賤ケ岳砦 遺構よりも展望が
−長浜市木之本町大音、余呉町川並−

余呉湖と城砦が築かれた周囲の山々 遠く伊吹山とその手前が小谷山、右に虎御前山
名称:賤ケ岳砦
所在地:長浜市木之本町大音、余呉町川並
標高:423m
比高:290m
築城〜廃城:天正11年(1583年)3月〜4月
【賤ケ岳砦の歴史】

@天正11年(1583年)3月12日、柴田勝家軍に対抗すべく、羽柴軍は賤ケ岳、田上山を中心に陣城群を構築する。夜を徹して作業が進められた。賤ケ岳砦には、桑山重晴、羽田長門が守備した。
A同年4月20日、佐久間盛政軍が大岩山砦を落とし、賤ケ岳を守備する桑山重晴と対峙した。
B秀吉は20日午後2時、大岩山陥落の報を聞き、1万5千の部隊が13里(約52km)を二時半(5時間)で大返し。夜半までに全軍が木之本田上山に着陣。
 4月21日午前2時頃、田上山を降り、黒田観音坂を経て払暁盛政軍を攻撃。盛政は退却し余呉湖西の権現坂あたりに至る。あわせて盛政軍の退却を援護していた柴田勝政軍も退却すると、秀吉は近侍の若武者に勝政軍への突撃を命じた。ここで、賤ケ岳七本槍の活躍が展開した。
 七本槍とは、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、片桐旦元、糟屋武則、脇坂安治で、戦後、秀吉から感状と恩賞をもらったが、7人以外にもあと2人いたらしい。桜井佐吉と石河兵助である。9人であったものが七本槍となったのは、江戸時代後世の人々によって名づけられたらしい。他の地でも、小豆坂七本槍、蟹江七本槍、上田七本槍などがあるらしい。
C秀吉側の急迫を受けた柴田軍は次々と潰走した。この時、権現坂の背後の茂山砦にいた柴田方の前田利家は兵をまとめて塩津方面に下り、同時に不破勝光、金森長近も前年の秀吉との密約を履行して戦線を離脱した。
D勝家本隊は余呉町今市の狐塚あたりに南下し、秀吉の攻撃を防いでいたが、ついに、近臣の意見を入れて北陸へ落ちていった。
E賤ケ岳の合戦後、廃城となった。(みーな108号「総説賤ケ岳の合戦」などより)
砦の西側曲輪の土塁 砦東尾根上の堀切上の塹壕跡?
観光のための兵士像 東側曲輪から中央の曲輪方向
【探訪日】
日時:2011年9月18日  天候:晴れ
コース:余呉観光案内所13:40−岩崎山砦−大岩山砦−賤ケ岳砦−飯浦切通し−余呉湖荘−余呉観光案内所17:05
【探訪記】

 余呉湖畔から岩崎山砦大岩山砦を経て、いよいよ賤ケ岳砦へ。これまで何回か来たが、砦目的は初めて。でも、すっかり観光地化しており、なかなか遺構をはっきり確認できる箇所は少ない。

 まずは、東の尾根の急坂を登って山頂の砦に着くが、その手前に尾根を横に掘った堀切上の塹壕跡がある。ササに覆われ確認しにくいが、解説本によると、堀内部に身をかがめて尾根筋を攻撃する敵を迎え撃つ塹壕と書いている。

 山頂の曲輪は15時40分頃だったが、まだ観光客がリフトで登ってきている。何といっても展望が素晴らしい。
まずは、余呉湖と、その北側の尾根には堂木山砦、神明山砦、街道を挟んで東野山砦、右奥の行市山など多くの砦が築かれた歴史豊かな山々が一望。入り組んだ入り江を持つ美しい奥琵琶湖、南には湖北の田園地帯と小谷山や伊吹山、特に今日は空気が澄んでラッキー。
余呉湖と左奥に行市山、右に東野山 静寂の奥琵琶湖と遠くに竹生島
遠く伊吹山とその手前が小谷山 南に続く尾根と先端にちょこっと山本山
 帰りは北西への尾根へ下る。すぐに明らかな堀切があり、その後はなだらかな雑木林の中の気持ちのいい道。500mほどで、大きな飯浦切通しに出る。木之本町飯浦と余呉とを結ぶ旧道の峠で、まさに大きな堀切となっている。北からの柴田軍の侵攻を食い止める要害となっている。(「近江城郭探訪」県教育委員会編)

 この切通しからは余呉湖に向かって下っていくと15分ほどで余呉湖荘の隣の湖畔に出て、あとは湖周の道路を歩いて出発地に戻った。
 この周回コース長いですけど、お薦めです。
砦北西尾根の堀切 飯浦切通し

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