令和7年11月25日
大相撲九州場所は、ウクライナ出身の関脇安青錦が優勝しました。小柄なのに、本当に強かった。17歳の時ウクライナを出て、相撲を取るために、はるばる日本へやってきました。ロシアの侵攻が今なお続く故郷、彼にとって稽古の厳しさなど何でもないことなのでしょう。安治川部屋に入って3年目の偉業、真面目過ぎる感じのする21歳の若者です。大関昇進が決まったとか、彼が、無邪気に、心からの笑顔を見せてくれる日を楽しみにしています。
1,
お経勉強会について
11月9日(日)の勉強会は、「宮にはじめてまゐるたるころ」3回目の講読でした。
中宮定子の元に仕えた清少納言が、まだ新入りの女房だった頃のお話です。
定子のところへ、兄の伊周がやってきたことで、清少納言はピンチに陥ります。伊周は今を時めく貴公子で、清少納言が遠くからチラッとお顔を見ただけで、オロオロドキドキするほどの憧れの人。その人が自分の目の前に座って親しく話しかけてくる、宮中のすべてに不慣れで、自信のなかった清少納言が、消え入りそうになるのも分かりますね。その時、また先駆を追う声がして、さらにまた一人の貴人が定子のサロンに到着、さて、清少納言はどうなったのか、とても興味がありますが、それ以上は書いてありません。
変化の者、天人などの下りきたるにやとおぼえしを、さぶらひ馴れ、日ごろ過ぐれば、いとさしもあらぬわざにこそはありけれ。
これは何日か経った後の彼女の感想です。
あのときは、この世の者とは思われない方が下りてこられたと思ったけれど、宮仕えに馴れ、何日か経ったあとで思えば、べつに、どうってことのない、普通のことだったんだわ。
彼女の筆は、スラスラ走って、別の大事件を伝えてくれます。
ものなど仰せられて、「我をば思ふや」と問はせ給ふ。
御いらへに「いかがは」と啓するにあはせて、臺盤所のかたに、はなをいと高う
ひたれば、「あな、心憂。そら言をいふなりけり。よし、よし」とて、奥へ入らせ給ひぬ。
これが、大事件なのです。
定子中宮は清少納言が大好きです。清少納言に「少納言も、私のこと好き?」とお聞きになります。清少納言は、「どうして、そんなこと、大好きでないわけがありません。命より大切なお方ですもの」と答えたはずですが、「どうして」と言ったときに、臺盤所の方で「ハックション」と大きなくしゃみが響きました。定子中宮は「ああ、嫌だ、嘘をついたのね。もういいよ、もういいよ」と拗ねて奥へ入ってしまわれました。くしゃみは「嘘のしるし」だとされていたようです。さあ、大変。定子中宮はおちゃめな方で、もちろん本気で怒っておられるわけではありません。しょんぼりと、局に下がった清少納言のもとへ、すぐに中宮からの歌が届き、清少納言もそれに返歌をして、一応上手くおさまりますが、清少納言としては、一体、誰が、あのときクシャミをしたのか、クシャミの主への怒りは当分おさまりそうにありません。
「はなをひる」というのは、クシャミをするという意味です。クシャミというのは厄介なもので、本人はスッとしますが、周りはドキッとしてしまいます。この場合はそのタイミングが絶妙だったので、清少納言にとんでもない災難がふりかかったのですね。お気の毒。
枕草子の、準備していた章段は、一応お終いです。
12月は13日(土)午後1時からです。土曜日ですのでお間違いなく。
枕草子を、「春はあけぼの」から総復習します。
2,
ご詠歌練習会について
