神明山砦 −秀吉方の第一防衛線
−長浜市余呉町−

主曲輪中央部の櫓台 主曲輪

名称:神明山砦
所在地:長浜市余呉町文室〜八戸
標高:294m
比高:150m
築城〜廃城:天正11年(1583年)3月〜4月

探訪日時:2011年10月1日   天 候:曇
コース・タイム:川並14:30〜権現坂14:47〜神明山砦15:12−15:48〜切通し15:57〜堂木山砦15:59−16:25〜切通し16:27〜中之郷余呉町火葬場16:34
【別所山砦の歴史】

1 天正11年1月、秀吉は南下する柴田勝家軍に先立ち、行市山の南に天神山砦を長浜城主柴田勝豊の部下で長浜衆と呼ばれた山路将監正国と大金藤八郎に築かせた。

2 柴田軍が行市山や尾根上に砦群を築くと、天神山砦は地理的に近い上に、標高も低く見下ろされる形となり、秀吉はこの砦を捨てて、その南側の尾根に砦を築き、神明山砦を大金藤八郎、木村小隼人、蜂須賀家政が入り、堂木山砦を山路将監正国、木下半右ヱ門が入った。なお、山路正国はその後柴田側に内応し行市山に逃れた。

3 この砦から北国街道を挟んで東側の東野山砦を結ぶラインで、第一防衛戦とした。

4 3月11日 秀吉が近江長浜に入り、決戦の準備を整える。 3月12日 勝家、玄蕃尾城に陣する。 3月18日秀吉、柴田軍の陣を視察し強固であることから、長期戦に備え、余呉湖周辺に多くの砦を築かせた。両軍しばらく対峙。 3月27日 秀吉、長浜へ一時下がる。 4月4日、勝家の一隊が、神明山砦を攻める。 4月16日 秀吉、岐阜の織田信孝挙兵のため、指揮を秀長に任せ大垣に入る。

5 4月20日 勝家の甥、佐久間盛政が大岩山を急襲する。(「み〜なbP08 総説賤ケ岳の合戦より」)
  以下の戦況は、こちらに
【砦の概要】

神明山砦は、東西200m以上に及ぶ大きさ。西の端に小さ
な曲輪があり、そこから数条の堀切があり、西の守りが強固。

主曲輪の中央部に一段高く櫓台が土塁に囲まれてある。
主曲輪の南北には帯曲輪がある。

倒木などはあるが、保存状態はいい。
【探訪記】

 余呉湖北側の川並の集落から、佐久間盛政が大岩山襲撃の際に通った権現坂を登る。登り口がわからずウロウロし、結局、正源寺の手前から山に入りシシよけの柵を抜けて、大きな堰堤右側の林道を進むとすぐに山道になる。余呉トレイルのモニュメントが迎えてくれる。

 15分ほどで、尾根に登りあがると、脇に地蔵さんが祀られた林道にでる。
YOGOTRAIL 峠の地蔵さん
 峠から東にすぐで林道から尾根上の山道に入る。意外に歩きやすく、植林と自然林が交互しいい感じの道、余呉湖は樹林で見えない。ガイドによればルート上の神明山砦までに、賤ケ岳合戦開始後、陣を移した前田利長が茂山砦があるはずだが、残念ながら確認できなかった。

 さらに進み、峠から30分ほどで神明山砦の西端に着いた。
主曲輪西側の堀切 主曲輪西側の土塁
櫓台跡 主曲輪と奥に櫓台
 小さな堀切のあと、さらに大きな堀切を越えると、主郭に着く。東西に長細くて土塁に囲まれ、中央に櫓台がある。また南北に帯曲輪が配されている。一段高い櫓台も周囲を土塁で囲まれている。
 雑木があるが、保存状態はよく、興味深い。

 主曲輪から東へは標高が低くなる地形に合わせて階段状に曲輪が連なっていた。
東端に大きな土塁が尾根を横切っており、ここで砦は終る。そこからはさらに下っていくと、送電線の鉄塔からは北に佐久間盛政などが布陣した行市山が近くに見える。もう一下りで、堂木山砦の間の切通しに着いた。
主曲輪の東側土塁 階段状の曲輪と土塁
砦の東端の土塁 神明山砦と堂木山砦の間の切通し

猛将佐久間盛政布陣の行市山が近い。

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