僕が陶を扱う理由は二つある。 一つ「陶」の地質学的な「普遍性」に対し研究したいと思ったから。
なぜなら「陶」という文化史には再構築すべき地球科学観の限界があり、
それを超えることが社会にとって不可欠と思ったからである。
一つ「陶」を通して表現する人々の世間には「近代」の負の遺産が未だ他の分野よりも闊歩している現状があり、
その中でもなお理想に向かい続ける人間の「発想・想像・創造力の輝き」にこそ命を賭ける必要があると思ったからである。
大袈裟になったが、有り体に言えば僕は陶の可能性を信じているし、陶が好きなのだ。

そこで僕の作品の素材は何かと聞かれれば、「陶土」ではなく「陶」と答えるだろう。
鑑賞者の感覚なら「陶」つまり焼き物は、それだけで完成したもの(日用食器・骨董)としての印象を与える。
ならば素材は「陶土」であり、「陶」は陶土の最終表現形態だ。
陶土による表現は陶芸家に始まり、瀬戸・信楽の陶工、果ては表現意識を強く持つ陶芸教室通いの生徒も行う。
僕はぼんやりとだが地質学の限界も近代の限界も陶土による表現では超えられないと感じている。
これがただの思い込みと趣向の偏りであっても、「陶土」ではなく「陶」による表現も可能であることは間違いない。
焼成の事を俗に「焼く」というが、「焼いたものを使いまだ見ぬ世界を見る」ことに可能性を感じる。
僕の表現は『「焼いてあればいい」のかもしれないし、「焼かなくていい」のかもしれない』ということかもしれない。