高橋順之の故郷歴史散歩

その5 備前中納言逃譜  峠を越えた人々  (関ヶ原合戦編2)

 「おのれ小早川秀秋、こうなったからには刺し違えて討ち死にしてくれん。」
 
 開戦後も、普段通りの年に似合わぬ重厚な声でいちいち下知していた、秀家も、このときばかりは甲高い声を張り上げた。大谷隊の壊滅が波及して、すでに周囲は収拾のつかない混乱をきたしている。
 正午頃まで、福島政則隊と一進一退の攻防を繰り返してきた麾下の長船吉兵衛や延原土佐らの諸隊は、すでに濁流に呑み込まれたようにまったく確認できず、秀家の周囲は猛将明石全澄と旗本の進藤三右衛門、黒田勘十郎ら50人足らずの兵が固めているにすぎない。
    「小早川のこわっぱ、蹴散らしてくれるわ。」

                    
「殿は西軍の副総師、全軍のことをお考えください。」
 
いまにも、その濁流に単騎で飛び込んでいこうとする秀家を明石全澄が、必死にいさめる。20代の若さ、備前中納言の名を戴き五大老として豊臣政権を担っているプライドが、眼前にで展開する戦場の光景を許せない。

 
「秀秋だけではないわ、南宮山の毛利秀元も吉川広家も一兵たりとも動かそうとしない。豊臣家の大恩に報いるためにも、わしはこの場で小早川と切りむすんで討ち死にしてくれん。」
わめく間にも、隣の小西隊の旗指物がじりじり後退し、福島・京極・藤堂の諸隊がなだれうって討ちかかってきた。

「もはやこれまで。殿は大阪の秀頼公の安泰をおはかり下さい。早う伊吹山へ。」
 全澄は、秀家の愛馬の尻を蹴るように押し出すと、これに数騎の武者が続く。大将の戦場離脱により宇喜多隊は崩壊した。明石全澄は主君ができるだけ遠くまで逃げられるよう20人ばかりの兵で奮戦したが、瞬く間に大波に呑み込まれていった。

 どのくらい、山中をさまよっただろうか。関ヶ原を離れたとたん、力が抜けここ数ヶ月の疲労が、秀家の体の隅々までまるで堰を切ったかのようにかけめぐった。いつの間にか同行するのは進藤三右衛門・黒田勘十郎の2名だけになっていた。馬を捨て歩行になり、他の者がいつ脱落していったのかさえ、夢うつつのままである。                       「明石はどうしたであろう。」
 わずかに、雨露がしのげるだけの岩陰を見つけたのは明け方だった。勘十郎の膝を枕にまどろみ、ようやく昨日を振り返ったとたん深い眠りに落ちた。
                    
 (伊吹山の岐阜県側春日村川合だったと伝えられています。)
 翌日、昼過ぎになってから、一行は集落を避けて谷を下った。
「少し休みましょう」と六合村をすぎた人気のない淵に降りたとき、 「落人覚悟」 鋭い声とともに槍をひっさげた男が目の前に飛び出してきた。槍先はすでに水を汲もうとした進藤の喉元に突きつけられ、3人はとても逃げられまいと身構えた。用心しながら、順に3人を観察した男が、秀家を見て平伏したのは一瞬の出来事であった。
 
「ただのお方とは見えませぬ。私はこの粕川谷白樫の住人矢野五郎右衛門と申します。何処へなりとご案内したしますので、どうぞお名乗りください。」秀家は隠さず名乗り、五郎右衛門の家に匿われることになった。

     山の端の月は昔とかわらねど 我が身のほどは面影もなし
    武も運も尽き果てし我がみのの国 かかる浮き世といかで知るなん

その間、秀家はこんな歌を詠んでいる。

 進藤三右衛門は、現状を打破するために隠密に大阪へ赴いた。
落ち武者狩りを避け間道を縫いながら急ぐ彼の編み笠の緒には、秀家が妻に宛てた書状がより合わされていた。奥方は書状を見るなり奥に入り黄金35枚を三右衛門に手渡し、
「旦那様が無事と聞いてわたしも生き延びる気持ちになりました。大阪はいま、戦後処理で西軍方の諸大名の家族は皆息をこらして生活しております。幸い、わが兄前田利長は徳川方につき越前で戦功を建てております。三右衛門、旦那様にひとまずたれかの領国に身を置き、時を見て加賀の前田家より助命を願い出るのも待つように伝えてください。」

 忠義者三右衛門は、黄金を旨に粕川谷に戻った。五郎衛門にいくばくかの黄金とともに丁重になお礼を述べたあと、板並の在所で三右衛門が駄賃馬を買い取ると、七曲がり峠から琵琶湖岸に出た。

 秀家はこの後、大津醍醐を通って、伏見で河船に乗り大阪へ。奥方の黄金により天満で船を借り受け、薩摩に向かい島津忠恒を頼ります。数年後、忠恒は幕府老中に秀家助命を願い出て、宇喜多秀家は八丈島に流されたものの、西軍の中心人物のなかで唯一天寿を全うしました。また、明石全澄は、関ヶ原を脱出して、大阪の陣では豊臣方の猛将として、颯爽と登場するのです。

(秀家が現在の岐阜県揖斐川町白樫の矢野家に匿われていたのは、伝承されていますが、薩摩までの     ルートについては明らかではありません。この話は、物語です。) 

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