中山道柏原宿の歴史年表    



柏原宿に関連する歴史上の事実を各種文献や研究・調査を参考にしてまとめました。

西暦

 年 号

                 記      事

 646

大化2年

諸国に駅馬、伝馬をおき、駅鈴・伝符・関契をつくった。
1月「改新の詔(みことのり)」を出し、その改革の四大綱領の中に、全国を国、郡、里に分け、交通軍事の施設を設けて地方行政制度を整えたもの。

 672

白鳳元年

壬申の乱 吉野に引退した大海人皇子は美濃から近江に入り、大友皇子を自害させた。
不破の関を設ける。

 701

大宝元年

大宝律令完成。五畿七道が決められる。
七道(山陽、東山、東海、北陸、山陰、南海、西海)

 737

天平9年

長福寺 行基菩薩により開基。薬師仏を安置し、柿の沢薬師と称した。現在は番場の蓮華寺の末寺。

 810

弘仁元年

宝持坊 弘仁年間の草創であるが永正年間に兵火にあい、元禄年間に再興。

 815

弘仁6年

最澄が東国巡化、談議所を創立。成菩提院の前身ができる。
明星輪寺泉明院(西薬師寺)、最澄が東国へ巡行したとき、自作の薬師如来像を安置し、宝塔や堂宇を建立したのに始まるという。その後、応仁年間に兵火で焼失。

 824

天長元年

長命寺 天長年間に行基菩薩により草創。寺伝では「蒲生郡長命寺の本尊観世音と同材同作ゆえに寺名も同名なり」と。(行基は668年から749年の人)

 905

延喜5年

延喜式に駅馬郷「横川(よかわ)」とあり、小川(こがわ)の関であると推定されている。
延喜式には横川の公用の駅馬と伝馬の数を(15疋、5疋)としている。

 930

延長8年

字・野瀬ヶ原に真言宗「蘇生寺」を建立。

 979

天元2年

八幡神社を創建。祭神誉田別尊、玉倭姫、神宮皇后の三座とある。

1130

大治5年

恵比寿神社創建。祭神は事代主命。もとは大谷にあった。

1138

保延4年

清滝神社創建。祭神は崇神天皇と武内宿弥。

1185

文治元年

柏原庄の地頭柏原弥三郎為長、屋島・壇ノ浦の戦いの功により柏原庄の地頭並びに京都警備の大役をおおせつけられる。

1200

正治2年

11月26日 (東鑑は10月22日) 後鳥羽上皇, 頭の弁 公定を奉行として弥三郎追討の命令を近江守護佐々木定綱に下す。

1201

建仁元年

5月9日 弥三郎捉えられ殺される。

1235

嘉禎元年

京極氏信は江北6郡を領し封ぜられ太平寺城を築き、同時に柏原庄清滝に菩提寺清滝寺を建立し、平常の居館とし柏原城と称した。

1278

弘安元年

梓河内の龍澤寺 草創の年代は不詳だが、弘安年間に僧一遍が中興。

1283

弘安6年

10月 佐々木京極氏信 近江守となる。

1286

弘安9年

佐々木京極氏信 清滝寺に料田を寄進。

1290

正応3年

正2位権大納言北畠雅家の孫として、従3位中将師行の次男として北畠具行生まれる。

1295

永仁3年

8月13日 京極氏信没す。76歳。清滝寺殿道善大居士と称する。

1324

正中元年

正中の変 北畠具行烏丸成輔とともに蔵人頭につく。

1326

嘉暦元年

成菩提院 兵火に焼かれる。

1330

元徳2年

北畠具行 権中納言となる。

1331

元弘元年

北畠具行従2位権中納言に叙せらる。
8月 元弘の変 北条氏討伐のため幕軍を猛攻し9月笠置山落城。
具行ら10人の官を停められる。

1332

元弘2年

3月 具行卿捕らえられ京極高氏を護衛として鎌倉に護送。
5月 途中道誉の居館清滝寺に入る。留まること1ヶ月余。助命の嘆願むなしく、6月19日 田児六郎左衛門の太刀にて、たそがれころついに43歳(満42歳)の生涯を閉じる。
辞世の頌(じゅ)「生死ヲ逍遙シテ43年、山河ハ一革シテ、天地洞然ス」

