太尾山城 江北と江南の「境目の城」
中山道と湖岸沿い街道に挟まれた交通の要衝の地

北城の主郭跡 南城北端の堀切
太尾山(左端が北城、右が南城) 北城からの米原と広がる琵琶湖
名称:太尾山城
所在地:米原市米原、西円寺、梅ケ原
標高:254.3m(北城)、242.4m(南城)
比高:約170m
築城〜廃城:不明〜元亀2年(1571年)

探訪日:2011年8月11日   天候:晴れ
コース:青岸寺−北城−南城−湯谷神社−青岸寺(周回コース)

 米原駅のすぐ東に位置する太尾山、標高254m。ここに、戦国の時代、江北の京極・浅井氏と江南の六角氏との国境線に位置した「境目の城」として太尾山城が築かれました。
 同じような境目の城としては、佐和山城、鎌刃城、菖蒲嶽城、磯山城、朝妻城があげられる。

【太尾山城の歴史】
@築城は在地の土豪米原氏によって行われたと伝えられるが詳細は不明。
A文明3年(1471年)、美濃の齋藤妙椿が近江に侵入し、「米原山」で合戦。これが「太尾山」とみられる。
B天文7年(1538年)江南の六角氏による江北攻めでは、湖西から参戦した永田伊豆守や能登殿が太尾に着陣。
〜この後、天文から永禄年間の間、六角氏と京極・浅井氏との攻防が繰り返される〜
C天文21年(1552年)京極高広が今井氏に太尾山城攻略を命じたが失敗に。
D永禄4年(1561年)浅井長政は、吉田安芸守が守備する太尾山城を磯野員昌、今井定清に夜襲させたが、今井氏は同士討ちで戦死。
E浅井長政は、浅井郡の土豪中嶋宗左衛門を城番に入れ置くが、元亀2年(1571年)、織田信長によって佐和山城が攻められると、宗左衛門も城を降った。
Fこのように、信長の近江侵攻、南北抗争の終結によって、境目地域は消滅し、太尾山城もその役割を終え、廃城となった。 (現地説明板、「近江の山城ベスト50を歩く」中井均編より)

太尾山概要図

 麓の青岸寺からの北城経由と、湯谷神社(現在地と赤字で矢印)からの南城経由のハイキングコースが整備されていて、両城を結ぶ尾根上の道もとても歩きやすく、快適です。

 青岸寺と湯谷神社はグラウンドを挟んですぐ近くで、なお、青岸寺の国指定名勝の庭園は素晴らしい。

 さて、当日は青岸寺駐車場に置かして頂き(下山後参拝することで…)、山道にかかる。整備された道が尾根まで続き、稜線から右手に進むと、巨大な「盗人岩」がデンとある。


盗人岩

 説明版では「その昔、盗人がこの岩陰に隠れ住んで村人を脅かした」という言い伝えがあるらしい。真偽の程はともかく、岩の上からの琵琶湖側の景色は素晴らしい。

そして、太尾山跡へ。

太尾山城跡概要図
  〜北城部分と南城部分の2つの城郭からなる別城一郭構造。

【北城】
 標高254mの山頂に築かれている。
 構造は、北辺に土塁を巡らせた主郭と、南方に三段の曲輪。さらに主郭北側の急斜面直下に位置する土塁に囲まれた小曲輪。

 この小曲輪からは敷地全体を総柱とした礎石建物が検出。櫓もしくは倉庫であったと考えられている。
 この礎石建物からは、土師器皿をはじめ、中国製の青花と呼ばれる染付け磁器、白磁などが出土し、16世紀後半に築かれたものであることがわかるという。

 なお、戦国時代の『大原観音寺文書』の「中嶋宗左衛門直頼書状」にには、「太尾門矢倉之用、上野より材木三本召寄候云々」とあり、門、櫓の存在を裏付けるとともに、なんとボクの地元の材木が使われていたという驚き!

【南城】
 標高242mの山頂に築かれる。
 方形の主郭を中心に尾根筋を階段状に削平し曲輪を配置。南北端の尾根筋には巨大な堀切を設置。
 主郭の方形の土檀上からは二間×三間の礎石建物検出し、櫓台だったと。主郭からは4間×4間以上の礎石建物。ここからは多くの土師器皿や擂鉢、中国製白磁器などが出土し、恒常的な居住施設がこの山上にあったとことが判明したと。  (現地説明板より)
 

 詳しい説明板の存在は、山城の理解を助けて、築城されていた当時に思いを馳せることができありがたい。

北城主郭:北側や東には土塁も残る 伊吹山:あそこから材木が運ばれた
北城南端の堀切 検出された礎石建物(説明板写真)

 そして、尾根上の快適な道を通って、南城へ。

南城北端の大きな堀切 南城主郭の土塁
南城主郭から出土された土師器皿 堀切横の竪堀

 いつも米原駅の朝の電車の中から、眠い目をこすってぼんやりと眺めていた山にも、こんなに豊かな歴史の痕跡が残されていたとは驚き!
 南城北端の堀切まで戻って、谷沿いの山道を西に下ると、湯谷神社へ。
 由来によると、この地にこんこんと湯が湧き出ていたことにその名となり、有名な米原の子供狂言は、明和7年(1771年)御桜町天皇の即位を慶して、3輌の曳山を造り、子供に狂言芝居を演じさせたことから始まったという。

 そして、出発地の青岸寺へ戻り、参拝と国指定名勝の庭園を見学する。

 青岸寺は、「婆娑羅大名」として名高い近江守護京極道誉により開かれ、太尾山米原寺と称する佐々木家の祈願寺であった。その後、荒廃したが慶安3年(1650)彦根藩2代藩主井伊直孝の時に、曹洞宗の寺院として再興され、吸湖山青岸寺として改められ、3代藩主直澄も寺領を寄進し、建物や庭園が整備された。

 延宝5年(1677年)彦根城内に玄宮楽々園が整備された際に、その作者である彦根藩士香取氏が青岸寺第三世興欣に座禅をしていた縁で作庭を依頼され、観音様のお住まいになられる補陀落山を表現した庭園を作り上げたと言われる。(案内板より)

青岸寺 山門 庭園全景
奥に三尊石、手前は中島(鶴亀の島) 書院「六湛庵」から

 この庭園は、昭和9年12月28日に国指定名勝となる。
 山の斜面を利用して作られた築山林泉式枯山水の庭園で、巨岩、奇岩を多数配置し、四季折々に移ろう山肌にとけこむ。
 右手奥の高所に三尊石を兼ねた二段構成の枯滝石組を組み上げ、滝組から水がほとばしり、中央の池に流れ込み、ゆったりとした大海にかわっていくようすが、石組と苔で表現されている。(案内板より)
  ともかく、素晴らしい。是非、どうぞ。


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