21日(金)の練習会では、いつもお唱えするご詠歌の歌詞をしっかり確かめながら、1曲、1曲、丁寧に練習していきました。途中、お仲間のYさんが、30pほどのご詠歌の椅子から、ころんと転がり落ちてそのまま眠ったようになりました。みんな、騒然、呼びかけても反応が無いので、娘さんに連絡し、救急車も呼びました。娘さんも救急車もすぐに駆け付けて、かかりつけの病院に運び込むことができました。娘さんからの報告では、救急車の中で意識も戻って、病院からは何も心配するような症状はないと言われたとのことでした。本当に、本当に、ほっとしました。
Yさんが救急車で運ばれたあと、ご詠歌仲間はそれぞれに「これが自分だったら」と我が身を振り返ったようです。みんな、80年90年と長―く使ってきた身体です。いつ、何があっても不思議ではありません。まさかの時にどうするか、緊急連絡先を誰にするか、それぞれ、自分のこととして考えるいい機会になりました。いつ、何が起きるか分からないからといって、部屋に閉じ込もってしまっては、まだまだ使える命を無駄にしてしまうことになります。まさかの時の覚悟を持ちながら、前を向いて、出来るだけ長く、命ある今の自分を生かしていきましょう。
12月のご詠歌はお休みです。
3,福満寺寄り道、わき道ウォーク
10月29日伊勢の山田奉行所記念館に出かけました
朝8:34の近鉄五十鈴川行急行に乗車、伊勢市駅で下車。8番乗り場から9:30発の大湊行の三交バスに乗り、馬瀬口で下車、あとはてくてく歩きました。参加者は13名、快晴です。田んぼや畑が広がる中、農道のような、ちょっと細い道を辿ります。道沿いに水路が張り巡らされています。この地域は江戸時代は宮川と勢田川の間の湾、湿地帯、だったとのこと、明治時代に本格的な干拓、開墾事業が行われたのだそうです。山田奉行所記念館まではおよそ30分、気持ちよく歩きました。
記念館では案内の方(私たちと同年代と思われる男性)が待っていてくださいました。20年前、この記念館を建てるのに尽力された方のようで、いろんな人に来てもらって、案内し、おしゃべりするのが楽しくてしようがないという感じでした。
奉行所というのは時代劇によく登場しますからおなじみですね。江戸の南町奉行所、北町奉行所が有名ですけれど、徳川家康は天下を修めるのに、江戸から離れた地域にも奉行所をおきました。1番目はオランダ貿易に湧く長崎、2番目は金山のある佐渡、そして3番目におかれたのが、勢州山田奉行所です。この地は伊勢神宮の護持も当然ですが、海運の盛んなところで、多くの人や物が行き交う重要な場所だったのです。
山田奉行所の初代奉行は津市ゆかりの長野内蔵允友長、第7代が花房志摩守幸次、この時代に、今、記念館がある小林という場所に奉行所が移されたようです。
そして、第18代の奉行が、大岡能登守忠相、後に越前守になった有名人です。江戸から派遣されて、4年間勤務、のちに江戸南町奉行になりました。
山田奉行所は、1868年、明治になるまで、48代続きました。
案内の方が言われるには、「記念館は建てたけれど、中に入れるものが何も無かった、それで、奉行所に勤めていた与力や同心の子孫をたずね歩いて、残っていたものを寄付してもらったんです」紋付の裃、鑓や刀、今では色んな興味深い品々が展示されています。
「お昼のお弁当はここで食べていいですよ。」と案内されたのは、なんとお白洲に面した縁側(と呼んでいいのかな)、北町奉行の遠山の金さんが、片肌脱いで、桜吹雪を見せるあの場所です。うらうらと小春の日差しが気持ちよく、お白洲を前に、お弁当を広げて、「サイコー」の気分でした。
3年前、令和4年の9月、杉山さんの案内で、勢田川の船参宮に出かけたことがあり、 神社(かみやしろ)港から「みずき2号」に乗船しました、船頭さんが、昔、遠州清水の次郎長親分が船団をしたて、大勢の子分たちを引き連れて、このあたりへ乗り込んできたという話を聞かせてくれました。地図で見ると、奉行所と神社港はすぐ近くです。奉行所に緊張が走ったのだろうな、当時のお奉行様は誰だったんだろう、大変だったろうなと、色んな想像を巡らしています。
