林谷山砦 毛受兄弟、忠義の奮戦の地
−長浜市余呉町新堂−

毛受兄弟の砦跡 徳山五兵衛秀現の砦跡
名称:林谷山砦
所在地:長浜市余呉町新堂
標高:255m
比高:75m
築城〜廃城:天正11年(1583年)3月〜4月
日 時:2011年9月23日  天 候:晴れ
コースタイム:小谷林道入口10:19−標高402m登山道入口10:45−別所山砦10:55/11:20−行市山砦11:45/12:15−登山道入口12:40−中之谷山砦−橡谷山砦−林谷山砦−毛受兄弟の墓(登山口)13:30
【林谷山砦の歴史】

 天正11年(1583年)、賤ケ岳の合戦の際、柴田方の毛受兄弟、徳山五兵衛秀現、不破勝光が布陣したところ。
【探訪記】

 中之谷山からさらにマウンテンバイクで山道をダウンヒル。乗りやすいダウンヒルが続き、なんとなく思い出してきた。MTBでの下りは早く、すぐに林谷山砦跡に。
 行市山の砦群の地図と林谷山砦への表示がある。また、金森長近の橡谷山砦への標識もあるが、そこは尾根から少し下った平坦地なので、そこなのかどうか、よくわからない。
 林谷山砦へはなだらかな尾根のいい道を300mほど行った所にある。
行市山砦群の説明板 林谷山へのルート
 林谷山砦は細長い尾根上に削平された、曲輪が並んでいる。
まずは、毛受兄弟の砦跡、土塁を越えると徳山五兵衛秀現の砦跡、と標柱のある曲輪がある。現在は雑木が茂り、展望は利かない。さらに奥にも造作されたような遺構のようなものがあるみたい。突然、ニホンジカが駆け出しドキッとする。
曲輪跡
【毛受兄弟の奮戦】

 林谷山の麓には「毛受兄弟之墓」が地元の人たちの手で守られている。
毛受勝助家照と兄の茂左衛門の兄弟。柴田柴田勝家の身代わりとなり、勝家の馬標を持って林谷山に駆け上がり、秀吉軍と死闘を演じ果てた、忠義の武士である。

 敗色濃厚な柴田軍は、狐塚で将兵も動揺し、勝家はここで敗れて逃げるよりも秀吉と一戦を交え打ち果てようと覚悟を決めていた。その時、重臣達はひとたび越前へ逃れて再起を図るべしと進言した。
 なかでも毛受勝助は、「是にてゆいがひなき討死をなされ、名も知らぬものの手にかかり給はば、後代まで口おしかるべし。願くは北庄へ御帰陣なされ、御心しずかに御自害候へ。(太閤記)」と北庄城へ落ちることを進め、さらに、最後の奉公として、一人でも多くの敵を道連れにする覚悟ゆえ、勝家の御名と馬標をお遣い下さいと、申し出た。
勝家は、これからはこの本陣の采配を全て任すと、勝助に馬標を渡し、北国街道を北に向け駆けた。

 馬標を受け取った勝助は、林谷山に駆け上がり、勝助の兄茂左衛門も合流し、総勢500人ほどが陣取った。秀吉方はこの馬標を見て鉄砲隊で持って攻撃をかけ、次第に味方を失っていった勝助は最後に、我こそは柴田修理亮と名乗るは偽り、柴田の中に毛受ありとは我がことなり、武士の最後を飾りここに散らん。と、兄茂左衛門らとともに打ってで、ついに討ち死にした。勝助26歳、茂左衛門29歳。

 秀吉は、首を見て勝家の身代わりとわかり、敵ながらあっぱれと勝助の忠節に感動し称賛。亡骸を丁寧に葬り、林谷山の麓全長寺の僧に弔いを依頼し、北に急いだという。
毛受兄弟之墓
 毛受兄弟の墓は、明治9年(1876年)、滋賀県令籠手田安定が、毛受兄弟の活躍に感銘を受け林谷山を訪れたが、その際に野積みされ忘れ去られた彼らの墓の存在を知る。心を痛めた籠手田氏は、墓石を300mほど離れた現在の場所に移築した。

 以降これまで、勝助や盛政の遺族のほか、地元の人たちでつくる「毛受保存会」の手で守られています。
保存会は墓のある「毛受の森」や行市山登山道の整備、さらにはその活動により遺族ら関係者との交流も広がっているとう。なんと、毛受さんの遺族だけでなく、勝家の家の第14代当主や盛政の16代当主も参拝されているという。

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