11、住蓮坊遺跡と首洗池
問題11:法然の念仏集団を弾圧した後鳥羽上皇は、法然上人を土佐に、親鸞聖人を越後に流罪にしただけでなく、死罪になった法然門下の弟子もありました。それを「承元の法難」といいます。市内の千僧供町には断首された法然上人の弟子の墓(首塚・遺跡)がありますが、その弟子の名前を教えてください。
@ 一遍 A住蓮 B松虫 C弁長 D真仏 □
解答・・・・2
<解説>
「住蓮坊」の遺跡は、馬渕学区の千僧供町というところにある。(安義橋から歩いて5分ぐらいのところにある)この話は、地元の婦人会が紙芝居にして市民に広めたので、市民で知っている人も多いと思うが、「鈴虫・松虫」の物語といえば全国的に知っている方もあろうかと思う。
鎌倉時代の承久の変で活躍した後鳥羽上皇の御所女房(愛妾)であった「鈴虫・松虫」の女房二人が法然上人の弟子であった住蓮坊と安楽坊に入信して上皇に黙って出家(京都鹿ヶ谷の安楽寺に墓がある)してしまったことから、念仏弾圧の引き金となり、師匠の法然は土佐へ流罪、住蓮と安楽は死罪となった。(このとき親鸞は佐渡に流罪となる=これを承元の法難または建永の法難という)安楽は京都河原で打首、住蓮も逃げてこの近江の地で捕まり打首となった。(住蓮坊が馬淵=安吉郷出身だったという説もある)のち、関係者が安楽の首と一緒に住蓮坊遺跡に埋めて供養したということである。・・・・それが今に伝わる住蓮坊(安楽坊)遺跡の物語である。京都にも住蓮山安楽寺というお寺があるが、江戸時代に建てられたものであり、千僧供にある石塔(御僧塚)も江戸時代に作られたものらしい。400年もたってから供養されたということは徳川家が浄土宗であったのとなにか関係あるのだろうか。それはともかくとして、浄土宗や浄土真宗では、法然や親鸞の足跡を旅する「聖跡巡拝」が行なわれているが、この承元の法難跡の一つとして住蓮坊遺跡も加えてみてはいかがなものかと考えます。おそらく浄土宗や浄土真宗系の仏教徒にとっては、魅力ある遺跡探訪のひとつとなるでしょう。また千僧供町の易行寺の赤松住職談によれば、住蓮坊・安楽坊の菩提を弔うために、僧侶一千人が集ったことから、この地は「千僧供」と言われるようになったということである。
近くには天智天皇や天武天皇と額田王の相聞歌「あかねさす むらさきのゆき しのめゆき・・」で有名な「蒲生野」があり、また額田王やその姉で藤原鎌足の正室であったとされる鏡大王(かがみのおおきみ=鏡王女とも書く・・南都興福寺縁起には鎌足の夫人、鏡大王が興福寺の前身である山階寺を創建したとある。平城遷都に伴い現在の地に移されたが藤原氏の氏寺とされる。ちなみに奈良県桜井市にある恋神社の祭神は鏡大王である)の出身地とされる鏡の里=鏡山もある。(この鏡の里には源義経が奥州へ旅立つとき元服したと伝えられる義経元服池もある=最近国道8号線沿いに道の駅が出来た。昔は東山道の鏡宿があって賑わったところである)さらにつけ加えるならば、壬申の乱の時、天武側の将であった鏡王(額田王や鏡大王の父?)が戦死して、先ほどの(住蓮坊安楽坊の遺跡がある)黒塚古墳とも言われている場所に葬ったとも(竜王町観光課によれば真照寺に葬られているとも)言われている伝承がある。
住蓮房、安楽房は親鸞聖人と同様、法然上人のもとで念仏の教えを喜ぶ黒谷の吉水仲間であった。
1207年の「承元の法難」で、法然は土佐に、親鸞は越後に流罪になる。
住蓮房・安楽房は、死罪となった。住蓮房が千僧供村で処刑されたのは、諸説あるが住蓮房が千僧供村出身だからという説が一般的。因みに安楽房は京都六条河原で処刑されている。