次回は11月26日(水)伊賀焼の窯元、永谷園へ出かけます。
4, 瞑想
どうぞ、お出かけください。庭は今ツワブキの黄色い花が満開です。20本くらいしかないフジバカマにアサギマダラが来てくれました。運が良ければ出会っていただけるかもしれません。ニシキギが真っ赤に紅葉しています。楓は暑さにやられて、天辺が枯れたようになっていますが、これから色づくはず、短い秋がここにはまだ残っています。
枕草子に登場する、1行にも足りない、短い短い章段を紹介しておきます。
岩浪古典文学大系本 小学館の全集では257段
279段 たふときこと、九條の錫杖。念仏の回向。
尊いこと、九條の錫杖を唱えること、念仏のあとで回向文を唱えること
九條錫杖はしゃんしゃんと錫杖を振って唱えるお経です。福満寺では1周忌の法要のときと、7月24日、初盆の精霊を送る時にお唱えします。錫杖の響きが一切衆生の菩提心を引き起こし、成仏できるようにするのだと言われています。ずっと以前にたよりに書いたのですが、私、弘月も僧侶ですから、錫杖を振ることがあり、新しい錫杖を試してみようと居間で振ってみたことがあります。座布団の上で丸くなってスヤスヤ寝ていた猫が、「シャン」と音が響くと同時に、30pほど飛び上がって、狂ったように逃げ出して行きました。動物にとっては大嫌いな音のようで、最近思うのは、熊さんも多分逃げるのではないかな、里へ下りて来なくするために役に立つのではないかな。昔、修験者が山に入る時は、必ずほら貝と錫杖を持っていったのも理由のあることだったのですね。
回向文は 願以此功徳 普及於一切
我等与衆生 皆共成仏道
頭から読めば
がんにしくどく ふぎゅうおいっさい
がとうよしゅじょう かいぐじょうぶつどう
読み下し文にすれば
願わくはこの功徳をもって 普く一切に及ぼし
我らと衆生と 皆共に仏道を成ぜん
回向文を唱えるのは読経の最後です。しっかりお経を唱えて、そのあとに、「私の読経で功徳が得られるなら、それを私だけではなく、すべての衆生にも回してください」
回向文ってすごいなと常々思っていたのですが、清少納言も「尊いこと」と思ってたんだと嬉しくなりました。
小学館 日本古典文学全集
117段 湯は、ななくりの湯。有馬の湯。玉造の湯。
「ななくりの湯」とは、もちろん「榊原温泉」です。津市の温泉が有馬、玉造を抑えて何とトップです。お肌がつるつるになるいいお湯です。嬉しいですよね。
245段 ただ過ぎに過ぐるもの 帆あげたる船。人のよはひ。春、夏、秋、冬。
「ただ泣きに泣く」とか「ただ笑いに笑う」というのはその動きをひたすら強調する表現方です。「ただ過ぎに過ぐる」というのは、「ただ、もう、過ぎる一方、」とか、「どうしようもなく過ぎてしまう」とか「過ぎていくものにお手上げ状態」の様子を言います。
過ぎていくのをどうしようもなく見送るしかないのは、風を受けて滑るように過ぎていく帆掛け船、そして、人の年齢、春、夏、秋、冬
素敵だと思いませんか?青い海原を、真っ白な帆を上げた船が滑るようにすーっと小さくなってやがて消えていく、時の過ぎるのをこんなに綺麗な画像にして見せてくれるなんて、清少納言はただものではないと思うのです。どうしようもなく過ぎていくものを前に、今も昔も、はあーっとため息をつくばかりですね。
南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 合掌
詳しくは寺へお尋ね下さい
電話059-228-7841