10、沖島と蓮如上人
問題10;人が住む琵琶湖(淡水湖)の最大の島として、有名ですが本格的に沖島に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156~1159)による源氏の落武者7人が山裾を切り開き漁業を生業とし居住したことに始まると言われ、彼ら七家(南、小川、西居、北、久田、中村、茶谷)が現在の島民の祖先とされています。しかし現在まで沖島の寺に残る「虎斑の名号」を書いた有名な人物は誰か。
① 法然 ②親鸞 ③蓮如 ④道元 ⑤教如
解答・・・・・3
<解説>
本願寺中興の祖といわれる蓮如上人が、山科本願寺を比叡山等の山門の徒に焼き討ちされて、大津市堅田の門徒衆に助けられて、越前吉崎御坊に辿りつく道中で、琵琶湖を船で渡る途中に沖島に立ち寄り、島の人に名号を与えたと伝わっています。筵(むしろ)の上で書いたので虎斑の様な文字になったと言われる。これが縁で、今まで沖島は佐々木氏と叡山の影響下にあったが、以後は堅田衆(湖賊とも言われる)の管轄に入ったとされている。
そもそも近江八幡市の歴史は昭和初期に増補編纂された「蒲生郡志」が元となっている。そして「蒲生郡」は古代律令制に「郡」が成立したといわれ、天智天皇の頃には「蒲生野」が万葉集に歌われている。近江国田原に住んだ「藤原秀郷」(俵の藤太)の末裔が「蒲生氏」を名乗っている。戦国期の蒲生氏郷は三上山のムカデ退治で有名な「俵の藤太」の子孫ということになる。昔(昭和の大合併以前、明治22年の町村制施行時には)、八幡町があったころ、「蒲生郡」は、八幡町、日野町と23の村(2町23村)があった。その後、宇津呂村と島村が八幡町に編入したのち、八幡町と桐原村、岡山村、馬淵村、金田村が合併し近江八幡市となり、蒲生郡より離脱しました。また安土村と老蘇村が合併し安土町となり、2010年安土町が近江八幡市に合併し、郡より離脱しました。でも現在でも「郡」制度は生きています。2012年の時点で「蒲生郡」に所属するのは、竜王町と日野町です。
大房、小舟木などはもっと昔(平安時代)は「舟木郷」と呼ばれていました。舟木郷から賀茂(加茂)、御神牧(岡山・牧)が分かれました。また津田郷は内湖を挟んで津田南、津田北、津田中があり今の南津田、北津田、中ノ庄です。北の庄、多賀などは大島郷と呼ばれました。その他に近江八幡市内では安吉郷、篠田郷、桐原郷がありました。なお安土地区においては鷦鷯という字が『近江輿地志略』には見られ「佐々木もと鷦鷯の御名によれり。佐々木は仮名書なれば、篠笥と相通ず。佐々木を篠笥といふにや」と記されるように、近江国蒲生郡篠笥郷や佐々木郷(鷦鷯郷)と呼ばれていた。鷦鷯はササキと読むがセキレイのことである。では「近江源氏佐々木氏」のことを専門に書いた昔の書物を「江源武鑑」といいます。
なお、津田郷は平氏だと言われるが、それは津田氏の娘が平家に嫁いで、平家の子を産み、後に成人して織田氏になるからである。この話は、織田信長の項で説明する。