ちょっと古い写真をご覧いただきながら、すこし昔の榊原温泉のお話をお聞きください。
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 これは昭和初期の写真ですが、貝石山(右)の対岸に崩れかけた屋根(左)が見えますが、これが湯治場の名残である「湯所」にあたります。この場所(神社の裏)に「湯元跡」の表示が残っています。ちょうど絵地図にある橋の上から写された写真です。


 湯治場は明治の中頃まであったようですが、その跡地には民営の旅館「保寿園」が明治27年に出来ております。最初は大変にぎわったと伝えられていますが、大正を経て昭和になった頃は温泉客も遠のき、学校の先生の下宿などにも使われていたそうです。この写真はそのころの保寿園です。


 昭和の初め頃に少し東で新しい温泉が湧き出しました。そこにお風呂をつくり「榊原新温泉」と名付けられて、村外からの利用も多かったようです。その中に、その生涯を県下の地域事業に捧げてこられた上野市出身の田中善助氏の姿がみられたこと。このことが、その後の榊原温泉を大きく変えていくことになりました。写真は新しい泉源に出来た榊原新温泉です。


 榊原村は田中善助氏の協力を得て、昭和11年12月20日に榊原温泉復興祭を挙行し大きな村おこしに成功しました。もう一度湯治場を復活させよう、うんと形を変えて....。保寿園の立つ神社の隣へ「神湯館」という立派な旅館を建てました。榊原新温泉は「榊原館」と名を変え宿泊が出来るようになりました。写真右が田中善助氏、左は温泉の配管工事。


 観光榊原温泉にするには交通アクセスの確保が必要になり、近畿日本鉄道(近鉄)大阪線佐田(現在の榊原温泉口)駅から山を切り開いての新道をつくりました。温泉と駅を結ぶ「温泉バス」も走りました。田中氏は開発の陰には必ず破壊が伴う、すこしでも自然にお返しをと道にサクラを植えられました。今はサクラの名所になり、過去にはバスが谷に落ちるのを幾度か防ぎ、人の命までも守ってくれました。


 西には「温泉バス」、東には「巴バス」が走り神社の西にはバスセンター(写真)が出来ました。何の変化もない榊原村にとって大きな出来事です。平行して、温泉復興祭の1カ月前には村に初めて電話が引かれました。旅館が出来たこともあって、米屋さんも出来ました。大きな村おこしでした。


 観光地とするには訪れた人たちに思い出をたくさん持ち帰ってもらわなくてはなりません。田中氏のアイデアは今も教えられることがたくさんあります。神湯館の大浴場に京都の金閣寺を型どった建物をつくり、1階は浴場、2階は売店、3階には貝石山から採集される化石などの展示にあてられていました。


 大浴場の金閣寺に対して、家族風呂には三十三間堂を形どって川縁に建てられました。上の写真とあわせてご覧になるとよくわかりますが、金閣寺、三十三間堂、太鼓橋と榊原温泉の大きなモニュメントです。この写真は太鼓橋からで、家族風呂とその向こうに神湯館の本館が望めます。


 貝石山の麓を流れる清流で魚釣りを楽しんでおります。このあたりは「唐戸淵」といって貝石山の真下になります。


お話:ふるさと三重の語り部 増田晋作
写真:語り部家に残る写真アルバムと、20年ほど前に久居市榊原町の上山因夫さん、服部久夫さん、萩野治央さん所蔵の写真アルバムから複写させていただいた、いずれも語り部所蔵のものです。