東山道について 

東山道について、地域の郷土史家は、その著「柏原宿ぶらり歩きのとも」の中で、次のように書いています。
『大宝元(701)年に完成した大宝律令には、五畿(大和・山城・河内・摂津・和泉)七道(山陽・東山・東海・北陸・山陰・南海・西海)が決められている。この各道は、幾つかの国を含めた行政区画を意味しているのだが、この各道のなかを通る道も同じ名で呼ぶようになり、柏原を通る道は「東山道」と呼ばれていた』

ちなみに、行政区画の東山道は次の国々です。

「近江(滋賀)・美濃(岐阜)・飛弾(岐阜)・信濃(長野)・上野(こうずけ・群馬)・下野(しもつけ・栃木)・羽前(うぜん・山形)・羽後(うご・秋田)・岩代(いわしろ・福島)・岩城(いわき・宮城)・陸前(りくぜん・宮城)・陸中(りくちゅう・岩手)・陸奥(むつ・青森)」
さらに、柏原の東山道について郷土史家の伊藤さんは次のように書いています。
『鎌倉時代以前の東山道は、現在の柏原は通らずに柏原西はずれにある野村工芸社の辺から猫居坂を通り、清滝の東側を北上、向山の北側(この辺りを「葉広」という)を巻き、現在の清水町北側を通り、野瀬山の麓を巻いて、長久寺に至ったものと思われる』
わずかに残されている東山道の名残を写真にとどめると次の通りです。


猫居坂(ねこおりざか)の辺りを西国に向かう


野瀬山の麓の辺りを西国に向かう


野瀬山の辺りの中山道と合流する地点

 もどる