生きがいにライフワークで取り組んでいる人もいる。現実の歴史観(歴史家・郷土史家といわれる人達)では、書物に書かれていることを根拠に論を張るから、それら闇の歴史は異端として切り捨てられることが多い。しかし、存外、文字として書かれる物は権力者の意向に沿ったものしか残らないものである。文字として残されていない伝承・伝説のなかにこそ歴史の真実がある場合が多い。そういう謎解きをしていくのも楽しいものである。本市の八幡堀再生については筑後の「柳川物語」を参考にしているが、柳川の城主は元は近江の田中吉政であり、豊臣秀次の家老として八幡城下町の建設にも活躍した人物である。関が原では、豊臣秀次の遺恨もあり反石田方として東軍に付き逃亡中の石田三成を捕縛したことでも有名である。なにか因縁めいたものを感じませんか。また(新聞で読んだ程度だが)最近発見された、大阪羽曳野市の庭鳥塚古墳に関係して思ったことだが、朝鮮南部の伽耶地域(日本の属領府の任那があったとされる)の問題もいまだ課題である。(=伽耶が日本の出先なのか、逆に伽耶の出先が日本なのかという問題)古墳では、まだ箸墓古墳が誰の墓なのかも分かっていない。いづれ古市古墳群や百舌鳥古墳群が調査されることによって明らかとなるであろうが、それまでは=歴史学で定着するまでは「闇」のなかで想像する以外にない。
私が、このような通常の歴史ではない「闇」とか「裏」とか言われる歴史に興味を持ったのは高校生時代に「八切止夫氏」の作品を読んでからである。まさに目から鱗というか、カルチャーショックというか、新鮮な驚きであった。いま、彼の書籍は古本屋にしかないが、幸いにも、HP(WEB)上に、掲載されているので、興味ある方は、是非ご覧ください。
そういった歴史の中で雑学として知っていて得する歴史の話を話題を変える意味でひとつしておきたい。皆さんは「竹取物語(かぐや姫)」の話はご存知であろうと思うが、その作者は誰なのか知っているだろうか。種を明かせば、作者は「紀 貫之(キノツラユキ)」である。紀貫之を知っている方も多いと思う。百人一首(古今和歌集や土佐日記で有名)に出てくる歌人である。竹取物語のなかで「倉持の君」で登場する人物は「藤原不比人」である。信じられない!と思う人もあろうが、それが今の時代の定説となっているのである。だから、闇(一般に知られていない歴史という意味で)の歴史はおもしろいのである。
こんなことを書き出したら、なんぼでも出てくる。現代に伝わる、節分に豆をまく習慣は、「追儺(ツイナ)の鬼」が原型であり豆は元は院内(インジ)打ちの石であった。とか、「おひな祭り」は「難除の流し雛」と白山の「おしらさま」信仰が混ざったものだとか、プラトンが言った幻の大陸アトランティスはアイスランドのことであったとか、山中鹿之助は戦場で人を殺さず「命の代金=手形」をとって遺族はそれを元手に酒造業の「鴻池」を起こしたとか、桃太郎の鬼退治に出てくる犬・雉・猿の人物は本当だったとか、世界遺産に登録された熊野三山は黄泉の国(出雲と同じ常世の国)として信仰対象であったが、古代からいろいろな雑学の歴史が聞ける場所である。たとえば三本足の烏(ヤタカラス=鴨武角命が八咫烏とされている。鴨=加茂は出雲族)は元は長脛彦(長髄彦=ナガスネヒコ=東北で荒吐族となのる(東日流外三郡誌)=このナガスネヒコはニニギとは別系統で天孫降臨をしたニゴハヤヒの系統=記紀神話ではこのニギハヤヒの系統(スサノオ・出雲系王国)が消されて、天照大神―ニニギーカムヤマトイワレヒコ(神武)系が主流となっている。記紀の編纂が命じられたのは天武天皇だから当然といえば当然なのだが。見落としそうだがニニギの天孫降臨には棚機姫・タナバタの話が付いている。それで記憶しているのだが、彼女らは侵略・征服者に身をささげた者達である。オトタチバナやコノハナサクヤも同じ)を裏切って神武側についた裏切り者のことであったが、戦国時代には雑賀衆の旗印(今はJリーグのシンボルとなっているが)に使われたとか。同じくこの神武が熊野に上陸したとき、神武側についた者で饒速日命(ニギハヤヒ)の系統で物部氏の祖となる高倉下命(タカクラジ)というのもいる。この高倉下命こそ熊野一党の開祖と云われている。また熊野には「徐福伝説」があったり、鎌倉時代の文覚上人のこと、あるいは踊り念仏で有名な一遍上人と熊野三山の山伏や鉱山師との関わりの話も登場する=これは賎民史観というべきか。あるいは壬辰倭乱の朝鮮における降倭である「沙也可(サヤカ)」とは、その雑賀(サイカ)衆のことである。このことは、まだ一説にすぎないが、そういう類のマンガ本が日本でも韓国でも読まれている。
