この資料は津市教育委員会発行”津市の歴史散歩”を参照しています。 |
散 策 |
津市の中心街を形成している。橋北は安濃川(塔世橋)から北側の江戸橋、上浜町まで。橋内は安濃川から岩田川(岩田橋)の間、橋南は岩田川から大字藤方、八幡町をいう。 | 橋北には津駅、橋内には近鉄津新町駅、橋南にはJR東海の阿漕駅がある。 |
江戸橋(江戸橋一丁目、上浜町三丁目) |
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伊勢別街道と伊勢街道の分岐点である。 津の殿様が参勤交代で江戸に行く時志登茂川を渡る必要があり、 この橋まで見送ったので江戸橋という。 | この分岐店には常夜燈がある。国道23号線に掛かる橋は新江戸橋と呼んでいる。 |
阿部家住宅(上浜町二丁目) |
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阿部喜兵衛氏住宅で江戸時代に味噌、醤油の醸造、販売をしていた。 | 「うだつ」の残る大型の商家建築で、18世紀後半に建てられたとみられる。 |
深正寺(じんしょうじ)(上浜町二丁目) |
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県文化財阿弥陀二十五菩薩来迎図がある。立像の阿弥陀如来があり25人の菩薩が取り囲んでいる。 |
松本崎(まつほざき)(島崎町) |
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1792年松本十郎安親が安濃川と志登茂川(当時部田川と呼ぶ)の川口を分離し海岸に堤防を築いて干拓、新田を開いた。この功績で松本(まつほ)崎 と名つけた。 | 西の堤防道路沿いに安親の墓と「紀功碑(きこうひ)が残っている。 |
蓮光院(れんこういん)(栄町三丁目) |
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通常「初午寺」と呼ぶ。大日如来坐像、阿弥陀如来坐像の重要文化財がある。 |
津偕楽公園(大谷町) |
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津藩11代藩主藤堂高猷(たかゆき)が別荘を営んだ(1854〜60年)のが始まりでその俳号から 偕楽園と呼んだ。 江戸の藩邸から移植された柴つつじ(コノミツバツツジ)は有名で市の花にも指定されている。 竜燈籠は2代藩主が江戸の別邸に作ったものを移した。 | 天保元年(1830年)の年号のある常夜燈は、塔世橋南詰に建てられたものが、 後に四天王寺薬師寺堂前の街道に移され「薬師寺燈籠」と呼ばれ、 更に現在位置に移された。園内には多くの碑も建てられている。 公園内には蒸気機関車も展示されている。 |
津偕楽公園周辺の史跡(公園周辺) |
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津城北方の防塞の要地として有力な藩士に与えられ、県庁のある所は藩の弓道師範役吉田六左衛門に 与えられ「吉田山」という。 | 隼人山、蔵人山、吉村山等有力な藩士に与えられその名前が付けられている。 |
県立博物館(大谷町) |
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昭和28年に建設。裏庭に「鳥居古墳」が復元されている。 | HP作成者所見・入場料が安くて内容もある。一見する価値はある。 |
阿漕焼窯(大谷町) |
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江戸時代の安東焼を源流とした窯。津の伝統産業のひとつ。登り窯を使用していたが現在はガス窯。 |
密蔵院(大谷町) |
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ある記2へ |
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真言宗の寺院であるが、もとは白山といって白山信仰の道場だった。 | 津の江戸時代の俳人茨木素因の句碑、三村春門の歌碑がある。 |
四天王寺(栄町一丁目) |
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塔世山四天王寺といって、曹洞宗の中本山である。 創建は聖徳太子と言われるが、たびたびの兵火によって消失しているので不明。 現存する本尊薬師如来の胎内から発見された文書によって平安時代には広大な寺領を持つ 地方最大の寺院であったとされる。 |
聖徳太子像等の重要文化財、藤堂高虎夫人久芳院等の墓、
芭蕉翁等の歌稿碑が多くある
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斎藤拙堂山荘跡と(鳥居町) |
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斎藤拙堂(1997〜1865年)は江戸に生まれ津藩藩校有造館が出来たとき津に来て督学 となって隆盛に貢献した漢学者である。 | 辞めた後愛宕山に山荘を作り全国の文人学者と交流、この山荘あとに 「拙堂先生山荘遺址」の石柱がある。 (とくがく)このあたりの丘は関が原の合戦の時大阪方の大軍が陣を構えた所でもある。 |
たたら井と箕手山 |
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箕手山は鋳造所のあった所。安濃川に流れ込む美濃屋川から鋳造所の冷却水を引き込んだ井戸が、 「ふいご」を使う時に出す音に似ていた。 |
津城跡(丸之内) |
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ある記5 | ある記7 |
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1580年に信長の弟信包が築城。その後藤堂高虎により改築され大きくなるとともに、 石塁も高くなった。しかし、1600年に大攻防戦で焼失した。 高虎は天守は再建せず各門の建築と改修を行った。 | 戦後、内堀も埋められ往年の偉容は見られなくなった。 高虎を祭神とする高山神社も本丸の外に移り、現在は津市役所、津警察署がある。 跡地には日本公園があり入徳門(有造館の門)移築保存されている。 |
高山神社(こうざん)(丸之内) |
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藤堂高虎の祭神。市文化財安本光政彫刻画絵馬がある。 |
津藩藩校有造館跡(丸之内、NTT敷地内) |
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斎藤拙堂山荘跡を参照。 |