言い伝えでは処刑の際、安楽房は、住蓮房と合葬してほしいと願い出たため二人とも現在の地に埋葬された。所在地滋賀県近江八幡市千僧供町の田園の中。国道8号線六枚橋交差点から東に約400m。「象印」の工場の向かいの農道を100m入ったところにある。高さ4〜5mほどの小さな円墳の上に二人の石塔が並んで立っている。「御僧塚」と称され代々近郷農村の門徒さんらによって大切に守られてきた。この遺跡には、滋賀県教育委員会・近江八幡市教育委員会の説明が付されている。この説明によると、円墳は今から1500年前〜1400年前に作られたもので、
墳丘の真下には古墳石室と鎌倉時代の墓も確認されている。
現在の住蓮房・安楽房の石塔は江戸時代に作られたものであるということであった。
住蓮(じゅうれん)
時代:平安時代〜鎌倉時代 年代:?年〜1207年
鎌倉前期の浄土宗の僧。法然の弟子で元久元年(1204)の七箇条制誡にも署名している。
建永元年(1206)12月、遵西と共に京都鹿ケ谷で六時礼賛を唱え、
その際に御所の女房が出家をしたので後鳥羽上皇の怒りをかい、
法然門下の専修念仏への弾圧も強まって、翌年近江馬淵荘で斬罪となった。
遵西(じゅんさい)=安楽(あんらく)
時代:平安時代〜鎌倉時代 年代:?年〜1207年
鎌倉前期の浄土宗の僧。少外記中原師秀の子。安楽房と号す。
法然の弟子として『選択本願念仏集』の執筆役を務めた。
また声明音楽に才があり、唐の善導の六時礼賛の称揚を広めた。
建永元年(1206)京都鹿ケ谷法然院での別時念仏会では、同門の住蓮とその能声で多くの帰依者を誘い、御所の女房も出家をしたため後鳥羽上皇の怒りをかい、承元の法難の原因となる。
このため師の法然は流罪、遵西は京六条河原で死罪となった。
住蓮房首洗池(別名住蓮池・念仏池)・・・墓所より西へ直線距離200mに位置する
法然の死後、浄土宗は、彼の弟子たちによって、各地に布教が展開され、また「念仏聖」といわれる僧たちによって民衆仏教として定着していった。そのなかで、西山派、知恩院派などに分かれていったが、特筆すべきは、親鸞の浄土真宗と一遍の時宗であろう。いずれも浄土系であるがゆえに法然の浄土宗の一派とみなされていた時期もあった。
日本の歴史や宗教に関しても、特定の研究者や関係者にとってはごく普通の知識が、世間一般にはほとんど知られていないということが間々見受けられる。世間の1人である私にとって、例えば、浄土真宗がそうなのである。
真宗王国などと称される環境の中で生まれ育ったせいか、東派と西派の2つの本願寺派だけが浄土真宗だと、長いあいだ思いこんでいた。ところが実は、本願寺派よりもっと古くに成立した高田派や仏光寺派が今も存在する。また、福井県に四ヶ本山と呼ばれる三門徒派・誠照寺派・山元派・出雲路派が現存し、かつて加持祈祷(きとう)・踊り念仏・秘事法門が行われたものもあると知って驚いてしまった。
つい最近まで、私は、戦国期にあれほど活躍した「一向一揆」の中核は、浄土真宗の本願寺教団だと理解していた。確かに石山本願寺の顕如や教如などは織田信長や徳川家康の戦国大名に反抗し「一向一揆」を組織したと歴史教科書では教えられている。徳川家康で言えば、謀臣といわれる本多正信までが反抗した「三河一向一揆」、さらには織田信長に根絶やしにされた願証寺を中心とした本願寺(一向宗?)門徒の「長島一向一揆」や紀州の雑賀衆や毛利水軍を巻き込んでの「石山本願寺の合戦」は有名である。
