長比城 国境の城 織田勢を防ぐための砦、だが。
−米原市柏原、長久寺−

東の曲輪跡 西の曲輪 東側の食違い虎口
名称:長比城
所在地:米原市柏原、長久寺、岐阜県関ヶ原町
標高:391m
比高:250m
築城〜廃城:元亀元年(1570年)
探訪日時:2011年9月25日(日)   天候:くもり
コースタイム:長久寺神明神社−野瀬山山頂(長比城)−神明神社
【長比城の歴史】

○古来、この辺り一帯を「たけくらべ」と称した。一条兼良の「藤川記」(文明5年)に「たけくらべというは近江とみのとの山を左右に見て行所なり」とあるように、長比城眼下を通る東山道の両側にそびえる山々がその背丈を競い合っているようであることから、その名がつけられたといわれる。

1 元亀元年(1570年)、浅井長政の離反に対し、織田信長が長政の討伐に向かった。これに対し、浅井、朝倉連合軍は近江・美濃国境に防衛ラインを設けた。『信長公記』(元亀元年6月条)には、「去程に、浅井備前越前衆を呼越し、たけくらべ、かりやす両所に要害を構え候」とあり、浅井長政は、越前衆の力を借りて長比城、苅安城(上平寺城)を築城した。

2 しかし、守備していた堀秀村、樋口直房は信長軍に内応し、あっけなく落城した。上記『信長公記』には「信長公御調略を以て、堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。…信長公御馬を出だされ、堀・樋口の謀反の由承り、たけくらべ・かりやす取物も取敢えず退散なり、たけくらべに一両日御逗留なされ、」とある。(近江の山城ベスト50 中井均編より)
中山道沿いの登山口 長比城の縄張り図
【城の特徴】

1 長比城は、東と西の曲輪からなり、「境目の城」によくみられる、「別城一郭」となっている。
2 西の曲輪は、東西約50m、南北最長で約30mで、三角形の形状となっている。分厚い土塁が周囲に残り、虎口が南に、そして東には食違い虎口が残っている。
3 東の曲輪は、西の曲輪から尾根を少し登る。方形の曲輪で、東端の北側と南側に食違い虎口を設け、特に北側の虎口は明瞭に残る。
4 これらの形状から、美濃側の東方面を意識した造りで、築城に際しては、越前衆の築城技術を見られるという。
(「近江の山城ベスト50」 中井均編)
西の曲輪 分厚い土塁
【探訪記】

1 午前中に時間がつくれ、近くの長比城のある野瀬山へ。
2 柏原から旧中山道を東に向かい、JR東海道線の踏切を渡ってすぐに、登り口のある神明神社につく。ここから、コンクリート舗装道を真っ直ぐに登ると、左手の尾根手前に長比城の案内板がある。尾根上の秋葉神社の横を通って、急な尾根道をほぼ直登し、一旦平坦になったあと、さらに蜘蛛の巣にからまれながら、急登すると、西の曲輪につく。登山道はかなり急だが、樹林は手入れされ、日が差し込み明るい。

3 西の曲輪は、三角の形で、土塁は2mほどの高さで明瞭に残り、南と東に虎口があり、東の虎口は食違い虎口となっている。想像以上に遺構はりっぱだ。

4 東の曲輪へは、ゆるやかに尾根を少し登ると着く。近江ののろし駅伝の用具が残っている。ここからは柏原の集落だけでなく、元亀年間にこの城を築いた浅井の本拠である小谷城を始め、湖北平野や、信長公記にたけくらべと同時に整備されたと記された「かりやす(上平寺城)」がある伊吹方面も一望である。

5 東の曲輪では、特に東端の北側の食違い虎口が明瞭に残る。東の南側の虎口も残る。曲輪の中では、蜘蛛の巣にあまりの多さに閉口する。頭から体が蜘蛛の巣だらけに。きっと、ほとんど誰も来ないんだろうなぁ。

6 西の曲輪に戻って、往路の山道を下っていくと、初老の登山者が登ってきた。お話をしていると、「登ってられたんですか?どうりで、蜘蛛の巣がないと思った。」と言われた。はい、登山道や曲輪にある蜘蛛の巣のほとんどを壊してきました。

7 登りは大変ですが、そんなに標高差はなく遺構もしっかりと残り、山頂からの展望もよく、おすすめの山城です。
中山道の宿場町 柏原 湖北を望む 右奥に薄く小谷山
 山頂のある東の曲輪からの展望はいい。眼下には中山道の宿場町柏原、反対に目を転じると、伊吹山がドーンと聳え、北には湖北の盆地が広がる。
 この長比城の修復を命じた浅井長政がこもる小谷山や、織田方が陣取る横山城などが、北国脇往還の左右に広がる。
東の曲輪北東の食違い虎口 東の曲輪
東の曲輪南東の虎口 明るい山道

長比城(野瀬山)の遠望 −京極家菩提寺のある清滝の近郊から−


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