2012.3.4

☆引 力

 私は意を決すると、「最低入札価格より5千円高くつけてはどうか」という係員のアドバイス通り、金額を書き込んだ。

 私はおもむろにルーペ(必携品である!)を取り出して、キズのあるなしを確かめようとしたが、これさえも困難な作業だとわかった。要するに、人に見せられる代物ではなかったのだ。普通なら買う気など起こさない品だ。第一、洗って落ちる汚れなのかどうかもわからない。手を汚すのを気にしながらも、私はその花瓶をしばらくの時間手に取って眺め回していた。考えれば考えるほど、運命的な出会いにも思えてきた。何よりも彼が、早く家に帰って風呂に入りたい、と言っている。

 それにしても、この汚れ方は何なんだ。彼(実は托鉢僧だが)のいで立ちも、背景の様子さえもはっきりしない。“急な出品”という係員の言葉もあながち出任せではないのかも、と思われた。

 「ピーンと来た」「胸がキュンとした」「呼ばれた気がした」「運命的なものを感じた」「一期一会」。これらは買ってしまった言い訳の常套句である。しかし連発するとそのうち信じてもらえなくなる。

 後日、落札通知が来て家に持ち帰りしっかり洗浄したあとに、見違えるほど立派なモールド花瓶が出現した時はさすがに興奮した。しかも全くの無キズだったのだ。これを“掘り出し物”というのだろう。

「オールドノリタケが出品されるとは、案内状にはなかったですよね?」という私の問いに、

「ええ、それが急な出品でして・・・」と係員。

 モールドで浮かび上がった彼は、アメリカでは“ベガーマン”と呼ばれているらしい。

 数年前、例によって地元のデパートの催事場の階に行ってみると、片隅の画廊でたまたま骨董の入札会をやっていた。そういえば案内状が来ていたっけ・・・ しかし出品予定のほとんどが掛軸や額、茶道具のようだったので興味も湧かず、すっかり忘れてしまっていたのだ。

 ところが通り過ぎようとした時、肩先にわずかに引っ張られるような力を感じた。気になって中に入ると、左手少し奥に数点のオールドノリタケがあり、その中に私を引き留めた主はいた。