だから、浄土真宗の門徒である我々でさえ「一向一揆」・「一向衆」と聞けば、条件反射的に「イコール=浄土真宗=本願寺」をイメージしてしまう。しかし、私の属する和讃講である時、「なんで一向宗ではなく浄土真宗なんや。戦国時代は一向宗と呼んでいて、今は浄土真宗というのは何でやね」という話題になった。なるほど、一向宗という名称は現在では聞かず歴史のなかでしか聞かない。常識的にいえば今の本願寺は一向宗とならなければおかしいな、とそのときは思った。そのとき居合わせた住職(大房・本願寺派金照寺・西川龍乗氏)から、「浄土真宗と一向宗は、必ずしも同じではないとの説があります」ということを聞いた。本願寺からは門徒衆に対して一向宗(一向一揆)に加わらないよう再三に渉って通達が出されていたという。この一向一揆という時の“一向”とは、一向宗のことだ。広辞苑を繰ると(一向に阿弥陀仏を信ずるからという)浄土真宗のこと、とある。ただし、一向一揆の頃(ころ)は、一揆方は悉(ことごと)く同じ浄土真宗の高田派と対立抗争していたから、精確(せいかく)には、かつての本願寺派だとすべきで、この呼称は微(かすか)に現代にまで及んでいる。というのが常識だと、私は思いこんでいた。しかし存外にも、全く違った“一向宗”の顔を歴史は示してくれるのである。
今から20年前に、私は市役所の職員組合系の機関紙「解放」紙上に「時宗と真宗における被差別民衆のかかわりについての一考察」(PDF版で我がHPに掲載)というレポートを投稿した。その時に、真宗教団が拡大したのは時宗系の聖や民衆(その大勢は被差別民)を吸収したからだというように書いた記憶がある。しかし、一向宗と浄土真宗の関係については触れていなかった。そこで、改めて、引っ張り出した当時の原稿や資料から、以下の論を展開するものである。
一向一揆の性質について
1488年、加賀の一向衆徒が蜂起して守護富樫政親を倒し、以来、90年近く加賀国は「百姓の持ちたる国」となった。その後も一向一揆が国内のあちこちで戦国大名に反抗し武力蜂起を起こしている。そのため九州(薩摩・肥後)や関東(北条氏)などでは一向宗が禁止されたところもある。では、一向宗つまり浄土真宗は、支配者を脅かすほど過激な思想を持った宗教なのか。今、私は和讃講や仏教壮年会に参加して活動しているが、ついこの間も名古屋であった西本願寺の新門さまを迎えての第18回全国仏教壮年東海大会に参加してきたばっかりであるが、そんなに過激な宗教とは思われない。昔と今では教義が違うのだろうか、とも思ったりしたが、中興の祖といわれる蓮如上人が、いつも我々門徒が拝読する「御文章(御文=おふみとも東ではいう)」のなかで、繰り返し次のように述べているのを発見した。
(意訳)『阿弥陀仏にひたすら帰依し、信心を深めるように。他の神仏に後生の(一大事)救済を求めてはならない。かといって他のいろいろな仏神を否定したり軽んじたりしてはいけない。世俗の慣習も尊重し、真宗では行わない物忌みにも同調するように。自分自身が念仏修行により信心を得たとしても、守護地頭を軽んじることがあってはならない。年貢・公事をきちんと納めること』と諭している。
つまり、排他的にならず他の宗派や支配者と協調するようにと穏健な教えを説いているのである。それなのに、なぜ各地の門徒は、支配者を武力で攻撃するような行動をとりつづけたのだろうか。一向一揆を研究している神田千里氏や辻川達夫氏、出口治男氏などによれば、真宗と一向宗は別物であるという。
「一向宗」という名称は、鎌倉時代つまり開祖親鸞聖人の頃からあったという。浄土真宗を、そう呼んだわけではなく、まったく別なところから成立したものだとされている。