1346

正平元年
貞和2年

京極道誉 摂津を守護する。
道誉 箕浦次郎左右衛門俊定に箕浦氏館を与え柏原庄に住まわす。慶安年間(1648〜1652)次郎左右衛門某は安芸広島藩浅野氏に仕える。

1347

貞和3年

11月26日 北畠具行卿の墓石 宝篋印塔、田児六郎左衛門によって建立。死後16年目。

1349

正平4年

後の成菩提院初代住持 貞舜(じょうしゅん) 尾張に生まれる。

1351

観応2年

教誓寺 元は大字大野木にあり天台宗であったが、この年真宗に帰し、柏原に移った。また、慶長15年に現在日に移った。

1372

文中3年

京極道誉 没す。

1387

元中4年

6月貞舜法印 清滝の談議所に移る。

1394

応永元年

足利義満の願いにより、貞舜法印が成菩提院再興のため移住。

1395

応永2年

貞舜 成菩提院寺坊再興。貞舜をもって成菩提院の初代住持と言われている。

1396

応永3年

大野木 八相宮に「鰐口(わにぐち)」が京極浄高入道(京極高詮)から寄附される。なお、裏面に永和2年(1376)3月 京大仏西村上総 大掃(?)宗春作とある。

1410

応永17年

梓河内の神明神社の「鰐口」の銘に応永17年12月の陰刻がある。
なお、願主に衛門二郎、実範2人の名がある。実範は龍澤寺の住僧である。

1422

応永29年

貞舜 74歳で没す。

1441

嘉吉元年

7月柏原に妙達法印により龍宝院を開基。

1467

応仁元年

応仁の乱

1473

文明5年

5月 一条兼良 美濃の斉藤妙椿とともに下向し「藤川の記」を著す。

1498

明応7年

9月大野木の地に三好筑前守の臣福井明則入道して見瑞寺を開基。

1501

文亀元年

明源寺 小山ヶ原から現在地に移り、天台宗から真宗に転じ、後仏光寺派に属す。

1513

永正10年

勝栄寺 下野国那須左衛門宗勝この地に来て僧となり、野瀬ヶ原から現在地に移す。

1518

永正15年

安立寺 この年7月真言宗より真宗となる。慶長2年現在地に移り再興。

1521

大永元年

大野木土佐守秀国 大野木館に住まう。

1532

天文元年

このころに、梓河内小字八講師の山上に「八講師城」を築く。京極隠れ城と称された河内城を防衛するための城砦。河内城は字猪ノ鼻に築き石田氏が守備したが築城の年代は不詳。
天文年中、大野木に大胸院を法印心友によって開基。

1534

天文3年

天神社創建、祭神は菅原道真公と伝えられる。

1552

天文21年

明星輪寺泉明院(西薬師寺)、多賀豊後守貞隆により再建。

1568

永禄11年

8月、織田信長、浅井長政と佐和山城で会見したとき、成菩提院で宿泊。
遠藤直経 信長を殺害せんと注進したが長政はそれに応じなかったともいう。
織田信長は、9月21日足利義昭の招きで入洛する往路で成菩提院に宿泊。帰路10月26日京をたち翌27日成菩提院に宿泊。

1570

元亀元年

浅井長政 織田軍の近江侵攻に備えて大峰砦と長久寺城(長比砦)を築き、大野木土佐守秀国に守らせる。同じく須川砦を遠藤喜右衛門直経に守備させる。
姉川の合戦
遠藤喜右衛門直経奮戦して討死。秀国も同合戦で討死。

