玄蕃尾城跡:柴田勝家の本陣

−完成度高く、保存状態も極めて良好−

主郭 馬出し(左)と虎口郭(右)
主郭北側の虎口 主郭の北側の虎口郭(搦手郭)
名称:玄蕃尾城
所在地:長浜市余呉町柳ケ瀬、敦賀市刀根
標高:468.2m
比高:
築城〜廃城:天正6年(1578年)あるいは天正10年(1582年)〜天正11年(1583年)

日時:2011年5月5日(祝)   天候:晴れ
コース:余呉町柳ケ瀬〜玄蕃尾城跡へ往復 約2時間30

【玄蕃尾城の歴史】

@築城は2説。天正6年に勝家が北国街道を整備し、越前衆を動員して築いたというもの、天正10年の本能寺の変後に本拠地越前北ノ庄と長浜をつなぐ要衝として整備したという説。
A天正10年12月7日、秀吉、勝家の養子柴田勝豊の守る長浜城を包囲し降伏させる。
B天正11年3月9日、勝家、北ノ庄を出陣。
C同年3月12日、勝家、玄蕃尾城に本陣を置く。
D同年20日未明の佐久間盛政の大岩山砦奇襲、秀吉の大垣からの大返し、前田利家の撤退などにより、本陣を狐塚に移した柴田軍も総崩れとなり、越前へ敗走。

 GWの家族サービス、どこに行っても混むけど、ここだったらそんなにも人はいないだろうし、行ってみたいとこでもあったのでと、柳ケ瀬山:玄蕃尾城跡へ。
 柳ケ瀬の集落はずれから歩き始め、杉の植林帯の幅広い山道を歩くとすぐに明るい雑木林の中に。青空の下、若葉がキレイで、気持ちも晴れてくる。
 いろんなスミレやイカリソウなど、花もあちこちにたくさん。 新鮮だったのは、ヤマツバキ(ユキツバキ?)の群落。あっちこっちに赤い鮮やかな花を咲かせてました。

ヤマツバキ(ユキツバキか?)

若葉が芽吹く中、木々の花も。

ムシカリ カナクギノキ

 そして、久々坂(刀根越)から、玄蕃尾城跡へ。この峠は、南の行市山への分岐。

 いよいよ山道らしくなった坂を登ると、中尾山(柳ケ瀬山)の三角点。そして、少しで国指定史跡「玄蕃尾(内中尾山)城跡」に。
 この城は、賤ケ岳の合戦(天正11年 1583年)の際に柴田勝家の本陣が置かれたところ。長浜城と北庄城との中間になる越前と近江の国境上に築いたという。城跡は直線的な土塁と横堀によって築かれ、さらに馬出を設けるなど敵が城内で直進できない複雑な構造となっている。合戦当日は、本陣を離れて余呉町今市の狐塚にいて、秀吉の猛攻に耐えかね福井に落ちたという。

 案内板が設置され、城跡も地元に人たちによってとってもきれいに整備され、当時の城跡の様子がよくわかる。

城跡の概要図

 そして、城跡の様子は素晴らしい。

主郭(本丸) 主郭から南の馬出し(左)、虎口郭(右)
主郭の北東隅の天守台(標柱の場所) 主郭から木之本方面を望む

 眼下に北国街道、そして街道を挟んで向かいの山に築かれたと相手方砦である、東野山砦、田上山砦まで遠望できる。

主郭東南隅下の腰郭とその間の竪堀

  1583年3月12日に、勝家はこの内中尾山の玄蕃尾城に陣を置いた。しばらくの対峙の後、4月16日秀吉が岐阜の織田信孝の挙兵に対し大垣に入ったことを知った勝家の甥、佐久間盛政が余呉湖東岸の大岩城を攻め、守将中川清秀をうった。 ここで勝家の命に反し引かなかったため、想定外の秀吉の大垣からの引き返し(13里:52kmを二時半:5時間あまり)で退却を余儀なくされ、賤ケ岳七本槍の活躍や前田利家等の戦線離脱もあって総崩れに。
 

出郭北側の虎口 主郭北西の虎口郭(搦手郭兵站基地)

 勝家の身代わりとなった毛受勝助など兄弟など様々な武将の働き、逸話が残る賤ケ岳の合戦。湖北の地には戦国のいろんな話が埋もれ、地域の人たちが大切に守られてます。

 この城は、賤ケ岳の合戦で築かれた城砦の中でも最もすぐれ、整った縄張りといわれ、極めて貴重な遺構として国指定史跡となっている。
(「近江の山城ベスト50を歩く」中井均編、「近江城郭探訪」滋賀県教育委員会編、「戦国の山城」全国山城サミット連絡協議会編より)

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