小谷山:知善院尾(尾崎山)探訪コース
−郡上〜山崎丸〜福寿丸〜大嶽城〜郡上−

福寿丸東側の虎口 山崎丸南北の曲輪を繋ぐ枡型門

日 時:2011年11月27日(日)  天 候:曇り
コースタイム:(旧湖北町)郡上8:17−大嶽城跡(小谷山山頂)8:52−福寿丸9:06/15−山崎丸9:20/9:33−郡上9:40  (*今回もかなり駆け足タイムです)

名称:福寿丸
所在地:長浜市(湖北町)郡上
標高:250m
比高:150m
築城〜廃城:元亀3年(1572年)朝倉氏改修〜天正元年(1573年)
名称:山崎丸
所在地:長浜市(湖北町)郡上
標高:230m
比高:130m
築城〜廃城:元亀3年(1572年)朝倉氏改修〜天正元年(1573年)
【福寿丸・山崎丸の歴史と概要】

@福寿丸・山崎丸ともに、元亀3年(1582年)に浅井氏を応援に来た朝倉氏が当時の最新の技術を持って改修した山城です。

A 信長公記では朝倉義景が「浅井居城小谷へ参着候、然りと雖も此の表の為体見及び、抱えがたく存知、高山大ずく取り上がり、居陣なり」と。さらに嶋記録では「義景去んぬる晦日御着城、昨日に知善院尾筋に陣を寄せられ候」と。ここから朝倉氏が大嶽城、そして知善院尾筋の福寿丸、山崎丸を改修したことは間違いないとされる。(「浅井長政と姉川合戦」太田浩司著)

 さらに、山崎丸や福寿丸に見られる枡型虎口や空堀は朝倉氏の一乗谷にも見られず、浅井氏滅亡後、羽柴秀吉が柴田勝家との戦いに備え、修築した可能性があると中井均氏は指摘する。

B福寿丸は、ここを守護していた木村福寿庵にちなんだもので、同人は浅井久政の介錯人でもある。山崎丸は山崎吉家軍が守ったことからこの名となった。

C福寿丸の構造は、南北2つの曲輪からなる。北と東に虎口があり。東の虎口は迷路状の溜まりを設けた巧みな構造で、北側には横堀があり、東側斜面には竪堀がある。山崎丸の構造は、中央の枡型門でつながれた南北2つの曲輪からなる。南の曲輪の外側に横堀があり、これに沿った土塁はコの字状に突出した横矢懸けがある。虎口は2箇所あり北の虎口は導入路を長く取っている。土塁が直角に曲がり、曲輪全体が、迷路のようになっている。(「みーな bP05」)

小谷山頂の大嶽城跡 尾根からの雪景色の伊吹山
【探訪記】

 春に通り過ぎただけの山崎丸、福寿丸が実は貴重な山城の遺構とわかり、休みの日の朝方のちょっとした時間を利用して、往復してきました。

 郡上の集落を抜け、清水神社前に備えられたお手製の杖を利用させていただく。1時間30分ほどで戻ってくる時間的制限がある中、速足で登りだす。ハァハァと30分余りで小谷山山頂へ。頂上の大嶽城跡は紅葉に彩られ、素晴らしい。尾根からは白く雪景色の伊吹山が東に聳えている。気持ちいい朝の登山はしんどいけど、リフレッシュさせてくれます。

 下っていって、まずは福寿丸。東側の登山道から虎口に入ると、上下に2つの曲輪が広がっている。周りには土塁で囲まれ、北側にもL字型の虎口、その北には空堀が設けられている。西側には湖北の田園地帯とその向こうに琵琶湖の景色が広がっている。
南の曲輪 北側の空堀
東の虎口手前の空堀 東の虎口への侵入路(突き当りを左に折れる)

 福寿丸から少し下って山崎丸へ。ここは福寿丸より少し凝ったつくりとなっている。

 山崎丸へは、登山道から曲輪の東側からいきなり土塁を越えて南の曲輪に入り込むが、本当は西の端に虎口が設けられている。直角に土塁が複雑に築かれ、南北の土塁の間にはL字型の進入路が設けられている。北側の曲輪への出入り口も長い進入路とL字型の虎口となっている。結構、ここは興味深い。

 いいものを見られた満足感で、清水神社に下山し、木の杖を返して、さあ、次の予定が…。
南曲輪の西側虎口からはいる 南曲輪の南の横堀とコの字状土塁(横矢懸け)
北の曲輪 北曲輪へのL字型の虎口


ホーム 近江の山城