かんこ踊り  
かんこ踊り

榊原一区かんこ踊り

 一区のことを昔は下村といいました。というより下村を榊原の一区にしたようです。今では「下村」というバス停が出来ているので、その辺りを下村といっていますが、嫁落としから大鳥との村境までが「下村」でした。榊原には下村のほかに平生(ヒロと呼ばれている)、中ノ村(榊原湯元)、上ノ村・一ノ坂があって、二、三、四区に割り振られています。明治22年に町村合併で谷杣村が榊原村に編入され五区となり、さらに昭和30年には八知山と松ヶ瀬が加わって六区となりました。
 現在榊原町には一区から五区まで五つのかんこ踊りが保存されていますが、踊り方で五区だけは小倭(白山町)の流れを汲んでいるために、拍子など基本的な部分に相違があります。一区から四区までは同じ村でしたので、同じ踊りをそれぞれの区で発展させてきたのでしょう、基本的なところは同じですが歌などは全く違います。
 さて踊りを一区に戻しますが、起源はいつかわかりません。残される道具の中に年号などが記されていますが、文化11年(1814)がいちばん古く、始まりはこれよりも遙か昔にさかのぼるものと思われます。なぜならば、道具の新調は古くなって作り替えることもありますが、記念すべき踊りを機に作ることもあります。
 文化11年というと「神礼」という踊りを新しく興しています。この踊りは他の踊りの拍子や節にない模倣性が全くない一区独自の踊りです。作詞は長谷川儀蔵氏とされていますが、これだけの踊りを創作できることは起源とは考えられません。かなり踊り込んで消化され尽くされたものと思われます。歌の内容は下村のことではなく射山神社や榊原温泉のこと、また村の雨乞いのことなどで組み立てられています。
 道具、主にかんこ(鞨鼓)の胴の内側に記されている年号では、その後は明治22年(1889)に「四郷入記念」の文字も確認できますので、榊原村と谷杣村の合併を記念して榊原四郷が一堂に会して、谷杣歓迎の踊りが繰り広げられたのでしょうか。その後、大正11年(1922)にもかんこが新調され「日露」という踊りが作られています。作詞は並木才松氏ですが拍子や節は四区の「御利生」踊りとよく似ています。
 昔よく聞いた話に「よその区から踊りを盗まれないよう、杉ナ谷などの奥深く山の中で練習をした」だそうです。また長男は家のあと取りで、長男に踊らせることで保存が出来るということなのでしょう「弟には踊らせん。養子でよそに出ていくと踊りも盗まれる」こんなこともよく聞きましたが、自分たちの一区の踊りを大事にする気持ちがよく伝わってきます。
 大正13年には村長をしていた一区の増田茂一氏が郵便局を開局したので、その祝いに村では花火を、一区からは「開局入れ歌」を作って局前に踊り込んでいます。その日が9月1日だったことから、最近まで愛宕さんの小会式をこの日に充てていました。
 踊りが継続的に完全復活したのは昭和50年で、上山因夫区長の功労でしょう。これを機に次々と榊原の踊りが復活し平成元年10月に実施された射山神社御遷座四百年祭では、幻と言われた五郷入りが射山神社境内で見事に実現しました。さらに平成5年8月には三重県まつり博覧会でも五郷入りを披露しています。
 先人の残してくれた無形の財産です。これからも区民の総意で次の世代に受け継いで行かなくてはなりません。