などなど、天照大神から神武時代までの神話や俗説、伝説取り混ぜて、いろんな雑学の知識を得るには、たいへん為に成ることが多い。そのためには仏教や神道などの基礎知識は必須であるが…新羅は白木で高句麗はこま(犬)、拝火教は赤というのも面白い。
なお、「一向衆」のことではこう考える、一遍上人の『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』に多くの非人、乞食とともに描かれているのが、尾張国甚目寺であり、今でも当時の面影を多く残しているそうです。(八切氏はこれを原住民系と呼ぶ。)この『一遍聖絵』にたくさん描かれている奇妙な非人・乞食についての考察は、網野善彦著『日本の歴史をよみなおす』(築摩書房 1991年刊)1100円がおもしろく、お奨めの一冊です。また、海外の話でいえば、日本では呂宋(ルソン)といわれた「フィリピン」は、当時イスパニア(スペイン)の国王フィリペ2世の島という意味で名付けられたこととか、「ブラジル」という意味は「赤い実」ということ、あるいは同じブラジルのことでブラジルでのキリスト教は「イエスズ会」(=そういえば日本にも布教にきたあのフランシスコ・ザビエルはイエスズ会である)が布教の中心であったとか、いろいろと興味ある話もありますが、そういった雑学は、また別の機会に述べたいと思う。話がいろいろ飛んで長くなったので、ここらで終わりたい。多くのことを一度に書きすぎたように思う。焦点が何か分からなくなった。これでは著述業は失格だろうが、これが私流だと思っていてください。「人類の最高の学問は歴史学」・・・誰が言った言葉か忘れたが、「人類(ホモサピエンス)にとって、最も高度な学問は何か。ということをある学者が研究した。結論は歴史学であった。歴史を学ぶ者には優れた知性と高い好奇心、つまり恵まれた頭脳が要求される」そうである。ともあれ、こうした雑学は、好奇心がなければ身に付かない。残念なことには、そうした雑学を披露する職場環境なり、家庭・地域環境にないということ、いいかえれば、私の周辺には、そうした雑学(雑学はなにも歴史だけではない。台風とハリケーンは同じもの=日付変更線で呼び名が違うだけなんていうものも雑学のうちだよ)に関心をもち、議論(話し相手にさえ)をする人がいないということである。残念である。
「異説」で、韓国の降倭の子孫が住む「沙也可の里」(友鹿洞ウロクトン)を少し紹介したが、2002年8月に私も訪問したことがある。(仲尾宏先生と「朝鮮通信使の足跡」を旅した時。)
「沙也可」についての歴史研究は、これからの日韓親善交流に、朝鮮通信使とあわせて、必要なツールとなろう。
説明文・・・・「沙也可の里」とは・・・(韓国の新聞記事から引用)韓国・慶尚北道は大邱(テグ)広域市郊外の友鹿洞(ウロクドン。旧名・慕夏洞)に降倭・沙也可を訪ねる日本人観光客が増えている。今から四〇〇年前、豊臣秀吉が三〇万の大軍を出兵し朝鮮半島を侵攻した。韓国でいう壬辰倭乱(イムジンウェラン)、日本でいわゆる文禄・慶長の役である。この時、鉄砲の技術を備えた若い軍事集団が朝鮮への侵攻を正道にあらずと拒否、朝鮮王朝側に降伏した。彼らは鉄砲製造の技術を敵方である朝鮮軍に伝え、降倭領将として朝鮮側とともに豊臣軍と戦った。そのリーダーが沙也可(一五七一〜一六四二)である。沙也可、時に二二歳。彼は朝鮮王朝の臣下としてその後もいく度か功労を立て、金海金氏の名字を受け、金忠善(キム・チュンソン)将軍として称えられた。友鹿里には沙也可一四代金在徳さんを頭とする沙也可の子孫およそ三〇〇人が住み、ひとつの村をなす。慕夏堂(沙也可の号)を奉安祭享する鹿洞(ノクドン)書院が朝鮮朝正祖一八年=一七九四年=創建され、今日に至っている。友鹿里と鹿洞書院に日本人観光客が来るようになったのは九〇年代に沙也可の物語が徐々に広まってから。「降倭」と紹介された当時の二文字が新鮮に映った。四〇〇年も昔の個性的な日本人の足跡をたどり友鹿里を訪ねる日本人観光客は増加をしている。
沙也可(金忠善)は、どんな人物?
