小谷山北面:焼尾丸探訪コース
−上山田〜焼尾丸〜大嶽城〜下山田−

焼尾丸跡からの小谷山 大嶽丸北西の堀切

日 時:2011年11月23日(水)  天 候:曇り
コースタイム:(旧湖北町)上山田14:17−尾根上平坦地(焼尾丸?)14:35−大嶽城北西上山田・下山田分岐14:48−小谷山山頂(大嶽城)15:01/15:38−古墳15:50−大岩15:55−浅井氏三代之塚16:09−下山田(旧医王寺跡)16:16−上山田16:25  (*かなり駆け足タイムです)

名称:焼尾丸
所在地:長浜市(湖北町)上山田
標高:253m
比高:120m
築城〜廃城:元亀元年(1570年)?〜天正元年(1573年)
【焼尾丸の歴史と概要】

@焼尾丸は小谷山山頂にある大嶽城から見て北西の尾根上にある砦。明確な位置ははっきりしないが、どうも旧湖北町上山田から小谷山頂につづく細長い尾根の平坦地(標高253m)のよう。
土塁など遺構はないが、小谷城址保勝会蔵の「小谷城絵図」では、焼尾丸は上山田の上部に描かれ、下山田(旧医王寺跡)からの尾根上とは明らかに場所を異にすることからの推測。

A天正元年(1573年)、浅井氏側の浅見対馬守は焼尾丸を守っていた。

B同年8月8日、山本山城主阿閉貞征が羽柴秀吉の調略で織田側に寝返ったことで、小谷山包囲網が可能となった。同日、信長は岐阜城を出発し、同月10日、越前から小谷山へのルートを封鎖し、援軍に南下してきた朝倉義景の2万の軍勢を小谷城への入城を阻止し、木之本や余呉に足止めした。
Cこの中、焼尾丸を守る浅見対馬守が降伏した。

D8月12日、畿内に襲来した嵐を好機として、信長は浅見対馬守の手引きで大嶽を攻撃、落城させた。翌13日、形勢不利と見て撤退する朝倉氏を強襲し、刀根坂の戦いで壊滅的な打撃を与え、嫡男信忠の手勢を押さえに残して、越前に攻め込み朝倉氏を滅亡させた。

E8月26日、信長は虎御前山に帰陣し、翌27日、羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急傾斜から、小谷城京極丸を急襲し陥落させ、浅井久政が守る小丸を落城させ、久政は自害、翌日には本丸も落ち、浅井長政は本丸の袖曲輪の赤尾屋敷で自刀し、浅井氏は滅亡した。 (「wikipedia」 小谷城などから)

 しかしながら、この浅井氏滅亡の日には異論がある。太田浩司氏によると、浅井長政から片桐且元の父である孫右衛門尉へ8月29日付けで籠城の礼の手紙が残っていること、浅井久政が同月27日に西野弥治郎あてに出した文書も残り、結局8月29日に久政が、9月1日に長政が自刀ということになるという。(「浅井長政と姉川合戦」太田浩司著)

Fということで、焼尾丸の降伏は、山本山城のそれとともに小谷城陥落の一つの引き金となった。

【探訪記】

 今回も、長浜みーな2010年1月発行のbP05「お江のふるさと小谷城」特集号を見るて、小谷山北面のコースを探訪しました。
 今回の目的は、旧湖北町の上山田からの尾根コースと、その途中にある焼尾丸の遺構、そして紅葉も見ごろになってきた大嶽城跡。今回も午後からの出発で、時間もあまりなかったので駆け足の探訪となったが、全く誰にも会わず(獣にも)、静寂の小谷山を楽しめた。

 コースは、上山田の集落から神明橋を渡り真っ直ぐ進んで植林地に入り込み道を失う。ウロウロした挙句、再度、端の近くまで戻ると、神明宮跡の石碑の裏手に、大嶽城への案内板と山道が続いている。

 急坂を登って一旦平坦になり、さらに登ると上山田の集落が望める平坦地に着く。標高253m、帰ってから調べてみるとどうも、ここが焼尾丸跡らしい。土塁も何もなく、かなりスペース的には狭い。

 ここからがかなりの急登となる。ほとんど歩かれていない感じで、草が刈り取られた踏み跡のような山道をあえぐと、ようやく大嶽からの緩やかな尾根に合流する。ここには下山田へ下る道との分岐があった。

 南に登って行くと、大嶽の手前に2つの堀切があり、そこをこえると、小谷山山頂、大嶽城跡である。。
大嶽城跡
大嶽城主郭西の曲輪 大嶽城主郭西の土塁
主郭あたり 主郭南尾根の小曲輪と石垣跡
名称:大嶽城
所在地:長浜市(湖北町)郡上?
標高:495m
比高:395m
築城〜廃城:大永3年(1523年)頃〜天正元年(1573年)

【大嶽城の歴史と概要】

@大嶽城は、大永3年(1523年)頃、浅井亮政によって築城されたといわれる。大永5年には佐々木六角氏によって攻められたという記述もある。
A浅井氏の本丸は、その後下部の尾根に移ったが、織田氏との戦いの際、朝倉氏により大幅に改修された。しかし、天正元年(1573年)8月、大嶽城北方の焼尾丸が降伏したことにより、織田氏の攻勢にあい陥落した。
【探訪記 つづき】

 かなりきれいに紅葉しつつあった。時間も午後3時を過ぎ、祝日ではあったが誰もいない。ゆっくりと戦国の遺構を楽しみ、併せて、雲間から差し込む太陽の光に輝く琵琶湖の景色に感動。
 大嶽城は主郭を中心に土塁や曲輪が配置され、北への尾根には堀切があって結構大きく、興味深い。
ここにも、東尾根と同様に、縄張り図があればもっと理解を助けてくれてうれしかったんだけど。

 大嶽を後にして、下山田へのルートをとる。途中、古墳と称される石組みの遺構(井戸かなぁ?)や谷間の大岩からの展望なども楽しめ、麓近くには明治時代に地元民によって建立された「浅井氏三代之塚」も草も刈られ整備されていた。上山田ルートよりこの下山田ルートのほうがはるかに歩きやすいです。

 下山田の日吉神社(旧医王寺跡)に下山する。
 もともとこの地にあった医王寺は、浅井亮政の小谷城(大嶽城)築城に伴い、小谷山南麓に移され、浅井家の菩提寺となった。浅井家滅亡後は秀吉が長浜城内に移し、浅井亮政の謚号徳勝寺殿にちなんで、徳勝寺に改号した。さらに、元和3年(1617年)徳川秀忠が寺領33石を安堵。寛文12年(1672年)浅井長政百回忌に際しては、彦根藩主井伊直惟が現在の地(長浜市平方町)に移築し、時間を整備した。また、中御門天皇は長政に正2位大納言と白銀50枚、白緞子紋章付き幕を下賜、以後、皇室より年忌ごとに香料を与える慣例となった。などなど、幕府や皇室からの加護は、秀忠の室が浅井長政の三女於江与(江)であったことによることが大きい。 

 下山田からはのんびりと川沿いを上山田に向かう。途中、川の水面上を鮮やかな青い小鳥が飛んでいった。きっとカワセミだと思います。今日はほんとうにいいものを見せていただきました。
  
絶景、小谷山頂からの輝く琵琶湖と竹生島
頂上から北西に伸びる尾根上の古墳? 大岩からの湖北の風景(手前は下山田)
浅井氏三代之塚 旧医王寺のあった日吉神社と小谷山

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