特別出陳物予定
①観音寺10世朝賢画像
②古文書 徳川家康ほか2名の連署状
③古文書 長束正家ほか2名の連署状
④古文書 家康部下の村越直元書状
⑤古文書 福島正則・池田輝政連署状
⑥古文書 大久保長安ほか2名の連署状
⑦古文書 大久保長安ほか2名の連署状
⑧古文書 徳川家康のふな寿司の礼状
◎9世詮舜と10世朝賢の戦国期
当寺住職は9世詮舜の没後は10世朝賢になる。豊臣秀康没後(1598年9月18日)の2年後の関ヶ原の合戦までに徳川方から観音寺あてに調略書状が卯月に出ている。また5月には秀吉方からの文書も届いていて朝賢の悩みが浮かんできそうである。
しかし、秀吉と詮舜の結びつきから西方として東方の大津城攻撃に参加、9月15日に関ヶ原の決戦は東方が勝利した。
表向きは西方に加勢した観音寺に9月19日には、徳川家康が上京する際に、部下の村越直元から「浦々の船を矢橋まで着けておくように」という書状をもらっている。つまり双方に暗黙の了解があったと思われ、その後豊臣秀吉の元で琵琶湖船奉行を務めていたにもかかわらず、10世朝賢は徳川家康の下で同じ琵琶湖の船奉行をまかされ当寺13代朝舜まで船奉行を続けた。
また、豊臣の蔵入地を9世詮舜が管理していたが、徳川時代の蔵入り地も観音寺10世から13世朝舜まで管理を任されている。
秀吉の死、詮舜の死、朝賢へのバトンタッチ、関ヶ原合戦、徳川幕府の樹立へと激動時代を生き抜いた観音寺の2年間が6個の観音寺文書に集約されている。