「一向宗」と呼ばれた宗派は、同じ浄土系の念仏宗ながらも土俗的な性格が強く、加持・祈祷・占いを生業として民衆の中に入り込むのを常としていた。山伏・念仏僧・琵琶法師などが多かったという。これは一遍上人の時宗を支えて構成した階層と同じである。ちなみに、これから語る「一向上人」の一向宗も当時は明確な宗派を確立しておらず、時宗系の一派とみなされていた。加賀一向一揆のときの一向衆のなかには白山の長吏も入っていたとされる。彼ら一向宗徒は時宗(一向宗を含む)とも重なりを見せながら、諸国を巡り歩き、祈祷や占いによって民衆の心をつかみ、信仰を広めていったのである。そして彼らは、形のうえでは、真宗または時宗(大きくは浄土系)の組織に所属していた。つまり、浄土真宗の本願寺は、内部に大勢のこうした異分子を抱えていたわけである。15世紀後半に、浄土真宗(本願寺)が急速に信者(勢力)を増やしていったのは、蓮如の精力的な活動に負うところが大きい。だが、こうした「一向宗」の力がなかったならば、とても、これほどの発展は望めなかったに違いないと、前述の神田氏はいう。
本願寺教団は、たしかに蓮如上人の努力と一向宗(浄土宗の一宗派という位置づけ。時宗も浄土系の一派とも考えられていた。もっとも浄土真宗自体も浄土宗の一派である本願寺派と考えられていた。ここで本願寺というときは蓮如以降の本願寺教団をさす)をベースとした念仏衆徒(その多くは被差別民衆)に支えられ膨大な数の民衆を結集できるようになったが、蓮如が繰り返し唱える教義は、なかなか門徒には浸透していかなかった。ここでは「一向宗」が障碍になったのである。もともと「一向宗」というのは、教義のうえではあやふやだったから、ただ念仏を無碍一向に唱えて現世と来世のご利益を期待するばかりにとどまっていた。そしてその単純な考えが民衆にとっては蓮如の教え以上に受け入れやすかったのではないだろうか。(後段の参考文を参照されたい。)当時はまだ一向宗や時宗の念仏信仰がベースにあった状況のなかでは、蓮如の「御文章(御消息ともいい本願寺からの通達文のこと)」も末端の門徒の行動をなかなか規制できなかったのであろう。逆に言えば、民衆の側は本願寺の貴種系譜(親鸞の出自は藤原氏につながる公家の日野家であると本願寺は教化に利用した)を逆手にとって、本願寺の権威を民衆が活用したといえる。蓮如が組織した門徒組織すなわち「講」をリードしたのは主に国衆・土豪であり、彼らの上昇志向は、守護勢力と衝突せざるをえなかったのであり、その下には真宗の教義とはかけ離れた多数の一向宗あるいは時宗の信者が現世の利益を求めて転向し本願寺教団に集まっていったと考えられる。またそのなかには信仰とまったく関係ない農民たちも、やはり現世の利益だけを求めて加わっていたに違いない。そうした一向一揆衆が加賀一向一揆を起こし、他の地域でも大きな戦闘力を持つようになった時、戦国大名たちは、これを無視できなくなっていったのである。それでも本願寺は蓮如の三代後の顕如(11代)まで権力者への反抗を禁止しており、しばしば破門という奥の手を持ち出したとある。しかし、織田信長が上洛して石山本願寺を圧迫するに至り、本願寺も一向一揆の俗的な力を認めざるを得なくなり、顕如は、これまでの態度を一変させ、織田信長を「法敵」と規定し、全門徒に信長と戦うことを呼びかけたのである。本願寺から言えば一部の異端派=「一向宗派」が中心になって起こした権力者への反抗は、ここにきてついに本願寺(法主)までも同調した形で、初めて本願寺組織はひとつにまとまったのである。これにより、本願寺の権力者への反抗は一向一揆と後世では呼ばれることになったのである。しかも、留意いただきたいのは同じ真宗系統であっても蓮如の本願寺系をそう俗称されたのであり、仏光寺派や高田派などは一向衆とは呼ばれていない。当時はまだ浄土宗の一派とみなされていたらしい。また本願寺教団が拡大する過程で、高田派や仏光寺派などの他の真宗各派の信者を吸収していったことは容易に想像できることである。ちなみに当時の仏光寺派や高田派の真宗門は一向宗とは一線を画しており、戦国守護の権力と力をあわせて一向宗と敵対したこともあるらしい。
