令和8年9月28日
10月がやってきます。東京では金木犀が香っているとTVで言っていますが、こちらは、その気配さえありません。彼岸花は見事に咲きましたが、植物たちもきっと大変なのでしょう。頑張ろうね。
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お経勉強会について
9月13日午後1時より勉強会を開きました。
6月に平家物語を読み終えて、7月8月の夏休みを挟み、久しぶりの勉強会です。
今回からテキストが「方丈記」に変わりました。
ただ、テキストを読み始めるのは10月からです。今回の勉強会では、「方丈記」の書かれた時代背景を理解いただくために、12世紀、13世紀の年表を配布し、ざっくりと記事を読んでいただくことにしました。
時代を動かしているのは貴族たちから武士へと変わり、政治の中心は、京都から遠く離れた鎌倉へと移ってきています。今回は、この時代に堂々と生きた西行法師を紹介しその魅力をお伝えしようと思います。
西行は俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)といいます。院の庁に仕える北面の武士でした。藤原氏全盛の時代には、藤原氏が摂政関白として政治を操っていましたが、白河天皇(72代)は院(上皇)となられても政治から身を引かず、8歳の堀河天皇(73代)の後ろで政界を動かし続けていました。この政治体制を「院政」といいます。堀河天皇はよくできた方で、穏やかに執務をされていたようですが、孫にあたる鳥羽天皇(74代)の時代に入るとややこしくなってきました。年表に「院司と朝臣の争い起る」という記事が出ています。1129白河院が亡くなった後の記事です。天皇と院と二つトップがいるわけですから争いが起きるのは当然ですよね。この後、院の庁を守るために北面の武士という親衛隊のような組織がつくられました。佐藤義清は鳥羽院に北面の武士として仕えていたわけです。鳥羽院のあと位につかれたのが崇徳天皇(75代)です。崇徳天皇は鳥羽天皇の后待賢門院の御子ですが、実は白河院の御子なのだと宮中では知らない人がなかったようです。鳥羽院は崇徳天皇をほとんどだまし討ちのようなやり方で引退させ、自分ともう一人の后、美福門院の間にできた皇子を近衛天皇(76代)として位につけました。このごたごたに、平家や源氏や藤原氏が加わっておきたのが「保元の乱」(1159)です。乱に敗れた崇徳院は讃岐に流され、そのまま讃岐で亡くなりました。
西行は23歳のときに出家しましたから、崇徳院が流された時にはすでに都を離れていたようですが、崇徳院は西行の1歳年下、年少のころからよく知った間柄だったのではないでしょうか。崇徳院はお気の毒なお方だと常々心に思い続けていたのかもしれません。西行の出家の理由は謎ですけれど、この皇室のごたごたに嫌気がさしていたのも一因でしょう。
西行の系図を見ると由緒正しき藤原氏の一族で、先祖は奥州藤原氏に繋がっています。
28、か29歳頃、先祖の地を訪ねて、岩手県の平泉に出かけます。戻ってからは高野山に上り、出入りはあるものの、30年間を高野山で過ごしました。保元の乱が起きたのは西行が38歳のときです。高野山を下りて仁和寺に謹慎中の崇徳院を訪ねますが会えず、これが永遠の別れになります。50歳のとき、西行は四国へ渡り、崇徳院の御陵のある白峰寺を訪ねます。当時、都では大火、大地震、疫病といった災害が続けざまに起き、これは崇徳院の怨霊の所為だと人々が恐れていました。西行は、白峰の御陵に崇徳院を尋ね、もういいじゃないですか、天皇の位など今更どうなるものでもないでしょうと、和歌を詠みかけ、怨霊の怒りを鎮めたと言われています。
福満寺は、平成17年から30年まで、四国遍路を続けていましたから、81番白峰寺を覚えておられる方も多いでしょう。79番天皇寺は崇徳院の御所があった場所に建てられた寺です。近くに八十場の泉という清らかな泉があり、泉の水を湛えた小さな池があります。崇徳院が亡くなった時、都から検死の役人が到着するまで、院の亡骸をこの池に漬けて保存したと言われています。
