観音寺城:石積み、石垣の遺構満載の巨大山城
−石寺〜観音正寺〜三角点〜本丸〜淡路丸〜巨大土塁〜追手道〜林道−

伝本丸の食い違い虎口 伝平井丸の巨石の虎口

日 時:2011年12月11日(日)  天 候:くもり後晴れ
コースタイム:石寺11:20−御館跡11:24/32−日吉神社11:35−観音正寺11:48−繖山三角点12:02−本丸12:15−平井丸12:31−池田丸12:49−観音正寺13:22−淡路丸13:31/42−大見付大石垣13:47−伝三国の間14:10−池田丸14:26−木村邸14:38−林道14:55−(林道経由)−石寺15:21

名称:観音寺城  別名:佐佐木城
所在地:近江八幡市(安土町)
標高:432m
比高:350m
築城〜廃城:建武2年(1335年)頃〜永禄11年(1568年)
観音寺城の歴史

@近江源氏佐々木氏の嫡流である近江守護六角氏の居城。六角氏は、鎌倉、室町を通じて近江守護職をほぼ独占し、戦国時代には江北の同族の京極氏、浅井氏と対峙しながら江南に君臨した、中世を代表する名族であった。(「近江城郭探訪」滋賀県教育委員会編)

A南北朝時代の建武2年(1335年)に、北朝の六角氏頼が、南朝側の北畠顕家軍に備えて、篭ったという記述が「太平記」にあり、そのころには築かれていたと見られる。

B室町時代の応仁の乱(応仁元年(1467年)〜文明9年(1477年))では、六角高頼が西軍に属したため、同族の京極持清に攻められている。応仁の乱では3度、観音寺城の攻防戦が展開された。

ア 第1次観音寺城の戦い
  西軍の山名宗全に属した六角高頼の観音寺城は、東軍の細川勝元に属した京極持清の子勝秀の攻撃を受け、城の留守居役の伊庭行隆が応じたが敗れ、応仁2年(1468年)、城を明け渡した。

イ 第2次観音寺城の戦い
 応仁2年11月、弓削の戦いで敗れた六角政尭と京極持清連合軍は、再度観音寺城に攻め入る。守備していた六角高頼軍の山内政綱は守りきれず敗走した。

ウ 第3次観音寺城の戦い
 応仁の乱3年目の文明元年(1469年)、東軍の細川勝元は第8代将軍足利義政を擁して官軍となり、近江守護職から六角高頼を解任し、代わりに京極持清を任命し、持清に従わない者の知行地も没収する特権も与えた。これに激怒した六角高頼軍は観音寺城を修復し立てこもる。これに対して、京極持清は多賀高忠や六角政尭を派兵し鎮圧に向かったが、結局、京極軍は撃退された。

C応仁の乱後の戦闘経過−長享・延徳の乱−
 応仁の乱後、六角高頼は、幕府御料地を侵略し、長享元年(1489年)第9代将軍足利義尚の親征を、延徳3年(1491年)に第10代将軍足利義植の親征を受けたが、六角高頼は2度とも観音寺城を放棄し甲賀の山中でゲリラ戦を展開、一時的に城を明け渡すが、共に奪回している。
 

D戦国時代の観音寺城の戦闘−伊庭氏の3度の反乱−
 文亀2年(1502年)、永正13年(1516年)、大永5年(1525年)の三度にわたって、六角高頼の被官伊庭貞隆、行隆が反乱を起こしたが、鎮圧された。六角氏は六角定頼が当主のころ、北近江の浅井氏を支配下に置き、幕府からも管領の地位を与えられ全盛期となった。さらに、定頼の跡を継いだ六角義賢などにより大幅な城の改築が行われ、今に残る巨大な山城となった。

Eついに廃城へ。−観音寺城騒動と織田信長の侵攻−
 しかし、六角義賢(承禎)、義治(義弼)父子の時、永禄3年(1560年)、浅井長政との戦いで敗れ、さらに永禄6年(1563年)、六角氏の重臣で人望も厚かった後藤賢豊を観音寺城内で暗殺したことに伴う家臣団の分裂で六角氏は衰退する。これを好機とし、織田信長は永禄11年(1568年)、足利義昭を擁して上洛し、観音寺城の支城箕作城、和田山城を落とされると、六角義賢(承禎)、義治(義弼)父子はほとんど戦わず、甲賀に遁走した。ここに六角氏の近江支配は終わり、観音寺城も廃城となった。 (「wikipedia 観音寺城、観音寺騒動」)

伝池田丸の広大な曲輪 権現見付上部の大石垣
【観音寺城の構造など】

@観音寺城は、繖山の南面に1000箇所以上の曲輪があり、そのほとんどが石垣で囲まれた国内屈指の大規模な山城。この山城の特徴として、普通は居住に便利なように山麓に居館を設け、山上に戦闘、防備施設があるのだが、ここは山全体に居住性の高い曲輪が配されている。

