高橋順之の故郷歴史散歩

その3 西仏坊異聞  峠を越えた人々

 

国見峠を明け方越えてきた。姉川の谷筋に出て、板並の村からトッサ、ニャーザの細道をたどり、足又川を渡って北へ向かう峠道にさしかかる。さほど高くない峠の頂点までくると、眼下には姉川の峡谷にはりついてくらす吉槻の村が見えた。家々からは夕げを炊ぐ煙が立ちのぼっている。
「この村も豊かになった。」

西仏坊は、二十年近く前の谷筋の情景を脳裏に浮かべながら、奥に続く深い谷を望んだ。そこには、懐かしい曲谷の村人がくらしている。

 治承四年(1180)九月七日、主君木曽義仲が兵を挙げた。
この年の二月、わずか三歳の孫を天皇の位につけた平清盛の権勢は絶大なものとなっていた。だれもが平家の世が永遠であることを疑わなかった。しかし、清盛の足元についたわずかな火は、あっという間に広がって東国で燃え上がった。八月十七日、伊豆で頼朝が立ち、各地の源氏を吸収した。義仲は、すかさず信濃国木曽で呼応した。「おごる平家は久しからず。」富士川の合戦での平家軍のていたらく、翌年には国の柱平清盛が苦悶の末に世を去り、平家政権は坂道を転がり落ちるように落日を迎えた。
 真っ先に京都に攻め上がった木曽義仲は、「朝日将軍」として京童にもてはやされた。このとき覚明と名乗った若き日の西仏坊は、書記官としてそば近くに仕えていたのである。
しかし、都での暮らしは田舎武士にあわず、上皇をとりまく貴族の陰謀は、義仲を追いつめる。つかの間の夢、義仲は巴御前とともに粟津の波間に消えた。
 主を失った西仏坊は、近江の山間を伝いながら伊吹山麓にでた。ここから道を東にとって東山道を木曽に向かうのは、残党狩りを続ける頼朝軍の思うつぼだ。西仏坊は、姉川の狭隘な谷間に潜り込んだ。今の大字伊吹から小泉にいたる峡谷は、伊吹山が迫って谷を押しつけ川をせき止め、満々と水をたたえていた。足元がくずれ深い淵に何度も身を沈める。ほうほうの体でようやく身を落ち着けた先が曲谷村だ。
 姉川上流の村々は、どこも自給自足のギリギリの営みながら、それだけに結束が強かった。西仏坊は問われることなく曲谷の村人に迎えられた。春、村の子供らと山菜を求めて山に入り、夏から秋には姉川や起し又川で渓流魚を漁る。冬の狩りには、時には義仲や巴御前を思う。そんな日々が過ぎていった。
「なに見てるのさ、西仏っさん」
「いや、姉川にはお前さんの身の丈ほどのミカゲ石が多いが、この奥の山にはこの石が多いのか」  「五色の滝やら寺谷にはゴッゴッと出てるさ」
「とうちゃんらは、この石割って家の重しに使っているよ」
 西仏坊が、姉川の河原に白く光る花崗岩の岩塊を飽かずに眺めているのをみて、取り囲む子どもたちが口々にたずねる。
「うん、木曽にはこれと同じ石が出て、村のものが石仏や石臼を作っているのを思い出した。」
西仏坊は、勢い立つと曲谷村の坊主洞ヶ坊宗海に面会を求め、自分の胸の内を打ち明けた。
「甲津原の石はやわらかすぎ、吉槻の石は硬すぎる。ここの石はその間で細工にはもってこいだと見ました。これから木曽に戻り、春には石工を連れてきます。この村で石仏や石臼を生産して、伊吹山の寺々や国司の従者たち相手に銭と交換するのです。なあに姉川を船で下れば、たやすく琵琶のうみまで運び出せます。姉川の村々がみちがえるような豊かな里になりますよ」

 西仏坊はさっそく村を立ち、つぎの春に木曽の石工を数人連れてきました。この年から、曲谷を中心とした姉川沿いの村々で、花崗岩を刻む音が響くようになりました。曲谷は昭和のはじめまで石臼の産地として、北近江から岐阜県西部地域まで製品を供給してきました。地元では鎌倉時代に西仏坊が石材加工を伝えたといわれています。実際、村のあちこちに今も残る石塔には、この時代の作品をもっとも古い例として見ることができます。
     
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