伊吹の里 「峠」のシシ垣

 伊吹の伊吹地区と小泉地区を結ぶ県道、明治期に開削されたこの道は姉川沿いの渓谷(蝉合渓谷)が美しい箇所だが、その伊吹山側の上は台地になっていて、そこは肥えた土壌と寒暖の差、山から吹き降ろす風などの自然の恵みを受けて、古くから耕作が行われていたという。特に、大根は、「伊吹大根」、「ねずみ大根」、「辛味大根」と呼ばれる特産種で、今も量は多くはないが生産され、県でも農産物のブランド戦略の一つに位置づけている。
 以前は、台地上のルートが本道でここに、江戸期にイノシシやシカの被害を防ぐために作られた「シシ垣」が残っている。

「峠のシシ垣」

 現在確認されているシシ垣は、
約900mであるが、江戸期の記録では約2.5kmものシシ垣が構築されていたらしい。

 今年(2009年)8月末に、「伊吹の源流を考える会」で峠のシシ垣の草刈作業を実施しました。

 このシシ垣、この地の村人が文政7年(1824年)に領主である浜松藩に構築を願い出たもの。記録ではその8年前の大火で村が困窮しその上、峠の畑の大豆がイノシシや鹿に荒れ果てて困っているとして、1,400間(2.4km)の石垣など3つの工法によるシシ垣を構築を願い、その作業の扶持米を嘆願した。
 また、10年後の天保5年(1834年)には、耕地の山側法面をシシなどが登れないように削った「土居切込」工法のシシ垣800間が毎年の大雪で破損したため、困窮した村では直せない残り350間を浜松藩に普請するよう嘆願している。

苔むすシシ垣 一部崩壊した石垣にヒガンバナ

 江戸期は山間部の貴重な耕作地であったこの場所も、現在では、その多くで木が茂り、シシ垣も一部で崩壊している。
 獣害という今も昔も変わらず悩まされる問題への対処法は、シシ垣から電気柵への移り変わって、現在ではシシ垣の本来の役割も終っているが、江戸期の村人が生活が困窮する中、わずな耕作地を地域で団結して守ってきたことを今に示すこのシシ垣は、地元の歴史を考え、学んで現在に活かす、素晴らしい遺産といえます。

 文政7年の願い出では、「…何分獅子荒シ甚難渋仕猶又此侭捨置候而者 大切之畑山林同様ニ相成猶又百姓難相立…」と、イノシシなどの被害は尋常でなく難渋し、ここままほって置けば大切な畑がもとの山林になってしまう!と悲痛な訴えを藩役所に訴えているのである。
 しかし、時が移ってしまうと、今、その百姓の生活を支えた大切な畑は、悲しいことに村人がなんとしても防ぎたかった荒れた山林になってしまった。そしてまた、獣害に悩んでいるのである。

 このシシ垣から学ぶべきものは多いような気がします。

 (ここの文は、シシ垣ネットワークの「住民参加型のシシ垣遺構調査と現代的意義を考える」所収の米原市教育委員会 高橋順之さんの「伊吹山麓「峠のシシ垣」の歴史的考察」からその多くを引用させていただきました。)

 シシ垣の草刈作業 峠から望む大久保地区

 峠のシシ垣へは、大久保地区の長尾寺案内板の少し奥から、右にぐいっとコンクリート舗装の狭い道を登り、南方向へ約500mくらいガタガタ林道を登ったところですので、普通の乗用車ではつらいです。現地には、シシ垣の案内板があります。

ホーム 伊吹の源流