1578

天正6年

成菩提院、兵火で諸堂を焼失。

1581

天正9年

王子神社創祀。祭神は稚渟毛二岐王(わかぬけふたまたおう)。

1582

天正10年

大野木の善証寺 6月誓道法師により開基。貞享2年4月善証寺と改める。

1586

天正14年

6町1里制から36町1里制に改められ、一里塚を築かせる。
恵比寿神社 大谷から現在地に移す。

1588

天正16年

徳川家康上洛の折り土豪西村勘介屋敷を使用。

1591

天正19年

豊臣秀吉、成菩提院に寺領150石の安堵の朱印を贈る。
この年の柏原宿検地の石高は1,659石6斗2升。

1595

文禄4年

伊吹山弥高百坊の一つ岡島山右享坊、現在地に移り龍宝院と改称。

1596

慶長元年

西来寺 この年2月天台宗から真宗に帰し現在の地に移る。

1600

慶長5年

9月15日関ヶ原の戦い
小早川秀明 関ヶ原の戦いに参戦する前に成菩提院に宿泊。

1601

慶長6年

五街道を幕府直轄の道として整備。

1602

慶長7年

伝馬設置の朱印状出される。
柏原宿検地の結果は1,823石4斗7合、286軒。

1604

慶長9年

並木の整備を始める。一里塚の整備を始める。

1615

元和元年

大野木の徳願寺 この年に真言宗から真宗大谷派に帰依する。古刹で天文年中に兵火に焼かれる。

1619

元和5年

清滝の霊泉寺 この年10月に三輪長五郎によって建立。享保元年に現在の寺号にする。

1622

元和8年

勝専寺 昔覚勝寺といったがこの年改め旧寺号を山号とした。

1623

元和9年

徳川家光 上洛に際して柏原御殿を建立し始める。

1626

寛永3年

柏原御殿なる。

1627

寛永4年

成菩提院の住持を務めたこともある天海 上野 寛永寺の住職となり、開山する。

1640

寛永17年

天海、狩野栄俊の筆による家康の絵像を成菩提院に寄付する。天海は成菩提院20世の僧で、中興の祖と言われている。

1643

寛永20年

天海、100歳にて没す。諮号を慈眼大師という。

1648

慶安2年

久昌寺 浅井郡北池村の出家寿林尼により開基。長命寺の末寺。 

1654

承応3年

須川の宗舜寺 この年の検地帳に寺名あり。

1660

万治3年

柏原宿の記録「萬留帳(よろずとめちょう)」はじまる。昭和30年まで66冊、17,051ページ。

1661

寛文元年

亀屋佐京商店創業す。

1664

寛文4年

鐵牛 黄檗宗(おおばくしゅう)の永明寺(ようめいじ)を酒塩谷に建立。

1665

寛文5年

同年の調書では、成菩提院には末寺64坊、僧侶103人、檀家237軒、人数970余人とある。

1672

寛文12年

丸亀城主京極高豊 徳源院に三重塔を寄進。墓地整備す。

1677

延宝5年

2月 須川の真宗大谷派専了寺 浄恵法師により再興。
神明神社を大字柏原の総社として創建する。祭神は天照大神。
永明寺 独心和尚により菖蒲原の地に移す。
柏原宿検地の結果は2,141石余、379軒、1,446人。

1679

延宝7年

成菩提院梵鐘建立(梵鐘の年号 延宝7己未年5月吉日)

1685

貞享2年

駿河国の人高橋庄衛門入道して大野木の地に浄善寺を開基。

1689

元禄2年

柏原御殿廃止。
西薬師寺(明星輪寺泉明院)の御手洗い建立

1700

元禄13年

永明寺の開祖 鐵牛 77歳にて没す。高僧として著名。

1701

元禄14年

検地の結果は2,310石3斗7升4合。

1711

正徳元年

西川知崇(瀬右衛門、後の柏原東の庄屋)生まれる。

1713

正徳3年

永明寺 毘沙門天厨子修理

1714

正徳4年

長久寺から醒ヶ井にかけて道中奉行の命で松1601本が植えられる。

1715

正徳5年

高札設置。5枚中4枚が柏原宿に現存し、滋賀大学の史料館に寄託。

1716

正徳6年

徳川吉宗 老中、道中奉行に命じて、中仙道を中山道とする。(山中の道だから)