Aこれは、この近江の地域は自立意識の高い国人衆が多く、彼らと連合政権のような政治を実施していくため、広い屋敷をもつ曲輪が必要であったといわれる。このため、防備のための城というより、権威付け、政治色の強い城であり、防御施設が貧弱といわれる。

B実際、六角氏はこの城では本格的な籠城戦はせず、一旦城を明け渡した後、再度勢力を整えて奪い返すという戦術を、上記のように何度も取っている。(「wikipedia 観音寺城)

C観音寺城は、山城の中で防御面で弱いという評価になっているが、この本城は一体どこか。最高所の三国間を中心とした一画は他の曲輪から独立し、いわゆる石段を登る縦走路の導線は見当たらず、東西南北の随所に防御施設が見られることから、この三国の間周辺が本城であるというのが研究者の一致した意見のようです。(2011年5月「淡海の城」第25号 「観音寺城の縄張再考」より )
【観音寺城の縄張図(2011年5月「淡海の城」第25号より引用)】
御館跡への石段(石寺集落の山手) 城内でも規模の大きな御館跡の石垣
観音寺城跡内部にある観音正寺 三角点への途中の楢崎邸跡の石垣
三角点から琵琶湖南湖と比叡山(右端) 三角点からの西北方向(琵琶湖北湖と伊庭内湖)
【探訪記】

 旧安土町の石寺から探訪を始めます。

《御館跡》
 石寺の集落を抜け、坂道を登ると、日吉神社の鳥居のある分岐点へ。ここで右に行き城内最大の石垣が残るという「御館跡」に向かいます。苔むした石段を登ると御館跡に着く。その南東端には石垣がうず高く積まれ、城内でも最も高い石垣と言われます。いきなり、観音寺城の特徴である石積みの遺構の中でも最大のものに出会った。でも、あまりに観音寺城の城域が大規模すぎてか、周囲は竹や雑木が茂り、未整備なのが残念。

《三角点》
 もとに戻り、日吉神社の入口から、観音正寺に続く赤坂道と呼ばれる巡礼道を登っていきますが、延々と続く石段。息も切れ切れになり、閼伽坂見付を通って、石寺から登ってくる有料林道の駐車場を横目に、ようやく観音正寺に到着。お参りは後にして、まずはお寺の横に山道に入り、三角点への分岐からさらに急坂を登る。三角点への途中にも、名も知らない曲輪の石垣も雑木林の中にしっかりと残っている。

 標高432mの三角点には頑張って登ってきたこともあり30分少々で到着。ここからは、南には近江八幡の市街地の向こうに琵琶湖南湖や比叡山、西北には湖東の田園や伊庭内湖の向こうに琵琶湖北湖と湖西の山々が望める好展望。
伝本丸 伝本丸の食い違い虎口
伝本丸の溜枡跡 太夫井戸(精緻な石仕組みの内部には今も水が)
本丸への大手道石段 大手道横の暗渠排水跡

《伝本丸》
 本丸は、標高395m、面積は2,000uと広い。桑実寺から登ってくる道が本丸に入るところには石組みの食い違い虎口がドンと残り、、そのすぐ下には太夫井戸があって精緻な石組みの内部には今も水を湛えている。広い曲輪の南には溜枡跡が落ち葉に埋もれている。

 本丸から大手道の石段を下る。この石段は昭和44年に発見され、それまでは土砂や雑草に覆われた単なる斜面だったという(「戦国廃城紀行」 澤宮優著)。この石段はまさに歴史を感じられる遺構である。石段の中ほどの右手には暗渠排水跡の遺構も残り、戦国の時代に土木技術も行使されたものと驚かされる。
伝平井丸の埋み門 伝平井丸の虎口
平井丸前の伝落合氏屋敷跡と宮津口見付 平井丸南門の石垣 大きな石で組まれる

《伝平井丸》
 伝平井丸は、標高375mで、面積は約1,700u。平井氏の居館があったといわれる。城内でも石垣、石塁の規模が最大の曲輪。その中でも、虎口は高さ3.8m、長さ32mに及び、2m以上の石も使用される。また、虎口の東側には埋み門もあるが、石積みが崩れかけている。なお、平井丸の内部は手入れされていない杉檜で薄暗いが、所々に何の目的かはわからないが、石組みが高く積み上げられている。
 それにしても平井丸の虎口の石垣は物凄い。16世紀の安土城建築以前にこのような石積みの山城があるなんて。

《伝池田丸》
 そして、伝池田丸へ下る。
 池田丸は標高365m、面積は2,700uでとっても広く、周囲は石積みに囲まれている。虎口は東、西そして南にあり、南の戸口からは麓に追手道がつながる。ただし、途中の林道へは急傾斜のくだりで、林道から下は不明瞭。この池田丸は広い。上部の平井丸と違い曲輪内の木々も少なく、一層広く感じる。曲輪内の南側には石組で掘られた、本丸の溜枡跡のような遺構もある。
伝平井丸から池田丸への道沿いの石垣 伝池田丸(北から南側)
伝池田丸(南からから西側) 観音正寺の南端の石垣(城跡へのルート)
権現見付の石垣 権現見付山手の大石垣

