高橋順之の故郷歴史散歩  

伊吹町教育委員会高橋さんの伊吹山周辺の歴史物語(人・者・文化の交差点)をご紹介します。

 目次: その2:それは縄文人から始まった  その3: 西仏坊異聞   その4: 関ヶ原合戦編京極兄弟の決断

その1 本願寺教如走る 峠を越えた人々               

 滋賀県伊吹町上板並は、姉川上流にあり、伊吹山山地にいだかれた自然豊かな村です。板並の東にある国見峠は、その昔、西美濃と北近江を結び、人や物資が活発に行き来した主要道でした。車社会になるまでは、川伝いに大きく迂回するよりも、峠道を一気に越えた方がよっぽど早かったのです。山を隔てた岐阜県春日村美束はそれこれ隣在所。再び交流も始まりました。そして、そのど真ん中に位置する、伊吹町上板並の峠道を駆け抜けた人たちの話からはじめます。
 戦国時代が終わりを告げた関ヶ原合戦の前夜のことです。
美濃春日谷から、夜の闇にまぎれて国見峠をひそかに越える一団がありました。足元だけをようやく照らすたいまつのほの暗い明かりを頼りに、人一人牛一頭がようやく通れる峠道を、近江の国の板並の村をめざして、しわぶきひとつたてずにただ黙々と下っていきました。
足俣川に沿っていた道は、やがてひとつの峠を越え、板名古川の上流に出ました。渓流のしぶきに濡れて漆黒の岩肌をみせる「さざれ石」にときに足元を取られながら、奥深い伊吹山山地の山懐をひたすら進んで行きました。
「お上人様、まもなく炭山の村に入ります。そこまで板並の衆がお迎えに来ているはずです。」「炭山の村から板並までは一里半、明け方には、万伝寺様に着きましょう。」「幸い石田方の探索もかわせたようです。」
旅姿の上人を囲んで、案内役の春日村の信徒十五名がねぎらいの言葉をかけました。彼らの胸にも、重要な役割をまもなく果たし終える安堵感が生まれてきました。
 炭山村は、江戸時代頃まで板名古川の上流にあったという村です。この村で、板並の信徒たちに迎えられた「お上人」は、本願寺第十二世教如上人です。織田信長と石山本願寺の合戦で十年にわたり戦い抜かれた上人は、僧侶というより信宗王国を束ねる戦国武将そのままのお姿です。いまも、交友の深かった徳川家康に、石田方の動きを知らせるため関東に下り、その帰り道、美濃の国で石田方の襲撃にあったために、逃れ逃れて、春日谷の鉈ヶ岩屋にしばし潜んだあと、北近江の門徒衆を束ねる内保(現浅井町)の誓願寺に向かう手はずになっていたのです。
 「わしら美束のものと板並の衆は、もののやりとりから、嫁入りやら人の行き来まで隣村としてのつきあいです。しばらく万伝寺様でおからだをお休めください。」「なにせ、岩屋では、ヒエやアワの餅ばかりでしたからの。」
 炭山村で板並の村人十数名に迎えられた教如上人は、途中「弘法の水」でのどを潤しながら、板名古川沿いの今までより幾分楽になった道のりを、板並の村まで急ぎました。
 教如上人は、上板並万伝寺に逃れたあと、清水家に身を寄せました。このとき仕えた娘が身ごもり、女の子を産んだと伝えられています。また、寺には教如水と呼ぶ池があり、今も水をたたえています。教如伝承から始まった五ヶ寺報恩講や、国見道の教如杉など、国見峠を駆け抜けた教如伝説が色濃く残っています

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