上平寺城跡(桐ケ城)と弥高百坊(刈安尾城)
−京極氏、浅井氏が活用した戦国の史跡(平成16年 国指定史跡)−

京極氏庭園跡 上平寺城 二の丸下の堀切と土橋
上平寺城 三の丸跡 弥高百坊跡

名称:上平寺城  (別称:桐ケ城、苅安城、苅安尾城、霧ケ城)
所在地:米原市弥高
標高:669m
比高:約330m
築城〜廃城:16世紀初頭(永正年間?)〜元亀元年(1570年)

名称:弥高寺跡 (別称:弥高百坊、弥高護国寺、苅安尾城)
所在地:米原市弥高
標高:715m
比高:約450m
築城〜廃城:(寺院として:奈良・平安時代) 城機能の改修15世紀後半(明応年間?)〜元亀元年(1570年)

日時:2011年6月4日(土) 天候:晴れ
コースタイム:、米原市上平寺(上平寺館跡、庭園跡、伊吹神社)9:15〜50−上平寺城跡(三の丸〜主郭)10:40〜11:10−弥高寺跡11:50〜12:10−(林道・旧道経由)−弥高13:00


【上平寺城の歴史】

@永正2年(1505年)、京極高清が京極政経・材宗との箕浦日光寺の和睦で家督争いに終止符。この頃に築城。眼下の北国脇往還を押さえる場所であり、また北近江、関ヶ原盆地、濃尾平野を一望できる絶好の拠点であり、近江と美濃の国境警備の城「境目の城」と機能。
A1523年(大永3年)、「大吉寺梅本坊の公事」。京極高清を補佐する上坂氏の専横に対し家臣の浅見氏、浅井氏、三田村氏らがクーデターを起こし、この内紛により、落城。
B1570年(元亀元年)頃、浅井長政が織田信長の侵攻に備えて、朝倉義景軍の援助で上平寺城を改修。「信長公記」(元亀元年6月条)にも「去程に、浅井備前越後衆を呼越し、たけくらべ、かりやす両所に要害を備え候」とある。しかし、城を守備していた樋口直房、堀秀村が寝返り、落城(開城)した。

【弥高寺跡の歴史】

@平安時代、9世紀半ば東大寺の三修によって立てた伊吹山寺の一つ。
A60を越える坊跡が、大門跡から本坊跡まで伸びる直線の道を軸として、上部の本坊跡を中心に扇形に広がる。
B明応4年(1495年)に京極政経が、翌年には京極高清が弥高山に布陣したとの記録。
C16世紀初め、兵火のため焼失
D天正年間(1580年頃)、山の西麓に降りる。

 (「京極氏の城・まち・寺」伊吹町教育委員会編、「近江城郭探訪」滋賀県教育委員会編、「近江の山城ベスト50」中井均編より)


 山城巡りと言えば、地元の上平寺城跡はまずは行くべきと、若干ヒルにビビリながらも出発。
上平寺集落に車をおき、まずは上平寺館跡を散策。
 

上平寺城絵図(江戸初期)より
 北国脇往還を挟んで広がる上平寺の集落、屋敷、館
跡、そして尾根上の上平寺跡。

 案内板のある駐車場から山に向かうと、弾正屋敷、隠岐屋敷、蔵屋敷など武家屋敷跡が広がりその奥に、京極氏館跡と、庭園跡がある。この庭園跡がなかなか趣きがあっていいです。

弾正屋敷跡 この奥。京極氏庭園跡

庭園跡に入ると。

地泉鑑賞式といわれる庭園跡の一部

 伊吹町教育委員会報告によると、16世紀始めの戦国時代に京極高清が作庭させたもので、庭園に隣接した建物から、河戸谷を借景に庭園を鑑賞する「地泉鑑賞式」の庭園といわれ、2つの池と中央の「虎石」といわれる巨石のほか大小100近くの庭石が残っている。報告いわく、「単なる遊興のためだけでなく、京都の御所で行われていた儀礼をこの地で行い、京極氏の権勢を見せ付けるための舞台装置としての役割を」と。

 500年前の戦国の世に思いを馳せて

 庭園を跡に伊吹神社へ。長い階段を登ると、京極氏の墓が。
ここには上平寺館を建てた京極高清の墓があったが、江戸時代に丸亀藩主京極高豊が京極家の菩提寺徳源院(山東町清滝)に歴代藩主の墓を整備した際に、高清の墓は移されたといわれる。

