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京極氏は近江の守護であった六角氏の一族であり、湖北地方において守護に準ずる立場にて統治しており、米原市の上平寺城などに拠を構えていた。横山城の詳しい築城年月は不詳であるが、京極氏の支城の一つであったと思われる。この京極氏の有力家臣団であった浅井氏が、京極氏のお家騒動を機に台頭することになり、永正14年(1517年)に浅井亮政が城を奪ったとされる。以降、京極氏は小谷城に京極丸として名を残したが、京極氏に対する浅井氏の名目に過ぎなかったとおもわれる。永禄4年(1561年)の浅井長政の時代になり、横山城は改修され小谷城の出城の役目を担ってきた。 織田信長は元亀元年(1570年)4月の朝倉攻めの際、敦賀金ケ埼城にて信長の妹お市の婿であった浅井長政に背後をつかれ京都に退却した。その際殿軍は木下藤吉郎や明智光秀が務めていたとされている。これを機に元亀元年6月28日に織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が姉川にて対戦することになった。この姉川の合戦は決着がつかなかったとされている。24日には横山城に連なる龍ケ鼻に陣を構えた。その後信長軍は浅井の出城であった横山城を攻めたたところ、横山城には大野木土佐守秀俊や三田村国定らが守っていたが、抵抗もなく降参したため信長軍が代わって入城した。 織田信長は小谷城と対峙する重要な拠点として、木下藤吉郎秀吉を城将として守らせた。秀吉は弟の木下小一郎秀長、蜂須賀小六正勝、竹中半兵衛重治、前野長康らの家臣団とこの横山城の改修を行った。特に浅井氏に対峙するために、南城を主郭としての構えの拡充を図った。秀吉は元亀2年(1571年)5月6日には信長側に寝返った、堀秀村や樋口直房らの箕浦城を援護する戦に参戦し、浅井の率いる湖北一向一揆を下長沢で迎え撃った。8月20日には台風により横山城の塀や櫓が吹き飛ばされと言われている。秀吉の得意な分野でもある浅井氏家臣の阿閉貞征の凋落を図り、山本山城をも手に入れ浅井をじわじわ追い詰めた。年号が変わって天正元年(1573年)8月の小谷城攻めのときには、虎御前山に本陣を設け小谷城の京極丸を兵3千人で攻め落とした。浅井長政の妻となっていた信長の妹お市の方や3人の娘も、無事救出させたと言われている。 秀吉は足かけ4年の長きに渡り、城将として浅井氏に対する近江北部の前線基地の横山城を守ってきたことが、この後の主君信長の天下統一への戦略に大きな影響を与えたと言わざるを得ない。この後横山城は天正12年(1984年)頃まで存在したと考えられている。 これらの功績により信長より浅井旧領地の湖北3郡を与えられると、小谷城より南の湖畔ある今浜と言われていた長浜に、長浜城の築城に着手した。やがてこれを完成させ、天正3年(1575年)に晴れて名実とも一国一城の大名となった。 |