1717

享保2年

長沢と柏原に「やくしへのみち」の石柱建立。

1724

享保9年

柏原村は、大和郡山藩領となる。軒数475、人口1,654人。古くは豊臣秀吉の蔵入地。その後、徳川幕府の直轄地。

1730

享保15年

中山道をゾウが通る。

1733

享保18年

8月、西川知崇 京に出て伊藤東涯の門に入る。23歳。

1745

延享2年

永命寺 現在の地に移す。本尊は釈迦如来、他に毘沙門天像。

1759

宝暦9年

11月29日 西川知崇没す。49歳。

1766

明和3年

宝林寺第10世の僧 1月没。百丈庵柳零と号する俳人。
 辞世一首「皆さらば我は浄土の花見塚」

1767

明和4年

6月 柏原宿の大火。3町、75軒が類焼。

1771

明和8年

5月 柏原宿の大火。2町10間、47軒が類焼。

1772

明和9年

慈周 成菩提院35世住職として同院に移る。 

1777

安永6年

6月 高札場の秋葉神社常夜灯建立

1779

安永8年

石堂寺境内の延命地蔵堂「女地蔵」建立。

1782

天明2年

松浦七兵衛 もぐさ屋に生まれる。

1784

天明4年

寺院1ヶ寺全焼。

1800

寛政12年

柏原宿東部の神明神社鳥居前の右の灯籠建立

1802

享和2年

後の成菩提院住持豪恕(ごうじょ)、什宝(じゅうほう=秘蔵の宝物)として「大般若経」を永納する。

1803

享和3年

11月27日 成菩提院中興の祖 貞舜 権僧正を贈られる。
柏原宿東部の神明神社鳥居前の左の灯籠建立。棹の部分に「富春亭 山根良隱」の刻印が見える。

1804

文化元年

豪恕 成菩提院38世の僧となる。

1806

文化3年

3月松浦赤水 中多良に生まれる。後、柏原村松浦久作の養子に。
京都で広瀬順固の門で画法を学ぶ。赤水亭探珠と号す。 

1809

文化6年

七兵衛 家屋を建築。

1813

文化10年

明源寺住職顕通願い出により柳沢吉保・その子吉里・二代目信鴻の位牌写しを下賜される。

1814

文化11年

堤丹岳生まれる。代々医を業とする。京都に出て広瀬柏園に学ぶ。貧しい人々に慈悲深かった。
12月8日 巖佐由子(いわさよしこ)生まれる。歌人、多芸の才人。長野義言に学び、親交があった。