伊吹神社 京極氏一族の墓

 さて、いよいよ館の詰めの城である上平寺城跡(標高669m)に向かって登っていきます。
道は整備されて登りやすく、杉の植林地帯から広葉樹の林に変わると、50分近くで城跡に。まずは竪堀にであう。城跡最大の曲輪である三の丸の先端部に放射線状に11本の竪堀群があるという。山道が竪堀を横断すると、三の丸に到着。

手前から左へ竪堀が 三の丸の平坦地

上平寺城跡:
 別 称:桐ケ城、刈安尾城、霧ケ城  築城年代:16世紀初頭(永正年間)か 廃城年代:元亀元年 築城者:京極高清 改修者:浅井長政 城主:京極高清、高吉 (元亀元年)堀秀村、樋口直房 標高:669m(主郭)

上平寺城測量図

 上の測量図でいうと、下の登山道から登り竪堀を横断して、三の丸(曲輪Z、Y)へ。
赤い丸のところで三の丸と二の丸の間の深い堀切と土橋があり、枡形空間の曲輪X、直角に右に折れて曲輪Wへ。曲輪WはL型で、曲輪Vとともに二の丸を構成。
 竪堀の脇を通って曲輪Uから右手にぐいっと登ると、曲輪Tの主郭となる。その奥には、大堀切があって伊吹山、弥高寺に通じていく。

三の丸から二の丸への道 土橋を通って枡型空間Xへ
枡形空間前面の土塁に阻まれ右折しWへ 二の丸 中央土塁の左手より入る

 枡形空間Xは前面を土塁に阻まれ、右手には曲輪Wの土塁があって上から弓矢の攻撃をうけるなど攻め方にはやっかいな構造に仕上げられている。二の丸の上部曲輪Vを過ぎると、竪堀が顕著で、そこからは西の尾根上に弥高寺跡が見える。そして、わかりにくい踏み跡を登ると主郭です。

弥高寺跡を望む 山道脇に顕著な竪堀が3本
主郭 伊吹山は霞んで見えない 主郭の奥の大堀切と土橋

 記録では主郭から名古屋のツインタワーまでが見えたとか…。まさにこの山城は東山道と北国脇往還を見下ろし、北近江と濃尾平野を一望できる地点として、江濃国境の城としてその役割は大きかったと思われるが。元亀元年、浅井長政が朝倉氏の援助で、織田氏の侵攻に備え上平寺城と長比(たけくらべ)城を改修したものの、城の守将堀、樋口氏が信長に内応し戦わずして開城したという。

 しかし想像以上に、様々な遺構が残る上平寺城跡でした。維持管理されている地元の上平寺区民の皆さんに敬意を表します。

 さて、ここから弥高寺跡に向かいます。
沢を横切っていくと、ヤブデマリやタニウツギ、フジの花が新緑に映えます。
途中にあった駐車場との分岐を弥高寺跡へ。するとまず、大きな杉の奥に入定窟が。何かいわれがありそうな雰囲気のもの。中には、高下駄を履いて左手に巻物、右手に錫杖を持っている陶製の役行者さんが納められているそうです。

谷あいのヤブデマリ

入定窟

杉に守られた入定窟 その扉はこう

 尾根に上がると、大きく開けた弥高寺跡が広がります。
9世紀半ばに東大寺の三修というお坊さんによって築かれたというもので、伊吹山周辺の太平寺、長男寺、観音寺と弥高寺合わせて伊吹四大寺を構成し、総称して伊吹山寺といわれ、9世紀後半に国家公認の定額寺となったと。
 4つの寺の中心的な寺院であったが、16世紀はじめに兵火のため焼失し、その後、土塁や枡形虎口、堀切が残るように中世に山城として改修され、上平寺城の出城、支城、出郭として機能していたが、上平寺城の廃絶をきっかけに天正年間の1580年ごろ山の山麓に降りたと伝えられる。
 現在でも、標高714mにある本坊を中心にその下部に約60の坊群跡が広がっている。

本堂跡 最上部の広い坊跡
何段にも坊跡が広がる 弥高寺跡から上平寺城跡を望む

 入口となる大門跡は枡形虎口に改修され、曲がっていかないと寺の中に入っていけない構造になり、山城としての機能が窺われる。その前には空堀も。

大門跡の枡形虎口

 戦国の時代にタイムスリップしたような空間を楽しんで、弥高寺跡を後にします。
少し下った林道には駐車場がありここまでは楽に来られる。林道から、今はあまり使われてないけどいい感じの旧の山道を通って弥高の平野神社横にでました、時間は13時。ほぼ半日の充実したコースでした。

林道から山道へ

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