高橋順之の故郷歴史散歩

その4 京極兄弟の決断  峠を越えた人々  (関ヶ原合戦編1)

 慶長五年(1600)年九月十五日、美濃国関ヶ原。東軍徳川方の戦陣は福島正則隊。その後方に、約三千の軍勢を率いて京極高知が布陣していた。高知は、わずか五十年前まで上平寺城(伊吹町)を本拠地として北近江を支配していた大名京極高吉の次男である。午前八時、突如、関ヶ原に銃声がこだました。
「なにぃ!先陣は福島殿のはず、抜け駆けは誰ぞ」
 高知が叫ぶ間もなく、前面の福島隊六千が、巨大な生き物のようにうねりをあげて、一気に宇喜多秀家隊に突撃した。戦後、井伊直政に伴われた家康四男・松平忠吉が、わずか三十騎で宇喜多隊に銃撃を加えたことが判明したが、いずれにしてもこの二人に先をこされて烈火のごとく怒りくるう福島正則により、合戦の幕が切って落とされた。
 高知も間髪入れずに藤堂高虎の軍勢と呼吸を合わせ、藤子川対岸の大谷吉継隊に銃撃を加えながら突っ込んでいった。
 『兄上、今しばらくの辛抱でござる。この合戦は我らの信念どおり徳川殿の勝利になりましょう。高知は戦場での武功をひっさげ、真っ先に大津城に向かいます。』全神経を、突撃する将兵と大谷隊の動きに集中しながらも、高知の 胸中には、居城・大津城で関ヶ原に向かう西軍機動部隊一万五千を阻止している兄・高次の一刻も早い救出があった。京極家の家紋四結が黄金に輝く緋糸おどしの鎧をつけた28才の若い肉体は、群がる雑兵をはじけとばすように寄せ付けない。一進一退の激戦は正午まで続いた。

‥‥「近江の名門といわれながら、このていたらく!」あの日、伊吹山七曲峠で、悔しげに琵琶湖を眺める高次が、自分自身にぶつけるよう吐き捨てたのを高知は聴いた。二人は明智光秀の誘いに乗って、京極浅井の旧臣をまとめ上げると、秀吉の居城長浜城を攻めた。よもや光秀の天下がったった11日で潰えるとは。

‥‥「高知、京の町衆がわしのことをどう言うているか知っておるか‥‥。尻螢大名じゃ。」兄弟は、あらから国見峠を越えて美濃、蠅帽子峠から越前、さらに親戚である若狭の大名武田元明のもとに逃れた。しかし、頼る元明も秀吉に殺され兄弟にも死が迫る。ここで二人を救ったのが元明に嫁いでいた妹竜子である。好色な秀吉が竜子を見初めたことで兄弟は救われた。
「妹のお陰で大名として残ったゆえ尻蛍。うまいことを言うのう。」「しかし、京極家の存続が第一」「そうじゃ、近江に鎌倉以来の佐々木京極家の旗を再び立てようぞ」
 以後秀吉のもとで、九州征伐、朝鮮出兵などがむしゃらに功を重ね、高次もまたたく間に大津六万石の大名となり、従兄弟である淀君の妹お初をめとった。高知も信州飯田六万石を領し、京極家の再興はなったかのようにみえた。
 慶長三年(1598)年、世継ぎ秀頼の先行きを案じながら秀吉死去。政局は混乱し、徳川家康の勢力が急速に台頭、石田三成を中心とする淀君・秀頼方の対立が表面化した。
「福島正則ら豊臣恩顧の諸大名はすでに家康殿に組みしております。大津城には淀君殿からお味方にとの申し状があるようですが、お江殿(淀君の末の妹)は徳川秀忠殿のご内儀。京極家は如何なさいます。」湖上に浮かぶ大津城天守で、はるか湖北を望みながら高知がたずねた。
「この先、戦となれば、それは徳川殿対石田殿の戦。秀頼公の立場が揺らぐことはあるまい。ただ、わしが預かるこの大津城は京大阪と東国を結ぶ要の地。わしの手でこの一戦を左右することができる。」「すでに兄上は定められているご様子。」
 遠くふるさと伊吹山を見つめる高次の言葉に迷いや濁りはない。京極家の再興を願いながら何度も辛酸をなめた兄の37年の障害に思い及んで、高知も我が意を決した。
 慶長五年五月、高次は上杉征伐に向かう家康を大津城に迎え契りを交わした。

 正午、突如松尾山が動いた。小早川勢が友軍の大谷隊に襲いかかり、これを見た脇坂・朽木ら諸隊にも裏切りの連鎖反応が起こった。高知はさらに攻撃を強化し、まず平塚為広隊を撃破、大谷隊を押しに押す。午後1時大谷隊崩壊、続いて小西行長隊が伊吹山方面に敗走、宇喜多隊も伊吹山めざして落ちていく。午後2時、全線が破れる中、最後まで留まった石田隊も大混乱のまま西へ敗走して勝敗は決した。
「京極隊は速やかに大津城救援に向かわれるべし」すぐさま家康からの早馬が届き伝令を告げた。
「ありがたきかな。」高知は山田・多賀などの重臣に兵をまとめるべく指示をすると、単騎中山道を近江に向かう。懸命におう近従の武者を糾合して一気に米原湊まで駆け抜けると、「狼煙を上げい」そのころ、ようやく兵をまとめた重臣たちが追いつき、二千数百の軍勢が息を飲む中、狼煙が高々と上げられた。
しかし、空は曇り対岸の山々すら時にかすむ。「ええい、残党・西軍諸城には構わず大津に駈けよ」高知は、兄に届くように叫んだ。

 さて、高知は八日から西軍の猛攻を大津城で支え、まさに関ヶ原の前日にやむなく開城しました。高知は近江八幡で報に接し無念の涙を流します。しかし、家康は、西軍機動部隊を決戦当日まで引き留めた功績を高く評価し、恥じて高野山に籠もる高次を説得して若狭九万二千石を与えています。高次の勇断こそ、京極家を江戸幕府大名として明治まで存続させた決断なのです。

次回:関ヶ原合戦2「三成山麓を行く」 次々会関ヶ原合戦編3「秀家変化」を予定

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