別所山砦 前田利家の陣城
−長浜市余呉町小谷−
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砦跡 | 屈曲する土塁(横矢折れ) |
名称:別所山砦 所在地:長浜市余呉町小谷 標高:444m 比高:260m 築城〜廃城:天正11年(1583年)3月〜4月 |
日 時:2011年9月23日 天 候:晴れ コースタイム:小谷林道入口10:19−標高402m登山道入口10:45−別所山砦10:55/11:20−行市山砦11:45/12:15−登山道入口12:40−中之谷山砦−橡谷山砦−林谷山砦−毛受兄弟の墓(登山口)13:30 |
【別所山砦の歴史】 @天正11年(1583年)、柴田勝家方の陣地として、能登七尾城主前田利家、府中城主前田利長父子が、同年2月初旬から4月までの2月余で構築した。 A柴田軍の本陣である玄蕃尾城から人馬も通れる軍道が行市山頂へ続き、さらに尾根上に別所山、中之谷山、林谷山の各陣地が築かれて結ばれていた。 B同年4月21日、柴田軍の敗走により廃された。 |
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【城の構造】 @土塁で堀で囲まれた南北34.8m、東西36.6m方形の郭を中心に、兵を駐屯させる平坦地を接続させる比較的単純な構造。 A郭の周りには高さ1mほどの土塁と空堀が残っている。 B賤ケ岳の合戦は、日本の合戦史上稀に見る築城戦と言われる。 羽柴軍は、北国街道封鎖を目的に、東野山砦、堂木山砦、神明山砦を第1防衛ラインとし、大岩山砦、岩崎山砦を第2防衛ラインとし、その背後に本陣を置いた。 そして、柴田軍は、西の尾根上から近江進出を目指し、越前国境の玄蕃尾城を基点に尾根上に軍道を開き、行市山砦、さらに東に派生する尾根上に別所山砦ほかの砦を築いた。 そこで、それぞれの城を比較すると、羽柴方が高度な築城技術を駆使した陣城に対し、柴田方は、玄蕃尾城を除き比較的単純な構造となっている。これは、築城の技術力の差ではなく、柴田軍の南進を防ぐことを目的とした羽柴軍と、北方から防衛ラインを突破し、北近江への進出を目指した柴田軍という、双方の戦略の相違が現れたものと考えられている。 (滋賀県文化財学習シート遺跡編 別所山砦跡より) |
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郭と土塁 |
【探訪記】 行市山はだいぶん前にマウンテンバイクで林道を登った後、担いで山頂に上り、山道を麓まで下って以来2回目。そのときは「ふーん、賤ケ岳の合戦の山城跡があるのか。」と説明板を読んだだけだったが、今回は山城そのものを目的に来た。 林道はもちろん車でも行けるが、久しぶりにMTBで林道を3kmほど汗かいて20数分で登ってきた。ここで、何と、2人組の山屋さんがいて、昔の軍道あとを玄蕃尾城まで行くという、これも羨ましいコース。 標高404mの登山道合流点から歩いて、しばらくで別所山砦あとへ。説明板が新たに3つ設置されよくわかる。郭と、取り巻く土塁と空堀と土橋、虎口跡など明確に残っている。東側の土塁は屈曲に曲げられた側面から敵を攻撃する「横矢折れ」の構造も見られる。 土塁のササなどを切り取るともっとはっきり遺構がわかって興味も深まると思う。 砦の西からは、南への展望が開け、羽柴方の最前線、堂木山砦、神明山砦の尾根、その向こうに大岩山砦、賤ケ岳砦のある尾根、そして本陣の田上山砦がよく見える。 |
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中央の尾根に堂木山砦等、その奥に 賤ケ岳砦等、その奥に田上山砦が。 |
そして、次は山頂の行市山砦へ。