壬辰倭乱で豊軍に反旗。 一五九二年四月、豊臣秀吉が朝鮮に侵攻した際、加藤清正軍の右先鋒として三〇〇〇人の兵を率いて同月十三日、釜山に上陸した。上陸のその日に直ちに略奪を禁じる軍令を下し、同二十日、反旗をひるがえして朝鮮軍に投降した。後の『慕夏堂記』には「釜山に上陸して殺戮を犯した」と記され、豊臣軍の侵攻を批判。「捨生取義」を叫んで礼と義の国・朝鮮に部下二四人ともに身を委ねた。三〇歳の時、晋州(チンジュ)牧使の娘を娶(めと)った。沙也可は火縄銃(鳥銃)の製造と火薬の製法に明るい雑賀衆と言われ、その出身は瀬戸内海とも九州ともいわれる。火薬の製法伝授と火縄銃の製造によって戦局を好転させる功を立て、宣祖から金海金氏・金忠善(日本名・沙也可)の賜姓賜名を受けた。沙也可の投降の背景には雑賀衆は鉄砲が上手く「陣借り」して戦をした傭兵集団であったため、「自分たちを必要とするところなら秀吉でも家康でもよく、日本でも朝鮮でもよかった。一族の活路を求めて居着いた」という見方をする人もいる。
沙也可は弱冠二二歳で壬辰乱に参戦、秀吉の二度目の侵攻・丁酉再乱に対抗して二六歳で再び参戦。北防一〇年の戦闘、李の反乱、丁卯胡乱、丙子胡乱に志願し戦ったので「三乱の功臣」と称えられる。七二歳で死没。望郷の七言絶句を残し、故郷を懐かしんだ。
友鹿洞のすぐ近くの「密陽市」と近江八幡市が、朝鮮通信使を通じて姉妹都市提携しており、なぜ「密陽市」と朝鮮通信使と「近江八幡市」なのかというと、密陽出身の義僧といわれた「松雲大師」(韓国では四溟大師=サンミョンテッサ)が、朝鮮通信使(最初は探賊使で来た)のきっかけをつくり、近江八幡市には、朝鮮通信使が通った街道「朝鮮人街道」が残されており、昼食休憩を八幡別院(本願寺派)で行なったという記録があることから、韓国・密陽市と近江八幡市は1994(平成6)年12月に姉妹都市提携を結んでいる。
なお「朝鮮通信使」や「松雲大師」のことは「仲尾宏先生(京都造形芸術大学)=滋賀県大津市のお住まい」の著作物を読むことをお勧めします。なんせ先生は第一人者だと私は思っています。こんなことを私は実際に目撃しました。仲尾先生と「朝鮮通信使の足跡」の旅で、韓国釜山から船で対馬に渡るときの船中で、韓国の学生グループ(もちろん私たちのグループではない)の一人が、先生に話しかけ、先生に対馬での講演(ゼミ)を依頼したのです。私はそのとき先生の横の座席でした。その夜、対馬で一泊したとき、夕食のあと、先生は、例の韓国学生グループが泊まっている旅館へ、出かけていかれましたので、ああ、講演にいったのだなあ、と思いましたが、そのとき、韓国の学生にも知られている高名な先生(こちらは友達みたいに親しくさせていただいていたので、)なのだと改めて認識した次第である。
いま私が述べた「竹取から〜サヤカ」のことを理解し話し相手になってくれる人は職場を見渡す限りいなかったし、どれだけの人がこのようなことに関心を抱いているだろうか疑問もある。同好の士も少ない。そのため、「近江八幡検定」を考えたのだが、まだあきらめきれずに、このようなことをしているのである。
回答にでてくる他の人物のうち、@の木村常陸介・重成親子は、豊臣秀次の家臣であり、常陸の介が秀次切腹に連座して死亡したことは、すでに述べたとおりである。木村重成は常陸の介の子供で、成長して豊臣秀頼に仕え、大阪夏の陣にて討ち死にをする。Aの羽柴秀勝 は 秀吉が長浜時代に産ませた秀勝(幼いころ病没)と その後、織田信長の四男を養子に貰い受け「秀勝」とした人物(この人も病没)と 秀次の実の弟で、「江」の二番目の夫である秀吉の養子となった小吉「秀勝」の3人がいる。秀次の弟の「秀勝」は朝鮮の役の時「巨済島」で病没している。