さて、一向一揆の総集編とも言われる本願寺(教団)と織田信長のいわゆる石山戦争はまる十年も続いた。そもそも本願寺(法主顕如)にしても各地の一向一揆に対して為政者に対する反抗を止めよとの指令をたびたび出しており、上洛したての頃の信長の矢銭50貫の要求さえおとなしく出している。一方信長にしたって決して仏教嫌いではない。自分の権力に逆らいさえしなければ、それなりに保護してやるという姿勢であった。安土城下での浄土宗と日蓮宗の安土宗論をみればそれは理解できよう。(余談だが宗論はどちらが負けても釈迦の恥。という言葉がある)荒木村重の叛乱に係わっての高野聖の虐殺や比叡山延暦寺を焼き討ちしたのも、長島一向一揆を根絶やしにしたのも自分の権力に反抗したがためであり、それは一人信長だけでなく戦国大名すべてについて言えることである。(虐殺は徳川家康や豊臣秀吉も同じことをやっている)信長と本願寺が衝突したのは一般的にとらえられているように、思想上の相違ではなく、信長が本願寺のある石山(大阪)の地がほしくて本願寺に立ち退きを要求したのが原因だといわれている。このことも、今回調べていてわかったことである。
念仏を称えざるをえない人々の側からの出発
一向一揆に時衆の影すなわち、「浄土真宗」内に旧「時宗」系勢力があったことは先述した私の「時宗と真宗における被差別民衆のかかわりについての一考察」にも触れたところであるが、浄土真宗と一向宗の関係についても若干整理しておく必要があるだろう。そもそも、法然の弟子であった一遍上人や一向上人の時宗と一向宗の違い、あるいは同じ浄土真宗であっても蓮如上人以降の本願寺系の東西本願寺派と本願寺から分かれた興正寺派(本願寺教団)を除く高田派、仏光寺派などの真宗7派は一向一揆にかかわりがあったのか、なかったのか、など疑問点は多々あるが、私なりの推論(根拠となる資料まで集められなった)を展開しておこう。
もともと一遍上人の時宗にしろ、一向上人の一向宗にしろ、その念仏を支えたのは、定住型の農民よりも非定住非農耕の人々である。時宗系(踊り念仏)と「河原者・散所・革多・非人」との関連は一遍上人時代から強いものがあった。井上鋭夫氏の「一向一揆の研究」では@時宗は室町時代にはかなり北陸をはじめ地方に弘通しておりA本願寺一門のなかにも時宗(衆)の者がいたが背信行為でなかったことB真宗が時宗と混同され、一向宗と呼ばれたのはかなり古い時期からであることC北陸における本願寺教団の形成に大きく寄与した井波瑞泉寺や加賀二股の本泉寺では時宗の僧侶が重きをなしていた。ことから井上氏は、時宗の念仏が真宗弘通の基礎をなしていたという。さらに時宗の参入とあわせ真宗他派から本願寺に帰参した門徒群が、本願寺教団隆盛の基幹をなしたともいう。井上氏は、蓮如以前の真宗を「古真宗」とし蓮如以降を「新真宗」と分けて考察するのが便利であるとしている。また赤松俊秀という方は「一遍上人の時宗について」という論文で、「中世に多かった時宗寺院の大部分は、蓮如以降、真宗が急激に発展した最大の要素は、時宗教団吸収によるものである」と述べている。その根拠として@蓮如以降の真宗に時宗の教義が進入し異安心の問題を引き起こしたこと。そのため蓮如はご文章でたびたび注意しているA従来、外部から無碍光宗と称せられていた真宗が、蓮如以後、急に一向宗と呼ばれるようになったことC真宗内では本願寺門主の流れは本来親鸞廟の一留守職に過ぎなかったにもかかわらず、その一派の者をして絶対的な権威者の地位にのぼらせたのは、時宗の教義の影響であり、蓮如以前の真宗内部の伝統からは生じ得ないものである。