・ふるさと古座川
大自然の恵み豊かな熊野の山々。
その中央に位置する大塔山を母とし、育まれた清流古座川。
人間が近づくのを拒絶するかのように屹立する巨岩や奇岩、そして触れあいを求めるように穏やかな流れで人々を楽しませてくれる川瀬など、熊野灘に流れ込むまでの約60kmにわたって、古座川は様々な表情を見せてくれます。また、川に沿って家が立ち並び、道が続いています。
  ふるさと古座川
三尾川小学校の通学区域は、洞尾、蔵土、大川、真砂、長追、三尾川、南平、佐田、添野川、下露、西川、成川、松根、平井で、清流古座川と古座川の支流、平井川に沿って集落が続き、古座川と生活は切っても切れない関係にあります。
そんな三尾川小学校学区の地域は、過疎が進む集落が多いのですが、豊かな自然は温かい人情をはぐみ、住みやすい環境が魅力となり、都会からのUターンやIターン者も少しずつ増えています。
◆まぼろしの滝(まぼろしのたき):古座川町栃の川上流
古座川には数え切れないほどの大小様々な滝があり、その中でも最も落差の高い物が、栃の川上流域にある「まぼろしの滝」で、那智の大瀧より米俵1俵低いから「まぼろしの日本一」と言われています。国土地理院地図にも「まぼろしの滝」で標記されています。
 
◆光泉寺の大銀杏(こうせんじのおおいちょう)
古座川町の文化財の一つであり、その大きさで銀杏の樹木としては県下一と認められているのが、三尾川にある光泉寺の子授け銀杏です。
推定樹齢400年のこの樹は、高さ約30m幹回り6mの大きさを持ち、春には新緑の息吹を感じさせ、夏には紫外線をさえぎる木陰を提供し、秋には黄金色の葉のじゅうたんで大地を彩ってくれます。
「子授け銀杏」 
この銀杏の樹には、このような民話が残されています。
「江戸時代の終わり頃。三尾川をふるさとに持つ医者、日下俊斉という医者の夢枕に、髪を振り乱し真っ青な顔をした娘が立ちました。「私は、三尾川にある光泉寺の銀杏の木の精です。私は今、畑作りの邪魔になるからといって切り倒されようとしています。私の命を救えるのは、村人から尊敬されている先生の他にはありません。どうかお助けください。」といって、消えてしまいました。俊斉は気になり、すぐにふるさとに向かいました。光泉寺に着くと、銀杏の木の根がはびこり農作物が不作となるので切ってしまえと、村人達が相談している真っ最中でした。俊斉は、銀杏の木の精の話を告げ「これからは村の役に立ってくれるであろう」と説得し、しぶしぶながらも村人達は納得したのです。その後、守られた銀杏の木の周辺の畑は土が肥え、たくさんの作物が取れるようになったとか。
こうして樹齢を重ねた銀杏の樹は、その大きさもさることながら、外観も印象的です。空に延びた太い枝の途中から乳房のようなコブが垂れ下がり、その姿にあやかって子供のできない人が願掛けすれば授かるとの噂が。そこからこの銀杏の樹は、子授けイチョウと呼ばれるようになりました。」
◆古座川桜祭り
「佐田の桜まつり」とも呼ばれる約3000本のソメイヨシノが、七川ダム湖畔周囲約5kmに渡って咲き誇ります。また「日本さくら名所100選」にも選ばれた名所で、湖畔を散策しながらの花見は人気で、開花時期に合わせ毎年3月下旬から4月上旬にかけて10日間程度、歌や踊りなど多彩な催しが行われます。期間中、色とりどりのこいのぼりが泳ぎ、サクラとこいのぼりという異色の組み合わせが話題を呼び日没後はぼんぼり提灯で夜桜も楽しめます。
 
◆西川の丸山神社例祭
東牟婁郡古座川町西川区内にあり、祭神は天照皇大神
西川は非常に歴史のある郷で、西暦474年、物部氏に追われた朝日家がこの西川に住み着いたのが始まりとされています。
その後、西暦1224年、源氏村上清重が承久の変で追われ、この地に移り、村上一族と朝日家とが中心となり、この地を拓き、近郷を領しました。
例祭は、1月5日の正月祭と11月23日の霜月祭で、正月祭には「御弓神事」が行われていましたが、現在は残っていません。
現在は、11月23日霜月祭と1月3日に正月祭として、獅子舞奉納が行われています。
記録では、天保九年(西暦1838年)から、正月祭と霜月祭に獅子舞神楽が奉納されたとあります。
 
◆三尾川八幡神社の例祭
東牟婁郡古座川町三尾川区内にあり祭神は「誉田別命(ほんたわけのみこと)」【応神天皇】
神社には神明造りの本殿と神楽奉納の舞台があり、例祭は10月の第2土曜日宵宮、翌日が本祭、渡御には「御輿」と「幟」そして獅子舞が付き、道中笛を吹きながら行いますが、場所により道中笛が違うようで、曲を聴くと一行のいる場所が分かったそうです。
獅子舞は、過去の奉弊の記録から、約380年前から奉納されていると言われており「同盟社」と言う社中が継承してきましたが、現在は区が保存継承したいます。
「社中制度」が存在した頃は、代表者を「社長」と呼び、祭の練習始めの「山入れ」から、前日の「押し上げ」まで、山仕事の人たちが同盟社に泊まりがけで獅子舞の練習に励んだそうです。
 
◆真砂船(まなごぶね)
真砂(まなご)は、現在の長追と佐田の中程にあり、車道が整備されるまでは、古座川河口と真砂を往復する「真砂船」が毎日行き来していました。ウバメガシの白炭、蜂蜜、椎茸など古座川の奥の農林産品は一旦、真砂村に集積されて、真砂船で古座川河口まで運ばれました。
道路が整備されるまでは、銀行の支所や登記所などあり賑わっていましたが、現在は船着き場の跡だけが残ります。
◆いくさ地蔵(いくさじぞう) 古座川町添野川
七川ダムに流れ込む添野川の近くに、お地蔵さんを祀った小さな祠があります。昔、この地に彦八という親孝行な息子が母と一緒に住んでいました。ところが、大阪の役で軍夫に徴用され村を立つことになった彦八。その道中で草の中に埋もれた地蔵を見つけ、「一人残る母のためにも、無事帰還なさしめ給え。そのお礼に、里から移しておまつりします。」と祈りました。祈りが通じたのか、無事帰還した彦八が背負って里に持ち帰り祀ったのが、この祠です。近くには彦八の墓も作られています。かつては、近所の人が「弾よけの護符」をつくり、太平洋戦争中には全国から参拝者が集まったエピソードもありますが、今ではもっぱら合格祈願の祠になっています。
 
◆八十八体の石仏(はちじゅうはったいのせきぶつ) 古座川町大師山
標高656.6mの大師山の山頂付近に鎮座するのが、88体の石仏群。山頂なので訪れる人も少なく、その存在自体、地元の高齢者以外あまり知られていないのが現状です。誰が、いつ、どのような方法で設けたのかを明確に記されていない分、神秘性すら漂います。弘法大師の教えに基づいて開かれた、四国八十八箇所霊場。その象徴を、ミニチュア的にこの地に再現しようとしたのか。そんな熱意が感じられる石仏群です。
 
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