(全国の力石研究)

<報告済みの「力石」約15000個・講演>     <著書>      <報告書>     

<力石の歌(俳句・短歌・川柳など)3000作品を超えました>

(E-mail)takashim@za.ztv.ne.jp

(姫路の広場で力石のTV取材を受けました。)
http://www.city.himeji.lg.jp/kouhou/movie_channel/hiroba/pop/2403.html

 〈※力石資料に関する連絡〉
 これまで著者が所蔵していた力石に関する資料
「全国四十七都道府県の教育委員会、文化財保護審議委員、老人会、自治会から寄せられた力石情報」、
「各自治体および個人による力石が掲載された報告書」、
「力持ちに関わる番付・引き札・資料」、
「著者による力石に関する著書・論文・報告書」などは三重県総合博物館に収蔵されました。

この季節にしては珍しいように思う 秋の雨が激しく降った
寂れた宮に、激しい雨が続く 公孫樹の太い幹が濡れ 真っ直ぐな杉の幹が濡れ 蔓延った根が盛り上がった間に 俵型の大きな石が三つめり込んでいた
村の翁は知らないと言う かつてはここでも盤持ちを競ったらしい それでも、これがその力石かどうか、知らないと言う
人の記憶も風化して、盤持石も土に返る
激しい雨が石を洗う 石の記憶は、雨にもわからない…       (福江ちえり・富山県高岡市福岡町沢川「愛宕神社」)


山里に力石を尋ねし人あり 遠方より来たる まばらなる家居には 人影はなし 犬も鳴かず
山上の観音堂に 石あり 三つあり 錆を帯び まろき呈なり 鉄丸石とて力石なり
七草のころこの堂にて田遊びを演ず この日ばかりは村人こぞりて舞い遊ぶ されど 力石には目を止むる者もなし
遠方より来たる人 石と対座す 力比べに興じし若者らのさんざめきが 石より出で つかの間 杜に満つ
人の心は移ろいやすく 時代は常に先を急ぐ 村に力自慢の絶えて久しく 力石はただ元の石に成り果てぬ
山ははや秋の隣り 遠来の人 幻影を胸に刻みて 往ぬ        (雨宮清子・静岡市葵区「日向観音堂」)


<力石とは>

体育史学の分野から全国の「力石」を調査しています。

拙著に掲載させていただく「力石」に関する俳句、短歌、狂歌、川柳、スケッチを募集しております。

      
(兵庫県姫路市大津区の天満神社で       (石川県小松市浜田町の菟橋神社で行われている          (姫路市・魚吹八幡の三ノ宮卯之助像)
  
 現在も継承されている力持ち。                             盤持大会のポスターと盤持)
            力士は三輪光氏)
姫路市指定無形文化財
(平成14年8月28日指定)


北海道夕張郡栗山町中里に継承される盤持大会


力石の概要
「力石」とは、昭和初期まで全国の各集落で行われていた「力比べ」に用いられた石のことです。労働を人力にたよっていた時代には「力」が重要だった訳です。また娯楽の少ない時代のレクリェーションでもありました。「力」のある人は、稼ぎも多く村一番の美人を嫁にすることも出来た地域もありました。

 歴史とは、人々の歩みであり、そこには人間の歩いてきた道程がある。そして文化とは、創造である。また歴史とは、決して特定の人物が作ってきたものではなく、多くの名も無き人々が作り上げてきたものである。これら先人の生活の中で生まれて、人々のコミニケーションの中心に存在していた「力石」、多くの人々が汗し、親しんできた「力石」は、労働の機械化や娯楽の増加により、必要性を失い、その役割を終えた。

 過去には、全国の各集落毎に存在していたであろう「力石」は、多くの自治体で把握されていないのが現状である。さらに「力石」の意味や存在を知る人々が少なくなり、各地で「力石」が続々と紛失しているが、反面、「力石」の存在を把握できた地域において次々と保存処置が行われてきたのは、喜ばしいことである。各地には、多くの文化遺産が存在する。しかし静かに眠ってはいるが、一般庶民が毎日のように汗し、親しんできた「力石」も、まぎれもない郷土の文化遺産である。