白峰寺の近くには「西行の道」と書いた案内板がでており、いつか歩きたいなあと思っているうちに叶わぬ願いになりました。
西行は60歳頃高野山を下り、熊野から伊勢へと移動し、伊勢で数年過ごしました。
いうまでもありませんが、陸路の移動はすべて徒歩です。人間という生きものはかなり丈夫にできているのですね。
伊勢にいるとき、都から手紙が届きます。平家に焼き討ちされた奈良の東大寺の再建のために大勧進が必要になったこと、その勧進の役の一端を西行に頼むということ、依頼主は重源上人です。西行より3歳年下ですが、西行と同じように、吉野や大峰などの霊山で修行をし、強い意志を持って東大寺再建を果たした人物です。西行に大勧進の役がまわってきたのは、一つは奥州藤原氏に縁があることでしょう、奥州には砂金がありますから。もう一つは鎌倉を通過しなければならないこと、鎌倉にいる源頼朝と奥州藤原氏の藤原秀衡とは冷戦状態にありましたから、頼朝の機嫌を損ねると奥州へ行けなくなる可能性もありました。北面の武士として弓馬の道に詳しく、また、歌人として人気の高い西行なら、頼朝も気に入るのではと重源は考えたのでしょう。果たして、頼朝は大喜びで西行を受け入れ、一晩語り明かし、かなりの額の勧進を申し出たと伝えられています。西行は無事平泉に到着し、勧進は成功、その年の10月砂金450両が都に届けられました。
西行は70歳に近づいていました。都に戻ってからは読み溜めた和歌を整理し、「山家集」として今に伝えられています。1190年2月16日、河内の国、弘川寺で一生を終えました。享年は72歳です。
生来の歌人でした。自分の心に浮かぶ思いがそのまま歌になる人でした。
桜を愛し続け、かねての願い通りに満開の桜の下で旅立ちました。
吉野山こずゑの花を見し日より 心は身にも添はずなりにき
春風の花を散らすと見し夢は 覚めても胸の騒ぐなりけり
もろ共に我をも具して散りね花 憂き世を厭ふ心ある身ぞ
願はくは花の下にて春死なん その二月(きさらぎ)の望月(もちづき)のころ
10月は11日(日)午後1時から、「方丈記」を読みはじめます。
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ご詠歌について
9月は連休明けの24日が練習日でした。
そろそろ、新しい曲を練習し始めようと思っています。
10月は21日(水)午後1時から練習を始めます。
3、 4ヶ寺合同のバス旅行
8月は晴れが続き、猛暑に悩まされましたが、9月に入ると雨ばかり、9日、10日のバス旅行は道成寺、龍神温泉、高野山を巡る旅、線状降水帯発生のおそれのある和歌山県へ突入する旅になりました。津を出るときは小雨でしたが、西名阪道を松原で下り阪和自動車道に入ると、水しぶきで窓の外も見えないようなどしゃ降り、ドライバーはもう何年も私たちの旅を助けてくださっている運転技術の確かな方なので、安心してお任せです。10年以上前にこのコースを計画したときには道成寺の石段の途中まで冠水状態で、お参りができず、今回もまた雨に祟られるかと少々不安でした。でも、門前のお店で昼食をいただき、バスを境内まで乗り入れて道成寺へ。今回の旅には住職の姉で、弘月の長女Sも川崎市から参加していたのですが、道成寺のことは何も知りません。お坊さんの絵解きを見て、初めて安珍・清姫を知りました。「ストーカーじゃん、怖い、怖い、」というのが彼女の感想でした。多分、もう来ることはない道成寺、かなり雨には叩かれましたが、何とかリベンジはできました。
その夜は龍神温泉に泊まります。高野・龍神スカイラインという山道をバスはひたすら走ります。紀伊半島のど真ん中にある温泉です。今回の宿は「季楽里」という国民宿舎、清潔で、こじんまりした、ゆっくりできるお宿です。
「日本三大美人の湯」と呼ばれる龍神のお湯、さすが、です。榊原温泉のお湯をもっと、もっと、とろーりとさせた感じ、気持ちの良いお湯です。