その兄は秀次であるが実弟は「秀保」といい秀吉の弟の豊臣秀長の養子となったが、この人も不慮の事故死をしている。B木下秀俊は 木下家定(おねの兄)の5男として生まれたが、秀吉の養子となり豊臣秀俊となったが、秀頼が生まれたのちに、小早川家に養子に出され小早川秀秋と名乗った。関ヶ原の合戦では西軍から東軍に寝返ったとされる人物である。D千利休は云わずと知れた利休宗易であり、 お茶(千家)の家元の祖である。利休の子の道安や小庵宗淳(道安の子という説もある)のときは、一旦落ちぶれたが、孫の元伯宗旦(三代目)の息子の二男、一翁宗守(武者小路千家)、三男、江岑宗左(表千家)、四男、仙艘宗室(裏千家)が三家を立て徳川家に茶堂として召し抱えられて、利休の子孫に代々受け継がれ、現代の千家茶道につながっている。本流は三家であるが傍系はすこぶる多い。
【秀次の子孫】
●豊臣秀次の子孫が生き延びていたことを知っていますか。近江八幡市の洞覚院には秀次の娘「玉姫」の御廟所があります。あそらくそれは幼い時に亡くなったものでしょう。ちなみに、秀次には多くの側室と子どもがいましたが、秀次事件で、秀吉によってほとんどが処刑されてしまいます。そんな中で、秀次の正室一の台(菊亭晴季の娘、秀次事件で処刑)が生んだ娘だけが生き延びていました。彼女(隆清院=なお又は清子ともいう)は、真田信繁、通称真田幸村に側室として嫁ぎました。娘、息子を一人ずつ授かり、大坂の陣で信繁(幸村)が討ち死にしてからも、秀次の母(とも)を頼って、瑞龍寺に身を寄せたりしながら、逃げ延びることができたようです。その隆清院の娘、お田(おたあさま、御田姫・顕性院)は、大坂の陣のあと徳川方に捕まりますが、江戸の大奥で3年間働くという比較的軽い処分で許されました。大奥といえば、「お江」の居場所です。その江戸城に「大奥」を作り「お江」と対立した人物=春日局がいます。春日局は名前を「お福」といい、明智光秀の家老であった斉藤内蔵助利三の娘(母は明智光秀の妹)であります。お福の夫は稲葉一徹の子の稲葉正成であり、関ヶ原合戦で小早川秀秋を東軍に寝返らせる役割を担った家老でもあります。
余談だが、本能寺の変のきっかけになったとも伝えられる料理「安土饗応(きょうおう)膳」が近江八幡国民休暇村宮ヶ浜で再現された。本料理は『続群書類従』所収の「天正十年安土御献立」をもとに再現したもので、天正10年(1582)5月15日、織田信長が安土城に徳川 家康・穴山梅雪を招待したとき、もてなしたとされる料理である。家康を接待するため、光秀に饗応役を命じたこと、そして途中で饗応役を解任したことが本能寺の変につながったとされている歴史的に重要な料理である。ところで、山崎の合戦で敗れた明智光秀は山科小栗栖で農民に殺されたとされているが、「天海」僧正として生き延びたとも云われている。また明智の子孫(庶子)も土佐に逃れて生き残り、幕末には船中八策を提案し、維新回天に功績があったという。その子孫とは坂本龍馬だといわれる。坂本家の坂本は大津の坂本城からとったと今も高知では伝承として伝わるお話である。
●徳川秀忠の正室お江(江与)の義理の兄=秀次の孫に当たる娘さんが、巡り巡って「お江」のそばで働いていたのも不思議な巡り合わせです。大奥でのお勤めを終えたあと、お田は、出羽(山形・秋田)亀田藩藩主、岩城宣隆に見初められ、側室として嫁ぎ、跡継ぎを産みました。隆清院の息子、幸信も、姉のお田が嫁いだ岩城宣隆に引き取られ、亀田藩に仕えました。幸信は元服後、秀次が養子に行く前の元々の名字、「三好」を名乗りました。会うことさえ叶わなかった祖父の名前を、大事に守って生きたのです。隆清院・お田・幸信は今、秋田県由利郡岩城にお田が開いたお寺、妙慶寺のお墓で眠っています。妙慶寺は、顕性院が真田家菩提の為、寛永6(1629)年に建立した寺であるという。悲劇的な最期を遂げた秀次ですが、その子ども、孫はどうにか生き延びて、厳しい運命に立ち向かい遠い地でがんばって生き抜きました。秀次の生きた証は、ちゃんと次の世代に繋がっていました。さて、隆清院は真田信繁の側室でしたが、信繁の正室(竹林院)は大谷吉継の娘(信繁の義父)でした。信繁=幸村の子ども(嫡男)に真田十勇士に数えられる真田大助幸昌がいるが大阪夏の陣で秀頼と共に亡くなりました。