入徳門(にゅうとくもん)(丸之内) |
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ある記5 | ある記7 |
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津藩藩校有造門の門で、藩校時代の文教施設として残る唯一のもので、 津城跡の日本庭園に移築保存している。 |
観音寺(大門) |
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ある記7 |
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通常”津観音”と呼ぶ。恵日山観音寺は真言宗の大寺。 709年阿漕浦で漁夫の網にかかって本尊が出現したと伝えられる。 安濃津の港が栄えた頃橋南の柳山付近にあり門前町として賑わった。 織田信包の城下町形成で現在位置に移転した。 1600年関が原の余波を受け焼失、藤堂高虎が1641年再建した。 昭和20年戦災で全焼、昭和43年新本堂が完成した。 | 弥次さん喜多さんの「東海道中膝栗毛」では「参宮の人の落ち合う所にて往来ことににぎわしく」 と繁栄振りを書きたて1771年の「おかげ参り」の最盛期(6月)には観音境内の宿泊者が 毎夜千数百人にも達した。その他多くの市文化財がある。平成12年五重塔を建立中。 |
大宝院(大門) |
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橋南の柳山付近にあった観音寺が織田信包の城下町形成で現在地に移ったが、 元の3寺経営(恵音院・不動因・本願院)から六大院(大宝院)を中心とする七坊へと拡大した。 多くの市文化財がある。 |
西来寺(せいらいじ)(乙部) |
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ある記6へ |
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天台真盛宗の開祖真盛上人(慈摂大師)が開いたもので、現在天台宗真盛宗の別格本山になっている。 1490年安濃津の町民の願いで、観音寺で90日間説法をした。 たちまち信者が増えてついに西来寺を建てることになった。 室町時代の後期、観音寺・上宮寺等と共に柳山付近にあった。 | 城下町形成で現北丸之内に移りその後現在位置に移った。 昭和20年寺は焼失したが、本尊や寺宝は難を免れた。 重要文化財、県・市文化財が多くある。 柳山町には「西来寺塚」が、北丸之内には「西来寺町」「門前町」がある。 |
浄明院(乙部) |
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ある記6へ |
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1680年3代藩主高久が建立。臨済宗で寺号の長楽寺・長生院・浄明院と変わってきた。 寺名の浄明寺は高久の生母の法号。4代高睦(たかちか)の生母の霊とともに安置されている。 | 花崗岩の石塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり1318年の銘文が刻まれており、 三重県内では珍しい鎌倉時代の作例である。 |
上宮寺(乙部) |
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ある記6へ |
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西来寺等と共に城下町形成時ここに移った。真宗高田派に属する。市文化財が多くある。 |
寒松院(かんしょういん)(寿町) |
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ある記6 | ある記7 |
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藤堂高虎の霊を祭る寺院で高虎の院号から「寒松院」と名づけられた。 藤堂家歴代の菩提寺として重きをなし、1880年の明治天皇の三重行幸の時行在所(あんざいしょ) となった。戦災で全焼して復興はされていませんが、藩主の墓塔だけが残される。 | 現在、五輪塔は高虎婦人(松寿院)、初代高虎(寒松院)、2代高次(大通院)、 3代高久(了義院)、4代高睦(たかちか)(大享院)5代高敏(大輪院)を配している。 6代〜10代までは板石塔婆になり、北側には支藩の久居藩の歴代藩主の募塔がある。 |
地蔵院(中河原) |
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子安山地蔵院は真言宗だが、寺伝によれば中川原城主中川原伊豆守が、城中で守護仏として 祭っていた。子安観音として親しまれ安産の守護として信仰された。 |
重要文化財の地蔵菩薩像がある。
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潮音寺地蔵院(中河原) |
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ある記6へ |
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市文化財、阿弥陀如来立像がある。織田信長の伊勢侵攻に伴い平地の乙部から山地の渋見 に城を築いて戦ったと言う乙部藤政の守護仏と伝えられる。 |
贄崎(にえざき)(港町) |
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安濃津は伊勢神宮に塩や魚を奉献していた。乙部浦や阿漕浦は御贄所だった。 1800年頃灯台が出来てから民家が増え現在の名前になった。 | 1856年に新造船の港とし、1863年砲台を設置したが、試射行っただけである。 明治時代「お台場」と呼ばれ市民に親しまれたが、今その姿はない。 |
唐人踊り(分部町:現丸之内) |
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津の秋祭りは津八幡宮(八幡町)の祭礼である。 江戸時代前期の津の祭りには大名行列の真似、山伏の真似等「物真似」がが多く、 江戸後期では華麗な山車、踊り、はやしものが多くなった。 ところが分部町だけは最初から「唐人」行列で、唐人装束29人分を含め総勢 115人というにぎやかなものであった。 |
現在、幾分の変化はあるが異国的な珍奇な
「唐人踊り」が受け継がれている。
戦災で中断したが、昭和31年復活し現在の津祭りの人気者となっている。