と説明している。すなわち「古真宗」こそ一向宗の担い手であり、本願寺が浄土系宗派や真宗宗派に対抗して本山としての性格を示し始めたとき(=すなわち蓮如による本願寺教団の成立)まず本願寺の傘下に結集したのが、時宗系の山の民や川の民であったのである。一遍は時宗の基礎を提供したが、一遍自身は一宗を立てる考えもなかった。あとを継いだのが一向俊聖上人ではなかったのだろうか(このことは資料がないので想像ではあるが)と思っている。だから「古真宗」は時宗の転宗というより「一向宗」からの転宗の一形態ではないかと考えるものである。逆にいえば「古真宗」は実は「真宗」ではなく「一向宗(時宗の一派という捉え方)」であったのである。そして蓮如のあらわれたあと、「一向宗(=時宗」」は一斉に蓮如の「真宗(=本願寺)」に転宗し、蓮如時代の本願寺教団のなかの一大勢力になるのであり、この本願寺内の時宗系一向宗(衆)の勢力が一向一揆の主力をなしていくのではないかと考えたのである。
すでにみてきたように、蓮如の本願寺派が教団にまで発展したのは、近江では堅田の馬借や湖族、北陸では白山系修験者、金堀り、散所に類する者などの当時は賤民とされた人々の「ワラリ」や「サンカ」=山の民、川の民、海の民、遊芸・漂白の民が支えたからである。当然、本願寺教団に吸収された(結集した?)人々のなかには、時宗や一向宗からの転向組や同じ真宗でも本願寺以外の他派からの信者もいたと考えられる。おそらくこれらの人々が自らを「一向宗」と名乗っていたのではあるまいか。昨年、鳥越村(現在は白山市となっている)の一向一揆歴史館を訪ねたが、その印象としては山の民(白山系)の里という感じだった。あんな山奥に一向一揆衆の砦を築くなんて、山の民にしかできないことである。
蓮如が「ご文章」のなかで、一向宗について、次のように書いています。
「そもそも当流の名称を自他宗ともに、一向宗と呼ぶは大いなる誤りである。開山聖人より一向宗と仰せられたことはなく、その作られた文章には真宗とある。しかるに諸宗の方から一向宗と呼ばれることははなはだ疑問であるし、当流のなかで自分から一向宗と名乗ることはもってのほかである。元来、一向宗というのは時宗の側の名称であり、一遍、一向がこれである。その源は江州番場の道場であり、これがすなわち一向宗である」と述べている。蓮如は「ご文章」のなかで一遍の流れをくむ一向宗を自分の真宗とは違うのだと強調しているのであるが、その「真宗=本願寺教団」の内部には時宗や一向宗の勢力を内包して(取り込んで)門徒化=拡大してきたのは前述したとおりである。それがゆえに、一向一揆の原動力となった一向宗徒の信仰は「時宗系(一向系ともいえるが、混乱するので狭義の一向宗をも含んで時宗系とする)」浄土真宗=古真宗であったと推理するものである。そして本願寺自身も彼ら門徒を表向きには異端といいながら、教団拡大には必要とし利用したのである。それゆえ、後世、歴史のうえからも、他宗派から「本願寺教団の門徒衆」のことを「一向衆」と称したのは、あながち間違いではないのである、と私は結論するものである。一向宗の「古真宗」衆徒は、その戦闘性を堅持したまま、そのエネルギーを一向一揆へと繋いでいったのである。そのため蓮如時代には否定していた反権力の闘争エネルギーも、顕如や教如の時代には、反信長ということで、認めざるを得ない状況となったということである。本願寺が異端をみとめたということは、本願寺教団による反抗や本願寺門徒による支配者への反抗を「一向一揆」と呼ぶことを認めたということである。