お菊様伝説の研究
泉南から紀北にかけてそこを舞台にした悲惨な戦国末期の女性の伝説に関係する土地を廻った。各地の立て札とサイトからの引用部分が多いが、阿菊顕彰会さんには敬意を表したい。国土交通省も地元対策なのか、随分詳しく各地の伝承をまとめている。そもそもお菊様は、豊臣秀吉の甥である秀次の側室、小督の局の子で、彼女は淡輪徹齋隆重の娘である。秀吉は淀君との間に秀頼が生まれてから秀次とは不和になり、要は自分の子を跡取りにすべく秀次は謀反の罪で切腹、遺児4男1女と正側室併せて39名を処刑した。(1595文禄4)小督(おごう)局も殺されたが、生後1ヶ月のお菊様は助命され、その祖父の弟の子で波有手(ぼうで、現在の阪南市内で南海本線鳥取ノ荘駅の北方約500m付近の海岸に近い集落)の豪族、後藤興義の養女となり、紀州山口(現在の和歌山市山口)の山口兵内に嫁いだ。
山口は字のごとく雄の山峠を越えて紀州に入ってすぐの街であり、今も歩けば旧家が並び山口姓のお屋敷も目立つ。昔から経済力があったようだ。
ここの代官の跡取り、たぶん当初は豊臣秀次麾下だったと思われる。嫁いでその数日後に兵内は大阪夏の陣で大阪城へ入ってしまうのである。さてお菊様は夫のために密書を携えて大阪城を訪ねた。紀州若山は関ヶ原後は浅野領である。浅野長晟が徳川家康の命を受け南方より大阪を目指そうとする一方、大野治長は一揆勢と呼応し南進を図る。若御料が密書を持って大阪を目指すとなれば内容は当然、反浅野=徳川への一揆勢と大阪方の連携であろう。豊臣秀吉の紀州攻めが天正13(1585)、ここで根来衆や雑賀衆、太田党らが没落し、豊臣秀長等豊臣一族が知行することとなります。おそらくここで山口を治めたのでしょうが、関ヶ原の戦い(1600年)で、浅野幸長が紀州に入ります。その後15年間どうしていたのでしょう。面従腹背だったのでしょうか。お菊は雄の山峠でなく5q東の風吹峠へ迂回、途中堀河谷を東に山中に分け入り潜行します。新家方面へ坂を登り尾根沿い標高330m強の納経山で髪を切り男装し、松の根元に埋めたそうで、「お菊松」「お菊山」としてハイキングコースになっています。行って見ましたが、楽に登れるし眺めはいいしで石碑も建てられています。関西空港がよく見えます。しかしお菊様の心中、さぞ悲壮であったことでしょう。大阪城へ入るのには成功したお菊様でしたが、夫との対面も束の間で、帰路山口一族の鎮圧斬首を知り養父母の後藤家に身を隠します。さらに4月29日樫井川の戦いで大阪方は敗走、大阪城も5月7日落城で夫も討ち死にを知ることとなります。お菊様もやがて捕らわれてしまいました。嫁いで間もないことから浅野方も助命しようとしましたが、彼女はこれを拒み、南穂村の紀の川河原で斬首されてしまいました。
今の和歌山市永穂(なんご)であろう、とすれば山口から南西方へ約3qの近場であり、多分に見せしめの色彩が強い。後藤家は養女の菩提を弔うため法福寺にお菊の木像を納めました。当地には50節に及ぶ手まり歌も伝わっているそうです。「お菊寺」とも呼ばれるお寺ですが、境内には顕彰会の石碑もあります。後藤姓の名前が多く彫られており、ご子孫は続いておられるのだなとか旧家が多いなと感心したり、歴史は何らかの形で残るから悪いことや恥ずかしいことはやめようと思ったのでした。鳥取ノ荘の駅から北東方に近いが通りは細くわかりにくい。
