山本山城 平安から戦国までの歴史
−長浜市湖北町−

本丸跡 堀切と土橋
名称:山本山城 山本山(標高324m)
所在地:長浜市湖北町山本
標高:324m
比高:235m
築城〜廃城:平安末期〜天正10年(1582年)
探訪日時:2011年10月10日   天候:曇りのち晴れ
コースタイム:津里宇賀神社8:50−山本山山頂9:15〜10:00−宇賀神社10:15
【山本山城の歴史】

1 平安時代末期、以仁王の平家追討の令旨に応じた源氏方山下兵衛尉義経がこもった「近江山下城」がこの山本山城と言われる。

2  治承4年(1180年)、平家に攻撃され、南麓の居館が焼け落ちる。

3 戦国時代、京極氏の被官の阿閉氏が本拠とするが、永正年間(1504年〜1521年)には尾上城の浅見氏が詰城と使用。浅見氏は小谷城の浅井亮政と反目したが、次第に勢力下になって、小谷城の支城となる。

4 浅井長政は阿閉貞征を再度山本山城に配置し、小谷城を防御する最重要拠点とした。「大谷(小谷山)と山本山の間、50町(約5.5km)にはこれを過ぐるべからず」と防衛ラインをひいた。

5 元亀元年、信長に反旗を翻し、同3年山本山城の阿閉氏を攻め、信長公記には「阿閉淡路守楯籠もる居城山本山へ木下藤吉郎差し遣はされ麓を放火候。然る間城中の足軽百騎ばかり罷り出て相支へ候。」とある。

6 翌天正元年(1583年)8月、阿閉貞征、貞大親子は織田方に下り、その後、程なく小谷城も落城。

7 天正10年(1582年)の本能寺の変後、阿閉氏は、明智方につき、長浜城を攻撃し、山崎の合戦にも参戦。光秀が破れると捕らえられ、秀吉により磔に処せられた。小和田哲男氏は、阿閉氏が長浜城を攻撃し、妻おねや母なかを伊吹山に逃れざるをえなかったような襲撃を行ったことが、秀吉として赦せなかったことだろうという。

(「近江の山城ベスト50を歩く」中井均編、「み〜なbP07 小谷城防御の最重要拠点」より)
湖北の田園と山本山 山頂からの琵琶湖と竹生島
【探訪記】

 もう何回か目になる山本山。今回の目的は、山本山城をしっかり見ること。
初めて津里の宇賀神社から登っていく。整備された道が続き、しばらくで県指定史跡の「若宮山古墳」に着く。ここからが一気に急坂となる。神社から約20分少々で山頂へ。二の丸跡である。南北約70m、東西約40mを測る。周囲に土塁もなく、緩やかに傾斜している。ここはブルドーザーで破壊されたらしい。しかし、ここからの琵琶湖と竹生島の風景は素晴らしい。
 
 そして北に進むと、本丸に。周囲を高い土塁に囲まれている。南北38m、東西23mの長方形の曲輪。南東、東北、東に戸口を設けている。東には帯曲輪が東側の虎口と結ばれ、二の丸に続いている。西にも一段下がって帯曲輪がある。

 北に進むと、細い尾根を堀切、曲輪を交互に配置して防御を固めている。その数は堀切六条、曲輪八箇所に及んでいるという。
二の丸跡 本丸跡
本丸東側の土塁と虎口 本丸北側の堀切と今の時代の板橋
堀切と昔のままの土橋 一番番場跡

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