15、旧芝川町西山本門寺(富士宮市)の信長の首塚

 

問題15;本能寺で討たれた織田信長の「首塚」が静岡県の西山本門寺の境内にある。本能寺の変のとき本因坊日海の指示により信長の首を埋めたとされるお寺がある、そのお寺(西山本門寺)がある都市の名前はどこか。近江八幡市とは富士山と琵琶湖の縁で夫婦都市提携をしていますが、妙な因縁を感じます。

@     松前町 A密陽市 B富士市 C富士宮市 D静岡市        □ 

 

解答・・・・4

 

<解説>


6月2日の本能寺の変が起こる前夜には、信長は囲碁を開催していたと記録にある。そのとき寺に滞在していた日海が、信長の最後にも立ち会った可能性は大きい。そのため、このような都市伝説がつくられたのであろう。都市伝説といえば失礼であろうが。確証がないからの伝説(言い伝え)である。富士宮市(旧芝川町)では毎年紅葉の季節に信長まつりが本門寺境内で行われている。

信長に関係する寺院と云えば、総見寺である。総見寺は安土城築城と同時期の創建で丹羽長秀が織田信長の命令により織田家の菩提寺として安土城郭内に作ったとされる。いまは「総見寺」は臨済宗妙心寺派の寺院である。本尊は織田信長であり、二王門(楼門)、三重塔は重要文化財である。住職は代々織田家の関係者が勤めていた、近江八幡市安土町にある寺院である。

 

現在の安土城天主「信長の館」は1992年にスペインのセビリア(アンダルシア州)で行われたセビリア万国博覧会に日本から出品された日本館(安藤忠雄が設計)の安土城天主閣(原寸復元)を万博終了後に、当時の安土町がゆずり受けたものです。コロンブスゆかりの地セビリアでは、1492年コロンブスが新大陸を発見して500年に当たるのを記念して開催されました。

 

なお、近江八幡市内にも、「信長の首塚」というものがある。織田信長が浄土宗の僧貞安を開山として、安土問答で勝ったご褒美として信長が安土城下に1580年に建立したお寺ですが、八幡城下町を作る際、豊臣秀次が現在地(八幡城下)に移転したとされています。そのお寺の境内には「五輪塔」があり「織田信長の墓」だとされています。

 

キリスト教史学会常任理事を務めておられた故助野健太郎・聖心女子大学名誉教授の蔵書を寄付していただいて「安土文庫」が安土図書館にできている。さすがにマニアには垂涎の的である。これらの蔵書を活かしきれていないのが残念です。さて安土といえば「信長サミット」が1984年に第一回が安土町(当時)で開催されて以来、28年になる。参加自治体も天童市や岐阜市、大垣市、清須市などが参加し、益々拡大している。それとは別に森蘭丸のキャラクター「らんまる君」があちこちに出没しているという噂です。岐阜市可児の「森蘭丸祭り」には必ず参加しているらしい。また歴史では「森家」は甲賀五十三家と関係があり、織田家の諜報部門を担当していたとの話もある。さて、安土城址にも森蘭丸の屋敷跡があるが、本能寺で蘭丸・力丸・坊丸の三兄弟は討ち死にしている。残った次兄の森(勝蔵・武蔵守)長可は「鬼武蔵」と呼ばれた武将であったが、豊臣秀次(秀次と長可は池田恒興の娘を妻にしている)も関係している徳川家康との合戦で討ち死にをしている。その合戦を「小牧・長久手の合戦」といい、その時の総大将は「羽柴秀次」であった。 

フランシスコ・ザビエルは日本に来た宣教師ですが、山口市には「ザビエル教会」もあります。しかし、眠っているところはインドのゴアというところです。こうした宣教師も含めて、植民地主義的な海外進出に乗り出しますが、「大航海時代」の幕を開けたバスコダガマはポルトガルの国王に命令されてでした。では、ヨーロッパ諸国がこのように「大航海」に乗り出した直接の原因は、オスマントルコによってアジアからの通商が陸上からでは困難になったから「海の道」を開拓したと云われていますが、アジアからヨーロッパに持ち込まれた産物でヨーロッパが必要としたものは「胡椒」だと云われています。 

 

織田信長の三大合戦のうちの一つ、姉川の合戦は「織田信長」と「浅井長政」が戦ったことで有名ですが、そのとき、羽柴秀吉が、小谷城が見える場所に城(出城・付け城)を築くことを織田信長に命令され、秀吉の「出世城」といわれました、湖北の城を横山城といか。山麓には石田三成の故郷石田村がある。のち秀吉は横山城から長浜城へ移転しました。

 

また、賤ヶ岳の合戦は、羽柴秀吉と柴田勝家の戦いだったが、織田家の勢力を二分しての戦いであり、これに勝利した秀吉が信長の作り上げた権力と体制の継承者となるのであるが、この時「賤ヶ岳七本槍」といわれた武将が七人いる。「福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元」の七人である。このうち浅井長政の家臣であった近江出身の武将は脇坂安治と片桐且元の2名がいる。この七名のうち、関ヶ原の合戦で、唯一西軍に味方した武将(大阪の陣で反豊臣方になったものも含む)は平野長泰だけである。