大岩山砦 賤ケ岳の合戦 佐久間盛政の奇襲
−長浜市余呉町下余呉−

曲輪跡 清秀首洗いの池
名称:大岩山砦
所在地:長浜市余呉町下余呉
標高:280m
比高:150m
築城〜廃城:天正11年(1583年)3月〜4月
【大岩山砦の歴史】

@天正11年(1583年)茨木城主 中川清秀が余呉湖東の大岩山に設置。
A同年4月20〜21日 柴田軍の佐久間盛政が行市山砦を出陣し、西浅井町集福寺〜権現坂〜余呉湖畔〜尾野呂浜を経由し、大岩山を急襲。
Bまだ、堅固な守備体制が整っていなかった大岩山砦、盛政方の兵8000に対し、大岩山の中川方は1000足らず。岩崎山の高山重友、賤ケ岳の桑山重晴に援軍を求めるもかなわず。
C味方はことごとく討ち死にし、中川清秀は雑兵に討たれるくらいならと、本丸で自害。享年42歳。
D落城の直前、清秀の弟、中川淵之助が「我こそは中川瀬兵衛清秀」と身代わりになって果てて、清秀の首は敵方に渡らず。
E下余呉の村人が、清秀の遺骸を本丸南の谷に移し、柴と木の葉をかけて隠し、7昼夜守った。

F大岩山の南200mほどの尾根道を東に少し下った谷に、清秀の首を洗ったといわれる「首洗い池」がある。
【探訪日】
日時:2011年9月18日  天候:晴れ
コース:余呉観光案内所13:40−岩崎山砦−大岩山砦−賤ケ岳砦−飯浦切通し−余呉湖荘−余呉観光案内所17:05
曲輪への登り口 曲輪
【探訪記】

 岩崎山砦から整備された山道を進み、途中林道に合流して少しで、大岩山砦に着く。「青嵐大岩山」と刻まれた石碑と「中川清秀の墓」という案内板がある。ここには岩崎山にはあった砦の縄張り図はなかった。

 曲輪には周囲に低い土塁が一部残っている。曲輪は南北20m、東西40mほど。曲輪の奥には中川清秀主従の供養塔がある。これは百回忌の天和2年(1682年)豊後岡城4代城主中川久恒(清秀の5代嫡孫)がその霊を供養せんと祖宗主従の眠るこの地に建立した。
清秀の墓と土塁 曲輪
 曲輪から戦ケ岳の方向へ尾根上の道を200mほど進むと、「首洗い池」の案内板がある。それに従い東の方に少し下ると、水の澄んだ小さな池があった。周りには久しぶりに見たトノサマガエル(?)がピョンピョン跳ねている。この自噴井で、下余呉の村人が清秀の首を洗ったといわれる。

 なお、村人たちは清秀の供養を続け、「中川組」と称して12人の村人が講を組織し、何と現在まで連綿と受け継がれてきている。
 ちなみに、天保15年(1844年)、豊後岡城の藩主中川久教が江戸からの帰参途中に墓参している。この際には、中川組の代表2人が関ヶ原宿に参上して献上品を渡し、道案内役を申し出ている。
 さらに、昭和57年(1982年)の没後400周年記念法要の際には、全国から関係者が参列したいそうな立派なほうようだったとか。(みーなvol108号「中川清秀を祀る中川組」より)
首洗いの池 猿が馬場
 猿が馬場は、大垣から大返ししてきた秀吉が、佐久間軍追撃のため指揮した場所で、その後、戦場が余呉湖西岸に移ったため、陣を賤ケ岳山頂に移したといわれる。(現地案内板より)

 そして、いよいよ賤ケ岳砦へ向かいます。

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