1815

文化12年

6月柏原宿西の金毘羅宮常夜灯建立

1821

文政4年

明源寺住職顕瑞願出により柳沢保光の位牌写しを下賜される。

1823

文政6年

中山道をラクダが通る。

1830

文政13年

寺院火災

1832

天保3年

2月 永命寺 毘沙門堂類焼。

1834

天保5年

柏原宿検地の結果は2,312石3斗4升3合。

1835

天保6年

この年から凶作はじまる。(全国的には天保3年から)萬留帳の記録には、「年久しく凶作打ち続き」とある。

1836

天保7年

この年も記録には、「前代未聞の大凶作」とある。

1837

天保8年

大凶作。2月26日から1人前5合杓に1杯あての粥の炊き出しを、日々300人余に出される。

1843

天保14年

「宿村大概帳」によると、柏原宿は家344軒、人口1,468人、本陣脇本陣各1軒、旅籠屋22軒(中7軒、小15軒)とある。
1月 駄賃と人足賃の調査あり。

1845

弘化2年

石堂寺前の「男地蔵」の「放生池」完成し現在のお堂完成。

1850

嘉永3年

七兵衛 69歳にて没す。

1856

安政3年

龍宝院境内に住僧を集め木を植える。

1858

安政5年

10月11日 松浦赤水 没す。53歳。 現在、赤水の絵5点が確認されている。
11月 堤丹岳 没す。46歳

1861

文久元年

10月24日皇女和宮降嫁のとき本陣に宿泊。ご一行4,144人。宿内は空前の賑わいを見せる。

1866

慶応2年

軒数364軒、1,633人

1868

明治元年

明治維新

1869

明治2年

郷土史家 中川泉三生まれる。

1872

明治5年

5月 柏原小学校前身の郷小学校を、本陣南部破竹邸に開校。
中山道の駅制を閉じる。
9月 新橋・横浜間に鉄道開通。

1875

明治8年

郷小学校を開文小学校と改称。

1878

明治11年

10月、明治天皇柏原にて昼食。侍従をして北畠具行の墓前に参拝させる。
勝専寺の僧 鷲嶺 10月松月堂古流家元から日本総会頭を任ぜられ、五大坊の号を受ける。

1879

明治12年

開文小学校を普通科と高等科の2科に分け修業年限を6年間にする。

1881

明治14年

楓150本を宿端から次ぎ村まで東西の縄手に植える。

1882

明治15年

開文小学校を初等科、中等科、高等科の3科に分ける。修業年限を6年。

1886

明治19年

開文小学校に尋常科4年と簡易科3年を併置。

1887

明治20年

御薬袋(みない)順三郎 開文学校の校長兼訓導として赴任。

1888

明治21年

開文小学校の簡易科を廃止。

1889

明治22年

東海道本線が全通。

1892

明治25年

御薬袋(みない)順三郎 没する。師の感化を受けた人が教えを実践し郷土のために尽くしたと言われる。

1894

明治27年

10月6日 巖佐由子没す。82歳。
開文小学校を柏原村、春照村学校組合立柏原尋常小学校と改正。

1899

明治32年

春照村学校組合立柏原尋常小学校を解除し、柏原尋常小学校とする。
大野木分教場を設置。4年生まで。

1901

明治34年

柏原銀行創立。

1902

明治35年

河内分教場を設置。2年生まで。

1903

明治36年

旧蹟寝物語里 美濃国不破郡今須村の碑建立。
柏原銀行 米原・長岡・野一色・今須に支店を設立。

1907

明治40年

中川泉三「坂田郡志」の編纂しはじめる。完成まで7年。

1913

大正2年

「坂田郡志」なる。

1914

大正3年

勝栄寺の僧 文山 7月没。和光庵文山と号し生花や俳諧に優る。

1915

大正4年

11月 北畠具行 正2位に追贈される。 

1917

大正6年

11月黒田侍従北畠具行卿の墓前に代拝。
柏原宿歴史館の建物が建築される。

1927

昭和2年

上野・浅草間に地下鉄開通。

1930

昭和5年

12月 猫折坂上の北畠具行卿の墓碑史蹟の指定を受ける。
特急つばめ号の運転。

1935

昭和10年

7月 吉村逸平没。新聞記者、後、大阪市助役、広島市長を務める。

1942

昭和17年

柏原尋常小学校を柏原国民学校とする。

1943

昭和18年

6月25日 柏原銀行 滋賀銀行と合併。

1947

昭和22年

柏原村立柏原小学校となる。

1954

昭和29年

番の面遺跡 京都教育大学小江慶雄教授により発掘。翌年7月25日終了。

1955

昭和30年

山東町誕生。萬留帳終わる。
名古屋・米原間電化。

1964

昭和39年

新幹線開通。

1976

昭和51年

清滝寺徳源院改修工事。三重塔は、それまで移築されたものと推測されていたが、1672(寛文12年)高豊公により新築されたものと判明。

1998

平成10年

4月10日 柏原宿歴史館オープン。

2000

平成12年

11月7日、映画監督吉村公三郎没。

参 考 文 献

「坂田郡志」

「山東町史」

伊藤清男著 「柏原宿ぶらり歩きのとも」

太田三郎著 「中山道ー美濃十六宿ー」(大衆書房刊)

谷村潤一郎氏による「萬留帳」の解読・研究の成果

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