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成菩提院(じょうぼだいいん)(天台宗)
最澄が、弘仁6年(815)にここ柏原小野に一時留まって小さな建物を設けたのが最初と伝えられます。やがて、鎌倉時代には天台宗の談議所(学問所)として、湖北一帯を治めていた京極氏の手厚い保護もあって繁栄しました。
嘉暦元年(1326)、越前の平泉寺の衆徒が乱入して寺を焼きましたが、足利義満の願いにより貞舜法印(じょうしゅんほういん)が再興しました。
永禄11年(1568)、織田信長は浅井長政と佐和山城で会見したとき、ここで泊まり、足利義明に随伴して京へ上るときにもここで泊まりました。後に、信長は150石の寺領を寄進しています。天正6年(1578)、兵火で諸堂を焼失しました。
天正19年(1591)、秀吉は寺領150石安堵の朱印を送っています。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで勝敗が決まると、当時の住職祐円法印(ゆうえんほういん)は家康の陣をお祝いして牡丹餅を献上しました。家康は、兵糧(ひょうろう)の残米200石と陣地の古材を寄進したので、諸堂を修復しました。慶長8年(1603)、さらに寺領150石の安堵状を与えました。
このように戦国武将との関わりが深いのは、この寺の地理的条件によるものと思われます。ぜひ、一度、お尋ね下さい。

      清滝寺徳源院(きよたきでら とくげんいん) (天台宗

 鎌倉・室町時代、湖北一帯の守護大名で、幕末まで大名として続いた 佐々木京極家(近江源氏)の菩提寺です。境内には、京極道誉が植えたといわれる「道誉桜」の古木を初め、正面に本堂、位牌堂、左手に寛文12年(1672)に京極家22代の丸亀藩主 高豊によって建立された三重塔があります。
 本堂裏手には、京極家歴代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が ならんでいます。
あちこち散らばっていた 代々の墓を高豊の時に集め、失われたものを補い現在のように したと言われます。  
 鎌倉から江戸期までの宝篋印塔(ほうきょういんとう)が、時代とともに変化していくようす、特長が一ヵ所で比較できる貴重な文化遺産です。
 上段 右から4番目は京極高氏(道誉、1306〜1372)のものです。 能、狂言、茶道、華道に長じ、猿楽を愛する一方、派手で自由奔放、人々をアッといわせたことから婆娑羅大名の異名を持ち「太平記」にも登場する人物です。
 境内は、春の枝垂れ桜、初秋は萩、深まればモミジと、四季折々の景観にひたることができ、柏原宿とともに、ぜひ立ち寄りたい名所です。
寛文2年(1672)、時の丸亀城主高豊公によって建立された三重の塔(県指定文化財)。 清滝寺徳源院の本堂。 境内には「道誉」お手植えの伝説をもつ「道誉桜」、「三重の塔」、裏手には京極氏歴代の宝篋印塔(墓)が壮観です。
      
柏原宿から中山道を東方に約20分進むとやがて長久寺の集落に着きます。戸数わずか30戸足らずの集落ですが、歩くことが交通手段の中心であった時代には、日本国内の異なった文化、風俗、習慣、言語、通貨などについて、重要な意味を持つ場所だったのです。

寝物語の里
(ねものがたりのさと)

この集落のはずれが「寝物語の里」と言われるところです。幅50cmばかりの細い溝を隔てて近江と美濃とが接するところです。その昔、この溝をはさんで近江側に亀屋、美濃側に両国屋という旅籠がありました。それぞれの宿に泊まった旅人が、壁越しに聞こえる声から同じ人物を慕う者同士とわかり、壁越しに語り合ったというのが「寝物語の里」の由来。その人物とは、平治の乱に敗れ奥州に下った源義朝を慕ってその後を追う常磐御前と家来の江田行義とも、源頼朝の反感を受け、奥州に落ちのびた義経の後を追う静御前と江田源蔵広綱とも。
この国境は、単に江濃二国の境目だけでなくて、ことばや生活習慣の接するところでもあり、京文化と東文化が接するところ、銀貨・金貨の分かれ目、大阪湾と伊勢湾の分水嶺というように、政治・経済、文化、自然など今も昔も大きな意味合いを持つ区切り目でもあります。この地に立って、近くを通る東海道線の電車や国道を流れる車の音を耳にしながら遠い昔に思いを馳せると、この地の果たしてきた役割の大きさを感じずにはいられません。
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