『「力石」の歴史』
  一般に「力石」とは、中世の大力豪傑の伝説にちなむ「力石」の系列で、全国各地に存在する「弁慶の力石」などがそれである。しかし体育史学またはスポーツ人類学という立場で取り上げる「力石」とは、あくまでも一般の人々が毎日のように挑戦し、暇をみつけては「力石」の置いてある場所に集まり、老人や先輩の指導を受けて身体を鍛練し力くらべに興じた「力石」を対象としている。
 日本の「力石」は、石占(いしうら)から発生したとされる説がある。全国各地の神社仏閣に存在する重軽石(おもかるいし)である。この重軽石は老若男女にかかわらず願い事を唱えて持ち上げ、その重い軽いの感触によって願い事の成否、吉凶を占なうという信仰を対象とした石のことである。しかし全国的に調査を行っている中で、「力石」による石占的な談話は、ほとんど聞かれなかった。すなわちここでいう「力石」とは労働を人力に頼らざるを得なかった時代に労働者の間に発生し、力くらべや体力を養うのを目的にした石を指す。すなわち「力石」による「力持ち」は、一人前の男としての通過儀礼、鍛練および娯楽としての要素が濃厚であった。
 「力石」という言葉をさかのぼると江戸時代の連歌に「わくら葉やいなりの鳥居現れて(其角)文治二年のちから石もつ(才丸)」がある。文治二年(1186)ということから鎌倉時代には、すでに「力石」が存在していたのであろう。また室町時代末期(16世紀)に描かれた上杉家蔵(米沢市立上杉博物館保管)の「上杉本洛中洛外図屏風(国指定重要文化財)」に「力石(石銘弁慶石)」が描かれている。さらに安土桃山時代の日葡辞書(慶長8年(1603))にも「力石」を「力試しをする石」として記載されている。

 現在、日本で一番古い「刻字」のある「力石」は、埼玉県久喜市樋の口「八幡神社」にある「寛永九年(1632)」(写真前列左端)である。同神社には、「万治(1658~1660)」(写真前列中央)のものもある。また千葉県野田市今上下「八幡神社」に万治四年(1661)の刻字が見つかった。東京都江東区北砂「志演(しのぶ)神社」の「寛文四甲辰二月」(1664)(石銘・志演石)は四番目に古いものである。
  
埼玉県久喜市樋の口の八幡神社力石           (志演石)     

新しい「刻字」としては、東京都江東区永代の紀文稲荷神社の「昭和三十四年(1959)」がある。さらに新しいものとしては青森県鰺ヶ沢町舘前路傍の「昭和四十二年(1967)」、赤井神社(新潟県両津市加茂歌代)の「昭和四十七年(1972)」があるが談話などにより保存された年代を刻み付けたものである。
                    
(紀文稲荷神社の力石)          (青森県鰺ヶ沢町の力石)       (赤井神社の力石)

 江戸時代の終りには各地で「力石」による「力持ち」が盛んであり力持興行なども行われていた。興行を行った「力持ち力士」のなかには各地の「力石」に名前を残す者もいた。また清国(現中華人民共和国)にまで興行に出かけた例もある。さらに相撲番付と同じく「力持番付」も作られていた。さらに兵庫県姫路市には「力石人名簿」という珍しい資料がある。
 江戸時代後期から明治時代にかけて東京都では、俵や「力石」を用いた「力持ち」が盛んに行われ、年号、人名、重量などの「切付(刻字)」のある「力石」が数多く残されている。さらに「力石」を有形民俗文化財として保護している区も多くある。
 現在「力石」を用いた「力持ち」が行われている所は、全国で10ケ所ほどある。

『「力石」の競技方法』
 石担ぎ・石ざし・片手留(片手止)・振りさし・曲持ち・石回し・襷(タスキ)掛け・石運び・足ざし(足受け)・石立て・石投げ等があり、使用した「力石」の大きさによって色々な方法で「力持ち」が行われていた。