お夕飯も、ほぼ全員が完食、素敵なシェフがいるのでしょう、本当に美味しかったです。お休み前にもう一度お湯に浸かって、気持ちよくお布団に入りました。
翌朝午前3時前、思いもしない事が起こりました。弘月は5時前にスマホを見て知ったことなのですが。
元気印1番のIさんが倒れ、Kさんが付き添って救急搬送されたというのです。私たちはただ祈るしかありません。朝食前にKさんから添乗員さんに連絡がはいり、点滴で落ち着いたから戻るとのことでした。
一番心配された脳梗塞ではないし、体に特別な異常はない、でもできるだけ安静にとドクターからいわれたそうです。
高野山ではIさんはバスでお留守番だと皆が思っていましたが、外の方が気分がいいと、いつもよりゆっくりではありましたが、奥の院への参拝も無事に済ませました。
Iさんはいつもは福満寺のグループですからKさんと同室になることはありません。たまたま、宿の部屋が3人部屋だったので、Kさんと古くからの友人だったIさんに千福寺さんのグループに入ってもらいました。Kさんはかつて、突然倒れたご主人を介抱したことがあり、その経験が、今回見事に発揮されました。住職によると、宿の対応も完璧だったといいます。有難いことです。やはり、仏様が守ってくださったんだと弘月は確信しています。
Iさんは、旅から帰って、かかりつけのお医者さんに診てもらったところ、「脱水」といわれたそうです。この夏何度も注意を呼びかけられた「脱水」です。本当に怖い症状を引き起こすのですね。お酒大好きなIさんですから、納得できる診断です。
次回の4ヶ寺の旅は、12月9日(水)知多半島の旅です。
知多四国の札所寺野間大坊で法話を聞き、えびせんべいの里、魚太郎、佃煮街道、めんたいパークでお買い物をして帰ります。行程表は寺においていますので、参加希望の方はご連絡ください。参加費はお1人11000円です。
4、よりみち・わきみちウォークについて。
9月27日(日)富田の鳥出神社の捕鯨行事
10月6日(火)鳥羽竜発掘現場見学
来月号で報告します。
5,瞑想について
少し涼しくなってきました。
お時間の許す方は、どうぞお出かけください。
西行が2度目の奥州の旅に出かけたのは69歳のときです。最初の旅から40年という歳月が流れていました。はるか、かなたの、奥州を目指して、もう若くはない西行がひたすら歩を進めます。静岡県掛川市の小夜の中山にさしかかったとき、自然に歌がこぼれました。
年たけてまた超ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山
こんな年になって、また超えることになるなんて思いもしなかった、
命があったんだなあ、小夜の中山よ。
小夜の中山というのは鈴鹿峠、箱根山と合わせて東海道の三難所と呼ばれたそうです。
東海道が整備されたのは江戸時代ですから、西行の歩いた道はもっと険しかったかもしれません。
弘月の大好きな和歌の一つです。「命なりけり」という表現が身に染みます。
長く生きてきたんだなあという感慨が、痛いほどに伝わります。
ところで、82歳の弘月も最近「命なりけり」とつぶやくことが増えてきました。
今、大相撲の秋場所を滋弘と並んで観戦中です。最近昔の場所の映像がよく流れるようになりました。懐かしい関取衆が、次から次と画面に登場します。埋もれていた記憶が次々と蘇ってきます。「命なりけり」とつぶやきたくなるのです。
小学校高学年頃のことだと思いますが、津の城跡でお相撲を観たことがあります。千代の山と栃錦を覚えているのです。そんなことがあったなんて、自分でも??ですが、確かめる友人も亡くなってしまったし、ネットのAIも答えてくれません。70年も昔の話です。「命なりけり」です。
南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 合掌
詳しくは寺へお尋ね下さい
電話059-228-7841