 再度、観音正寺に戻り、淡路丸へ足を延ばす。観音寺城跡、広いです。一つの遺構だけでも十分歴史的価値があるものが山中に点在している。ここを上手に整備できれば素晴らしい戦国の学習フィールドになることでしょう。西国33箇所の観音正寺も含めれば、仏教文化も合わせた厚みのあるゾーンに。ポテンシャルはきわめて高いです。

《観音正寺》
 観音正寺は、平成5年(1993年)に全焼し、彦根城の欅御殿を移築した本堂と、重要文化財の本尊木造千手観音立像や寺に伝えられてきた人魚のミイラは焼けてしまったが、平成16年に再建された。まだ新しい本堂には参拝の人たちが次々と訪れているが、寺の南端にある城跡への山道に入っていく人は極くわずか。

《権現見付・大石垣》
 寺から川並道への林道を行くと、大きな石垣が両側にある権現見付を通ってすぐの山手に大石垣がある。この大石垣は、林の中にあって林道からは見にくく、ついつい見過ごしてしまいそうだが、自然の巨岩も組み入れた石垣は何段にも積まれたりっぱなもので、これが一番大きな石垣ではないかと思うくらい大きい。
伝淡路丸 西の虎口と石積み 伝淡路丸 東の虎口
大正時代の佐佐木城跡の碑 城跡の碑の下の巨岩と石垣
大土塁の上の山道 山頂間近の伝三国の間の石積み

《伝淡路丸》
 権現見付を過ぎて川並道の方に進むと、右手の小高いところにあるのが伝淡路丸。
観音寺城の東に独立した形で、東西43m、南北50mの規模で、布施氏の居館淡路丸の曲輪跡。ちょうど観音寺城の鬼門に当たる。ここも広く見ごたえのある遺構である。淡路丸は観音正寺への林道からすぐの高台にあるのに案内板もなく、参詣客のほとんど全てが気づかずに通り過ぎているのが残念。

《佐佐木城跡石碑・大土塁・伝三国の間》
 時間もあるので、淡路丸の近くから大土塁を経由して三角点に登っていく山道に入る。途中には林の中にも石垣が垣間見られる。少し進んで、標識に従い左に入ると、岩が重なった高台の上に「佐佐木城跡」という大きな石碑がある。大正時代に設けられたものらしいが、以前は人の往来も多かったのかもしれないが、今では何ともわかりにくい場所となっている。石碑のところから下と覗きこむと、ここにも自然の苔むした巨岩が重ねなり、その中にも石垣が組み込まれている。

 この辺りから両側が急傾斜の痩せた尾根道となる。ここが大土塁で、人為的に削られ防御用の土塁に構築されたものらしい。それにしてもスケールが大きい。緩やかな登りの尾根道が続いている。初冬のこの時期は多くの木々が落葉し、一部には紅葉も残り気持ちいいコースです。
 最高部には着くと、大きな石の石積みがまた現れた。伝三国の間です。周囲から一段高く「三国」というように木々がなければ展望が大きく開ける場所です。
池田丸下の大石垣 追手道途中の曲輪と巨岩 庭園のよう
木村邸の石垣 木村邸の埋み門

《追手道・木村邸・林道へ》
 山頂部の尾根道から下り、帰りは追手道を経由して石寺の御館跡へ降りることととする。再度、平井丸、池田丸を経由して、池田丸の南の虎口から下る。
 どんな道か不安だったが、意外に整備されほっとする。すぐに目の前に東に大きく箕作山などの展望が開け、その少し下から山手を振り返ると、大きな石垣が幅広く残っている。これも城内屈指の石垣と言われるもの。
 さらに少し下って左手に進むと、木村邸がある。曲輪内は未整備だが、斜面の石垣だけでなく、周囲の石積みの中に、落ち葉が積もった埋み門を見つけた。石の曲面を利用した精巧なもの。
 このコースも魅力満載で、ほとんど利用されてないのはもったいない。

 一旦、もとのところに戻って下ろうとするも、伐採した枝で塞がれている感じで先に進めない。でもよく見るとその下には道が続いているようである。無理して回り込むと、案の定、しっかりした山道が下っている。行けるやないか、何で塞いでいたんだろうと思いつつ下ると、急傾斜の下には舗装された林道が見えてきたが、道がなくなった。これはいかん。戻るのは嫌やし、目を凝らすと、林道へ落ちるように下る踏み跡がある。木にはテープも巻いてある。滑ると林道に転がりそうなので慎重に枝を持って、何とか林道へ出た。

 ここからも尾根伝いに追手道が下っているはずだが、いくらあちこち探しても踏み跡は見つからない。藪の中に突入する元気もなく、結局、遠回りになるものの林道を利用し駆け下りることとした。途中でランニングの人や自転車のヒルクライムの人にも出会う。1キロ余りを下り降りて麓に。最後はのんびりと、初冬のの日差しの中、観音寺城のある繖山を眺めながら、車に戻った。
石寺からの繖山。中央の谷を挟んで、右手上部に観音正寺、左手尾根上に、本丸、平井丸など。

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