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織部燈篭(西古河町) |
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国魂神社脇の倉田家庭園にある。「八王子之燈篭」として知られ、キリシタン燈篭 (マリア燈篭)との話もある。 |
津市図書館(西丸之内・リージョンプラザ) |
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「井田文庫」がある。「江戸時代の天文学関係資料」26点が市文化財。 大字神戸の医者井田理左衛門が京都で天文学に興味を持ち書物、道具を集め観測した。 |
谷川士清旧宅(八町三丁目) |
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津市の生んだ国学者であり、旧宅が保存されている。 士清は1706年生まれ、京都に出て医学・国学を勉強。父親の後をついで医者(産婦人科)になった。 士清は「日本書紀通証」(日本書紀を注釈した大書)であり、「和訓栞(わくんしおり)」 五十音順に配列されたわが国最初の辞書です。 |
「あ・い・う・え・お」は士清が作ったもの。士清音頭も出来て、各種行事で踊り等をしている。
士清の研究は活発。
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谷川神社(押加部町) |
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士清旧宅の近所。 自分の草稿や未定稿が残って後世に誤りが伝えられる事の無いように埋めたと言われる 反古塚(ほごつか)がある。 |
福蔵寺(押加部町) |
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谷川神社の隣にあり、士清の菩提寺で士清墓(国指定史跡)がある。 |
(南河路町) |
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那智参詣曼荼羅、熊野勧心十界曼荼羅があり、江戸時代初期に製作、 当時の庶民の宗教感覚を鮮明に表現したもの。 | 南河路では8月の旧盆に人々が集まって百万遍念仏を勤めていて、曼茶羅も掛けられる。 |
阿漕塚(柳山) |
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ある記3へ |
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母の病気に良く効くという”矢柄(やがら)”と言う魚を毎夜網を入れて捕った。 この当たりは伊勢神宮へ供える魚を捕る禁猟区になっていたため、捕らえられれ、 簀巻きにされ海に沈められた。 | しかし、海が荒れる等の災難があったため、塚を建てて供養した。 能や狂言でも上演され広く知られているが、根拠はハッキリしない。 |
市杵(いちき)島姫神社(下弁財町) |
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ある記3へ |
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1608年藤堂高虎が藩主になった後1660年頃から家が立ち始め、 その頃「市杵島姫神社」と「真教寺」が並び建って神仏習合の姿を見せた。 | 島姫神社を「弁財天」と呼び親しんだため、弁財町と改名、現在の上、下弁財町となる。 「閻魔大王」「十一面観音立像(円空作)」が新教寺にあり、島姫神社には「湯立釜」がある。 |
真教寺(下弁財町) |
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ある記3 | ある記7 |
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1608年藤堂高虎が藩主になった後1660年頃から家が立ち始め、 その頃「市杵島姫神社」と「真教寺」が並び建って神仏習合の姿を見せた。 島姫神社を「弁財天」と呼び親しんだため、弁財町と改名、現在の上、下弁財町となる。 |
「閻魔大王」「十一面観音立像(円空作)」が新教寺にあり、
島姫神社には「湯立釜」がある。
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津八幡宮(藤方) |
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ある記3へ |
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室町時代の足利将軍が男山八幡宮の分霊を垂水の千歳山に祭った。 その後、2代藩主高次が鷹狩の時の大雨で雨宿りに使ったのが縁で結城の森に新社殿を作った。 |
祭神は応神天皇・住吉大神ですが藤堂高虎も合祀されている。
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結城神社(結城) |
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ある記3へ |
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結城宗弘が祭神。三重県に関係の深い北畠親房、千種忠顕らと共に名が知られている。 南北朝動乱時の形成回復のため1338年北畠親房らは大湊(伊勢)を出帆したが暴風のため 四散した。宗弘は九死に一生を得て阿漕浦に漂着。 |
しかし病死した。臨終の時「尊氏の首を我が墓前にそなえよ」と遺言したそうである。
宗弘の死を安濃津としているのは「太平記」のみで大湊であると言う説もある。
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観海流(阿漕町津興) |
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ある記3 | ある記7 |
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「海を見ること陸の如し」というこの泳法は武道のひとつで、藤堂藩が採用し藩士を鍛錬し 発達した。 |
海洋スポーツセンタに泳法をあみだした泅水術観海流流祖宮発太郎像がある。
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三重県護国神社(広明町) |
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明治(1969)現津八幡宮の所に招魂社を建立。明治42年現在地に移転。約6万の御霊を祀る。 |