横山城跡(長浜市石田町・堀部町)
−16世紀波乱の別城一郭の城跡−

横山最高点311.9mからの東 伊吹山、姉川、大原方面
名称:横山城
所在地:長浜市石田町、堀部町、米原市朝日、烏脇
標高:312m
比高:約200m
築城〜廃城:不明〜天正11年(1583年)

探訪日:2011年7月3日(日)  天候:曇り
探訪コース:山東・観音寺入口横の池14:35−峠地蔵−南城主郭−北城ー観音寺本堂裏16:30

【横山城の歴史】

@築城年代は定かでないが、江北を支配していた京極氏の支城として築城か
A1517年(永正14年)浅井亮政により落城
B1518年        六角義賢が浅井攻めのため修築
C1560年(永禄3年) 浅井賢政(のちの長政)、六角義賢に彦根野良田の戦で勝ち、六角から独立
D1561年(永禄4年) 浅井長政、佐和山城の戦でも六角氏勝ち、横山城を本格的に改修し、浅井越中守井演を城将に。
E1570年(元亀元年) 姉川の合戦前、織田勢、横山城を包囲  姉川の合戦後、羽柴秀吉、池田輝政、柴田勝家により、横山城を包囲し、城将大野木土佐守秀俊は逃亡し開城。羽柴秀吉が城番として入城。
F1573年(天正元年) 浅井氏、小谷城での滅亡まで、小谷城攻撃、湖北の拠点としての役割
G1583年(天正11年) 羽柴秀吉、賤ケ岳の合戦の際の後方基地として改修し、そのあと廃城。

【探訪記】

上記由来の通り、16世紀にその城主がいろいろと変わっていることからも、その重要性が窺われる「横山城跡」へ。
登り口はいろいろあるが、今回は山東の観音寺の池のほとりから入る。標識はあるものの、あまり歩かれてないような山道を15分ほどで横山稜線上の峠地蔵へ。ここで、尾根西側からの道と合流。城跡へは北に向かい、途中の東屋辺りでは西側、琵琶湖側の視界が広がるが、今日は残念ながらどんより曇り、琵琶湖も見えない。

 城跡の遺構の最初は南城の南の堀切。結構、明確に残り、そこを越すと南城の主郭部に。平坦地に傾いた釣鐘堂、井戸跡、土塁、平坦地の北側には虎口の遺構も。

南城の南端の堀切 南城の井戸跡
土塁跡 南城虎口

 南城の主郭から横山城の最高点に向かうと、南城を構成する「竪堀」や曲輪の遺構があちこちに。送電線の鉄塔の横を抜けると、標高311.9mの最高点に。 

南城の北側の竪堀

 最高点からの展望は、北西に虎御前山、小谷山をのぞみ、東に伊吹山、上平寺城、目の前を北国脇往還が通過している、素晴らしいロケーション、戦国の攻防の拠点となったことはうなずける感じです。

 北西にうっすらと見える虎御前山(左)、小谷山(右)
東に、伊吹山(中)、そして左へ弥高寺、上平寺へ延びる尾根

 北城は最高点を中心に、北には曲輪があるがここは笹でボウボウ。その北端に堀切が残る。南西にのびる尾根には曲輪跡のほか、県内ではここだけ言われる二重堀切が見られる。

 北城の北端の堀切 北城西南尾根の曲輪
県内でのここだけの二重堀切 北城の土塁、虎口あたり

 北城から南城に戻り、そこからは往路ではなく、途中から、観音寺裏に直接下る山道(これも石像がいくつもあって良く踏まれた歩きやすい道)をおりた。

重要文化財:観音寺本堂

 観音寺は、伊吹山4ケ寺の一つで、正元年間(1259〜1260年)にこの地に移った。伊富貴山観音護国寺といい、千手観音を本尊とする天台宗の寺院。本堂は正徳5年(1715年)に上棟され、内陣の雲龍彫刻などその豪華さは県下の社寺仏閣を代表する言われるものらしい。見てみたい。

 参考:近江の山城ベスト50を歩く、HP「近江の城郭」ほか

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