紀州から泉南にかけての豪族が大勢力の盛衰の中で翻弄されたことを強く感じました。そもそも淀君と秀頼のために小督も殺されたのにまだ豊臣について行かなければならなかったのでしょうか。徳川方も豊臣との何らかの係累はすべて絶つか没落させる気だったのは関ヶ原戦後の処理で明白ですから、山口もおとなしくしておれなかったのでしょう。厳しい武家の習いというか権力闘争の実像を見ることができます。南海電鉄「淡輪」駅の北西約300m(直線)付近、「淡輪邸跡」を訪れる。掲示には、「城の薮」と呼ばれたという。小督(ここ)の局の生家となる。幼名「おこよ」。樫井川の合戦で戦死したのは、徹齋の次男で六郎兵衛重政。祖先は源義経の家来で勇名を馳せた佐藤忠信の子、小次郎重治、元久年間(1204頃)この地に地頭として定着とされる。佐藤継信・忠信兄弟は共に義経を守って戦死、その父基治は代々奥州藤原氏のもと信夫、伊達、白河あたりまでを支配していた豪族であるが、頼朝の奥州攻めで降伏したが許されている。
●柳生石舟斎は、松永久秀に仕えていたが、織田信長の命により足利義昭の剣術指南役にもなった。その後隠居したが、大和郡山城主の豊臣秀長に柳生の里の「隠し田」がバレテ所領没収になったが、のち豊臣秀次に100石を復活してもらっている。息子の柳生宗矩が徳川家康に仕え500石を賜り、関ヶ原以降、徳川将軍指南役となる。そもそも、「柳生新陰流」は、伊勢の住人、愛洲移香斎の「陰流」を祖(剣術の源流;移香斎―上泉信綱―柳生石舟斎)として、「陰の流れ」を伝えている。愛洲移香斎は、修験道の山伏や伊賀の百地と出会い「陰流」を創設したといわれている。(陰とは忍びの術である。)それでは、戦国時代にもう一人の武芸者(剣豪)である宮本武蔵が若い時に仕えた戦国武将の名前は誰か。晩年ではありません。関ヶ原合戦の時代に仕えた主人名です。なお宮本武蔵には複数説があり、二天一流を創始し、五輪の書を記した宮本武蔵は播州生まれで「玄信」と名乗っています。円明流を創始した美作生まれの武蔵は「宮本武蔵政名」を名乗っています。鳥取藩に仕えた「宮本武蔵義貞」も文献に出てきますし、絵や書を残した武蔵は「範高」だということです。一体これはどう考えたらよいでしょう。
剣聖といえば、上記のほかに宮本武蔵がいます。彼には謎が多すぎます。以下にその理由を記します。
吉川英治で有名な「宮本武蔵」のことは、ほとんどの人が知っているでしょう。それに比べたらレベルはまったくちがうが武蔵コミックとしての井上雄彦著『バガボンド』(講談社)は圧倒的におもしろい。2002〜2003年にあったNHKの大河ドラマ(MUSASI)の武蔵本ブームの便乗本で出ていると軽く思っていたが、最近の武蔵小説の劣悪さに比すれば、それなりに読める。
しかし、その「宮本武蔵」なる者が、私の知っている限りでは4人います。これは歴史上のミステリーです。
晩年に「五輪書」を書いた宮本武蔵は「宮本武蔵玄信」と名乗っています。この「玄信」は「二天一流」を創始した、播州(兵庫県)宮本村の人だと伝えられています。養子になって小倉藩の家老になった宮本伊織の残した家系図にも播州とあります。播州の宮本武蔵は黒田家とのつながりもあったといわれています。
ところが、作州美作(岡山県)の宮本村にも、「宮本武蔵」生誕の地があります。名前は「宮本武蔵政名」といいます。この「政名」は、当初は新免武蔵と名乗っていたそうで、「円明流」(十手・手裏剣術)の開祖として登場しています。(これは私が実際岡山市に旅行に行った時に発見しました。岡山県には武蔵の酒までありました。)