『「力石」の概要』
 「力石の形」
 ほとんどが楕円形で表面に凹凸が少ない自然石である。これは手のかかる所が少なく、わざと持ちにくい石を使用したとする説や体に傷をつけないための配慮もある。しかし地域によっては手のかかる凹部をつくったり、縄を掛ける溝を刻んだ石も見られる。
「力石の重量」
 重量としては20貫~30貫前後が多いが、これは16貫(60kg)の米俵一俵を基準として「力持ち」が行われていたためであろう。即ち16貫が最低基準であり、力自慢をするためには、それ以上の重量で競ったわけである。
「力石の呼称」
 一般に全国で使用されている「力石」という呼称も地域によっては「磐持石、盤持石、番持石(順番に持ち上げて力くらべをする石)、晩持石(晩に持ち上げて力くらべをする石)、かたげ石」などと呼ばれていた。「力石」を用いた「力持ち」のことも「バンモチ、バンモツ、力持ち、石担ぎ、担ぎ石、石ころ担ぎ、タエクラベ、強力、石にない、カド石ニナイ、肩あげ」などの呼称がある。
「力石の石銘」  
 力石に刻まれている文字から、石の重量から、石の形状から、人名から、設置場所から、伝説から、石の産出場所から 石銘が付くものは多々ある。
「力石の設置場所」
 力石が置いてあった場所は、公民館(昔の若衆宿、少し前までの青年団寄り合い場などが多い)前などの広場、道路が交差した辻、神社仏閣の境内など様々であるが、人々が集まれるスペースのある場所であった。
 全国各地に、小字名や通称も含み「力石」という地名が残っている。その他、屋号(家号)などで残っている所もある。これらの地には現在も「力石」が保存されている所もあるが、紛失している所においても、おそらく過去に「力石」があり、多くの人々のコミュニケーションの場であったことが推測される。

『「力石」あれこれ』
 江戸時代から昭和の初期まで全国の多くの集落で「力石」を用いての力くらべ(力持ち)が行われていたようである。これまでは北海道における「力石」の報告は無かったが、著者の調査によると北海道からも「力石」の情報が得られた。現在、著者の元には北海道から沖縄までの情報が蓄積されており、そのうち約15000個を報告してきた。
 昔の人々は、ほとんどの労働を人力に頼るしかなく必然的に個人の体力が必要とされていた。そのため、ほとんどの集落で各種の力くらべや身体を鍛えることが行われ、同時に数少ないレクリエーションとしての役割も果たしていた。  もともと「力石」は、農村では米俵を、山村では材木を、漁村や港湾地域においては醤油樽、油樽、酒樽および鰊粕などの運搬に従事する労働者の間から発生したものである。これらの労働者は一定の重量を担げないと一人前と見なされず肩身の狭い思いをした者もあった。調査の過程で全国のどこでも身体鍛練と娯楽を兼ねた「力くらべ」の情報が得られている。しかし多くの労働が機械化されるとともに種々の娯楽が増え、「力石」は現在その役割を終え、その存在や意味が忘れ去られ続々と紛失している。中には庶民および郷土の文化遺産として保存処置がとられ説明が添えられている地域もあるが、まだまだ多くの「力石」が神社や寺の境内、集落の一隅に放置されているのが現状である。また「力石」を知る人々が少なくなりつつある今、その確認が急がれるところである。反面、「力石」の確認された地域においては次々と保存処置が行われてもいる。

『全国の「力石」に対する動向』

「民俗文化財としての「力石」」
 現在、有形民俗文化財として指定保護されている「力石」は、全国で三〇〇個程度であり、まだまだ見捨てられている「力石」が多い。

「現在も行われている「力石」による「力持ち」」
 全国の約10ケ所で行われている。

「力石の保存方法」
 現在、全国各地の「力石」が続々と保存されつつある。全国各地の保存状態を見ると板に墨やペンキで説明が書かれているところでは、説明板が朽ちて倒れてしまったものや説明文が判読出来ないほど薄れているものが多々ある。石柱もしくは石板に説明を刻字して保存していただければ長く「力石」の意味と役割を伝えることが出来るであろう。

「力石保存への動き」
 広島県尾道市や福山市には、見事に整形された「力石」が数多く現存している。
 尾道市においては、昭和60年(1985年)の成人式記念品として西国寺境内に残る「東濱力石」の切付がある「力石」のミニチュア文鎮を作成した。また町起こしの一環として長江の御袖天満宮に「力石」を担いだ大湊和七の像が建立されている。平成8年2月7日には市政施行百周年を記念した催しで「力持ち和七」物語が上演されるなど「力石」への啓発が取り組まれている。
                       
      (大湊和七像)                                 (兵庫県宍粟市波賀町で集石保存の力石)
 福山市では、平成7年(1995年)に「鞆の津の力石」が発行され、鞆の浦歴史民俗資料館に保存展示されている「拔山」の刻字がある「力石」のミニチュア文鎮を作成し、市民への「力石」啓発に取り組んでいる。その結果、平成12年23個の「力石」が福山市重要文化財に指定された。
 これら各地における「力石」保存の動きは、住民の「力石」に対する文化財としての理解が深く、先人の文化遺産を大切にしたいという願いが実を結んだものである。  体育史学的および民俗学的な文化遺産である「力石」について、さらに啓発と保存が望まれる。