現在、宮本武蔵の出身地には作州生誕説と播州生誕説の二つがあって、そのどちらもが観光名所になっていますし、出身地だとしています。私のつたない頭では、これでは宮本武蔵は二人いたと理解できるのです。
ところが、そのほかにも、鳥取藩に仕えた「宮本武蔵義貞」という人もいます。これらの人は空想ではありません。ちゃんとした文献に出てくるのです。また、絵や書を残した「宮本武蔵」は「宮本武蔵範高」だということです。一体これらは、どう考えればよいのでしょうか。
そこで、ふと疑問に思うのが、一乗下がり松の決闘で吉岡一門と対決したのは一体誰なのでしょうか、ということです。一方の吉岡道場は「京八流」の正当な剣道場であったことは歴史的な事実です。そこと決闘した人物が架空であるはずがありません。また、佐々木小次郎と下関の巌流島で対決した宮本武蔵はどの「武蔵」であったのだろうかということである。
少なくとも、宮本武蔵が、ある時点で有名になったとき、宮本武蔵を名乗る侍が複数出たことは、有名税のうちでと、なんとなく分かるのですが、歴史の根本的なものとして、誰が(どの武蔵が)なに(巌流島の決闘、吉岡道場との対決、二刀流の開祖、etc)をしたのか・・・。歴史に興味のある者としては、せめてそのぐらいは歴史的に明らかにしておきたいと願うものである。
実際、玄信、政名、範高、義貞のほかに宮本武蔵角平、宮本武蔵恒、宮本武蔵義経、宮本武蔵永禎、宮本武蔵忠躬などもいるという。(詳しくは調べていないが・・)なお、作家五味康祐「二人の武蔵」は、作州浪人平田武蔵と播州浪人岡本武蔵が2人の武蔵で、岡本武蔵は播州米堕村(米田村?)の岡本新左衛門の子という設定になっている。
武蔵生誕の地も、諸説あり、各地に顕彰碑等がある。以下に紹介しておこう。
【岡山県美作市(大原町)宮本村】
武蔵の生誕碑は武蔵宅跡の前に建っている。「宮本武蔵誕生地」。明治44年建立。
熊本(武蔵の入滅地)の武蔵顕彰会が武蔵誕生の地として確認。それを受けて町内有志が建立。宮本武蔵駅まである。武蔵の里として観光用に整備されている。
【兵庫県高砂市米田村】
承応2年(武蔵没8年後)に小倉藩筆頭家老宮本伊織(武蔵の養子)が故郷の氏~泊神社の社殿一式を再建した。その本殿に掲げられた棟札が武蔵生誕地の論拠となっている。伊織と田原政久(一族の一人)が寄進した石灯籠が社殿裏にある。
【兵庫県太子町宮本】
宝暦12年に書かれた「播磨鑑」に「宮本武蔵ハ揖東郡鵤ノ荘宮本村ノ産也」とある。これが論拠。石碑は石海神社前の公園の一角に建っている。隣接して武蔵生家跡やゆかりの井戸もあり、「剣聖宮本武蔵生誕の地」と書いた幟が立ち並んでいる。
●博労町にあった旧近江八幡市役所庁舎を桜宮町に移転したのが昭和45年です。その時、通称「官庁街道路」ができました。その官庁街道路の西には「石碑」が立っています。
近江八幡市の中心部にありながら、車の通行量も多く、ひっそりと目立たない存在の「石碑」のいわれなどを知る市民も少なくなっています。碑にまつわる伝説は、豊臣秀次が八幡山城を築城した際に、秀次は腕利きの職人を広く集めたが、そのうち七人が、秘密工事に携わることになったという。しかし、城の完成とともに、城の構造や部屋の配置などの秘密を知ってしまった七人の職人は処刑されてしまった。それを哀れに思った地元の住民が土を盛った土墳をつくり葬ったという。その「石碑」は(七塚之碑)と書かれています。石碑は今でも地元の人たちによって大切にされており、地元自治会は、毎年九月の「敬老の日」に、近くの寺の住職を招き、石碑の前で法要を営んでいる。周囲が開発され、住宅地や商業地に変わっても、先人に対する思いは変わらないようです。